この人馬の継立が宿駅の負担の最たるもので、この負担をするものが「伝馬役」と「歩行役」であった。伝馬役は馬の背で荷物を運ぶ義務を負うもので、歩行役は人間の背で荷客を運ぶ義務を負うものである。この義務負担者が求めに応じて次の宿駅へ運ぶ制度が伝馬制度である。幕府の道中奉行の支配下にあった。
関が原役後、徳川氏による伝馬制度が設けられたのは東海道では慶長六年(一六〇一)であるが、中山道の場合は翌七年、山村道祐宛に次の伝馬朱印状(沿革誌)がある。
家康公朱印
此朱印なくして伝馬押出者有之者、其町中之者出合うちころすべし、若左様にならざる者においては、主人迄可申上者也、仍而如件 (御嵩村旧記中)
慶長七年二月七日 山村道祐
これを出しているから中山道でも、慶長六年の東海道についで、伝馬が実施されていたことがわかる。『近世宿駅制度の研究』(児玉幸多著)によると、慶長七年六月二日伊奈忠次らの発した定書には、
伝馬荷物者壱駄付丗貳貫目并駄賃者四拾貫目相極候、若於二難渋輩一者以二書付一可二申上一事(駅逓史料伝馬巻一 参州古文書)
とあって、伝馬と駄賃とを区別している。また『駅逓志考証』の定書の中に、
駄賃祢(ね)積之儀者、奈良屋市右衛門・樽屋三四郎申付候条、此両人切手次第可レ仕事、
とあり、駄賃は奈良屋と樽屋に定めさせたことがわかる。この両人は江戸の町年寄を勤めた者であるが、この時には宿駅の伝馬に関することを掌っていたのである。この結果、同月一〇日に両人の名をもって、東海道・中山道の諸宿に対して、「定路次中駄賃之覚」という通達を出し、各宿間の駄賃を公定したのである。戦国時代における武田氏の場合には、一日の伝馬を四疋と定めていたのが、この時になると一宿に三六疋の馬を用意させるようになり、公用通行者の量がいちじるしく増加していることが知られる。
慶長六年に宿駅として定められた所は、東海道では鎌倉時代以来の宿が多かった。また中山道にしても下諏訪・塩尻・洗馬・贄川・奈良井・屋分原(やぶはら)や福島などは少なくとも永禄一一年(一五六八)には伝馬宿であったことは、武田信玄が相模海蔵寺住僧に、伝馬七匹を与えた文書(相州文書)によって明らかであるとしている。
江戸幕府が交通に関する職として道中奉行を任命したのは、万治二年(一六五九)で、大目付高木伊勢守に兼任させたのが最初である。その後元禄一一年(一六九八)に勘定奉行松平美濃守重政に加役を命じ、それより大目付と勘定奉行より一名ずつが兼任することになった。五街道に関することは、すべて道中奉行の管掌するところとなり、宿駅は一般の都市・村落として領主の支配を受けるが、伝馬・旅宿・飛脚等については、道中奉行の指揮を仰ぐという二重支配を受けることになったのである。これに付属して伝馬役と歩行役があり、中山道では慶長七・八年に多くの宿に伝馬の制が設けられ、寛永ころからお定人馬五〇人、五〇匹となったようである。ところが木曽十一宿ではこれだけの人馬を常備維持することは困難であるという理由で、万治二年(一六五九)から谷中の問屋が江戸へ出かけて、二五匹に制限されるよう嘆願した。その結果、万治四年三月聞届済となって、二五匹以外は人馬のないことを告げて、荷物の着け切らないものは、先の馬が帰ってから継立して差支えないという裁断を得て帰った。次いで三月二五日付で、一般的に一人一日の継立二五人・二五匹に過ぎてはならぬと規定された。
その後寛文五年(一六六五)一一月、再び幕府は伝馬の員数を規定して、東海道は一〇〇人・一〇〇匹、中山道は五〇人・五〇匹とした。木曽宿々は再びこれに対して愁訴したが、前後の宿々との関係上木曽のみ二五人・二五匹にすることは出来ないが、人馬の払底は事実と認め得るによって通行の諸大名にその旨通知しておくということになった。けれどもこれは事実としての問題で公認されたことではなかった。ことに元禄の始め前後の、宿々に助郷の設定があって以来、通行の諸大名の人馬を要求することが多く、いよいよ困難を感じたから、元禄一三年(一七〇〇)からまた訴願を始め、同一四年に至って木曽十一宿は伝馬二五人・二五匹(人馬共五人・五匹の予備を含む)ということに確定され、この常備人馬数をもって伝馬を勤めることになり、以降制度改革に至るまで保持された。
覚
十一宿御伝馬役人困究ニ付大名衆上下之節先年より被仰出候通弥廿五人廿五疋に而相勤申度旨今度奉願候依之被 仰出候ハ被懸御相談御老中へ御窺の処御定の廿五人廿五疋に而相勤候様ニ勿論互ニ申合手支無之様ニ可申付之旨且又大名衆へも被達候人数心得有之候様にと被仰通候の由安藤筑後守久貝因幡守殿よりの御證状に候併御用通之節ハ合宿可仕之旨被仰付候之間右之趣承知仕末々迄堅相守御定廿五人廿五疋之人馬を以往還無滞様ニ急度可相勤者也
元禄十四年巳四月 山村甚兵衛(良忠)
馬籠宿
(大黒屋宿村規矩細記録)
山村家家老連名の申渡書の方は、人馬の継立ては二五人・二五匹で行うことになり、助馬・助人足は出さないということに決定した。しかし相対で二五人・二五匹以上を雇うことは咎(とが)めないという達し書であり、また助人馬のことについて尋ねられたら、木曽には助村(助郷)というものは一切ないと答えよ、ということを付け加えてある。
