貫目(かんめ)改所

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荷物貫目改役所ともいう。江戸幕府は五街道往来の荷物の貫目を調査させるために置いた役所。慶長六年東海道に伝馬制を定めたときに、一駄の荷は三〇貫として秤で改めることとし、翌年には伝馬荷三〇貫とし、更にその翌年には伝馬荷は三二貫、駄賃荷は四〇貫としたが、後には本馬はすべて一駄四〇貫、軽尻は二〇貫、人足は五貫を基準とした。しかしすべての荷物を宿で計量することは出来ず、また人馬の使用者が大名・旗本などの権威者であったから過貫目の荷物を運搬させて、宿・助郷の人馬を苦しめることが多かった。幕府では正徳二年(一七一二)、各街道に関する條目を定めて取締りを厳重にした。中山道では板橋・洗馬の両宿に貫目改所を設けた。正徳二年に「貫目御改之事」に関する「御条目」が五件発せられている。そのうちの一件を掲げると次のとおりである。
 一、貫目改の儀、荷物銘々掛改候てハ、往還の差支にも罷成候に付、荷物付替候節貫目を引せ、重き荷物これあり候ハゝ懸改候様仕るべく候、且又、惣て旅人に対し、聊も無礼の仕方仕らず、諸事相慎み、かさ高にこれなく様仕るべく候、若御条目并此趣相背くか、或は内々にて賄賂を取候よし、外より相聞候はゝ、何分の曲事にも仰付らるべく候、仍て証文如件
       正徳二辰年三月                     東海道改所
                                    品川・府中・草津
                                   中山道改所
                                    下板橋・洗馬
 草津は東海道と中山道の接続点、洗馬は中山道と北国脇往還(善光寺道)の接続点であったから、東海道と中山道を通る荷物はほぼ計量することができた。次いで寛保三年(一七四三)には日光道中の千住・宇都宮の両宿に、文政四年(一八二一)には甲州街道の内藤新宿と甲府柳町に、天保九年(一八三八年)には中山道と北陸街道の接続点の追分宿にも置いたので、五街道全体を管理することができた。貫目改所へは、幕領ではそこの支配代官所、私領では領主から役人を出張させた。洗馬宿へは松本藩の役人が出役した。その役人の管理下に宿役人や人馬指らが荷物の計量に当った。問屋場が二ヶ所ある宿場では改所も二ヶ所あった。改所の経費として、幕府は最初に設置された東海道の三宿には乾字金六五両、中山道の両宿には年々五〇両を下付したが、その後、正徳金・享保金など貫目が倍のものが鋳造されたので、享保四年(一七一九)から金額を半減し、それぞれ三二両と二五両とにした。貫目改所は明治五年(一八七二)の宿駅制度廃止と同時に廃止された。