御朱印

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 将軍が宿場の人馬の無料使用を朱印状によって許可したもので、馬の場合を朱印伝馬、人足の場合を朱印人足、その両方を合せて朱印人馬ともいった。
 木曽の宿には朱印状は残っていない。この朱印は馬士が馬を牽く図を彫ったもので、駒牽の朱印ともいった。伝馬の使用者には同じ朱印を捺した許可証が渡されているので、宿ではこれと照合して誤りがなければ、朱印状に書かれている数の人馬を提供するのである。この駒牽朱印は慶長一二年から一六年の間に廃止になり、代って「伝馬無相違可出者也」の九文字を三行に彫り、これを縦に二つに割ったものを伝馬印とした。印の右半分を、慶長一二年駿府に移った家康が使い、左半分は将軍秀忠が持った。その後は三代家光が右半分を、四代家綱が左半分といったように、交互に使用した(相田二郎氏「日本の古文書」による)。
 この朱印によって人馬が許されるのは、時代によって多少の相違はあるが、『駅肝録』によると享保八年現在、次のような場合があった。
 公家衆、御門跡方、京都江御使、勢州江御代参、大坂御城代替り之節引渡、大坂御目付、駿府御目付、宇治御茶御用、二条・大坂御蔵奉行仮役、国々城引渡并巡見御用など、二三件に及んでいる。