人馬の使用者と駄賃稼ぎの者が話し合ってきめる賃銭で、宿の問屋は関係しないものであった。しかし人馬使用者からすれば、それ以外の人馬は問屋で雇い、これだけは別な人から雇うより、問屋を通した方が便利であるために、問屋を通すことが多かった。
その賃銭は不定でたえず変動があり、宿ごとに基準も異なっていて、使用者にとっては不便であった。そのため文政七年(一八二四)、長崎奉行が「一定の賃銭にすることは出来ないか」と道中奉行に訴えた。これに対し道中奉行は評議のうえ、「相対賃銭は御定賃銭の三割増」と通達したことがあった。
諸大名の街道通行には、御朱印や御証文の無賃人馬は認められず、御定賃銭か相対賃銭で人馬を使用しなければならなかった。しかもお定賃銭の使用には制限があり、中山道は五万石以上二五人・二五匹宛二日、一〇万石以上が三日限り使用許可されていた。
特例扱として加賀前田氏は当日一〇〇人・一〇〇匹、前後一〇日二五人・二五匹宛、福井藩主松平越前守は当日と前後二日宛二五人・二五匹が認められていた。実際の通行には右の制限があるので相対賃銭の人馬使用が多かった。