福島役所山村家家老連名の達書を掲げると次のとおりである。
覚
一今度十一宿人馬御訴訟申候ニ付、御定廿五人・二五疋(ひき)を以って、諸大名様方御荷物持送り可仕旨、被仰出候仍之尾州ニ而御家中江御触有之、向後弥御定之通廿五人・廿五疋出シ助馬・助人足ハ出シ不申筈相極候、併相対ニ而右御定之外雇申候儀ハ不苦候との御事に候間、尾州御家中に而も御定廿五人・廿五疋ニ而相勤可被申候事、若助人馬之義御尋有之候ハゝ木曽ニ助村一切無之段可被申候達候事、
右之趣末々迄堅相守可被申候以上、
(元禄十四年)巳四月 (山村家々老)千村武兵衛・外三名
右の幕府・山村家の両申渡書によって、木曽十一宿の常備伝馬役定数が二五人・二五匹に決定され、それ以上に助馬・助人足は出さなくてもよいこと、もしそれ以上に人馬が必要なときは相対賃銀(その時の相場賃銀)で雇うように、ということである。そして大通りの時の人馬継立ては、「合宿」という形をとって行うようになったことである。合宿というのは一宿が単独で継立するのではなく、二つ以上の宿が合同して行うことである。木曽十一宿の場合は、上(かみ)四宿(贄川・奈良井・藪原・宮越の四宿)、中(なか)三宿(福島・上松・須原の三宿)、下(しも)四宿(野尻・三留野・妻籠・馬籠の四宿)という三つの合宿が作られていた。そして、その後は十一宿間を三継~六継ぎで継送りすることが多くなった。正徳二年(一七一二)三月、道中奉行の触書に、公家衆・門跡方道中往来の時人足三二人、馬三〇匹に限られていたが、近年はお定の人馬のほかに添人馬多く要求される向があり宿困窮におよぶから、全部で五〇人・三五匹のほか一切出してはならないとし、この定のほかこれを超える要求に応じてはならないと申し渡している。
伝馬役は元来宿の役として出さなければならないものであるが、実際には馬を飼養しているために藩からも相当な手当があり、殊に享保九年からは伝馬役に対して一宿五十石宛の補助を受け、更に公用以外、一般の交通・荷物の逓送を取り扱うので賃銭収入も増加し、利益が多分にあるので後には伝馬役は権利株となったのである。
利益が多いために庄屋・問屋・年寄・本陣等みな伝馬役となっているので、後には家の株のようになってしまっている。
伝馬役も最初は二五匹を二五軒で勤めていたが、後には株を分けたので伝馬役を勤める家数が増加した。元禄八年(一六九五)正月、木曽十一宿が宿助成嘆願書『県史史料編巻六』に各宿の役人の員数が所収されている。
一定納米四拾石 馬籠宿
家数四十九軒
内 二軒 問屋・庄屋 但御伝馬役相勤申候、歩行役ハ不仕候、役料無之候、
四軒 年寄 御伝馬役・歩行役共相勤申候、役料ハ無之候、
二軒 馬指定役
弐拾四軒 御伝馬役・歩行役共相勤申候、
十五軒 歩行役人
二軒 水役人
右のうちで伝馬役は一宿二五匹と囲い馬五匹があるから、三〇匹となる。これを勤める軒数をみると、問屋庄屋二軒、年寄四軒とほか二四軒の三〇軒で勤めているから、一軒で一匹宛勤めていることになる。
歩行役は年寄四人、伝馬役を勤めている者二四人、歩行役のみを勤めている者一五人の計四三人で勤めることになっている。
伝馬役は本来自身で馬を飼養している者が役に出るのであるが、前掲の宿役の一覧表にみるとおり問屋や、年寄役が伝馬役をしている。また歩行役も兼ねている。伝馬も歩行役も一日に二五匹・二五人は要求(仕事)があれば勤めに出なければならないから、兼務したり、また年寄などの役人は実際に稼動することは出来ない。これらは当然名義を持つ本人が出るのではなく、人を雇って伝馬役・歩行役の仕事を経営する株主となって利益を得るようになったのである。馬籠では幕末の天保二年(一八三一)になっても、御伝馬株三〇人で元禄以来変わりない。村によっては奈良井宿などでは四七株を七五軒で持っているというところもある。
歩行役もまた伝馬役同様、一宿二五人の定のほかに五人の囲い人足がある。これも三〇軒で勤めるべきであるが、株となって多くの家数で分担している。歩行役も自分が人足に出て逓送の仕事に当らなければならないが、これも実際は歩行役の者が自身で出ないで人を雇って勤めていたものもある。
歩行役は伝馬役よりも格が低い。そして利益が少ないので多分に役(えだち)の性質が残っており、やむをえず勤めている状態である。前頁に掲げた元禄八年の馬籠宿の宿役の書き上げは、歩行役二五人、囲い人足五人を含めて三〇人を四三軒で勤めているが、その後の宿の書き上げをみると、伝馬株は変わりないが、歩行株は次のように変わっている。
(表)
『木曽村方の研究』によると、享保九年(一七二四)には福島では伝馬・歩行役三〇匹・三〇人を五一軒半(株)で勤めることになっているが、この株を八二戸で分担している。文政一一年(一八二八)には歩行役屋敷七〇軒にて二五人の人足を雇い立てて勤めている。馬籠宿の欄には「伝馬役だけを宿で勤めて、労役の激しい歩行役は山口村と湯舟沢村とに勤めさせている」と記している。