お定賃銭の変遷

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中山道のお定賃銭の制度がいつころできたか、はっきりしないが、『中山道御規矩便覧』によると、慶長七年六月二日の定に、「奈良屋市右衛門・樽屋三四郎に申し付候、此の両人切手次第に仕るべくこと」とあるから、伝馬の制度が出来ると相ついで定められたらしい。この駄賃定書によると、伝馬荷物一駄三二貫、駄賃荷一駄四〇貫、乗尻は一八貫(乗尻は軽尻といい、馬に半分荷物をつけそれに人が乗るのである)とその重量を定めた。
 元和二年(一六一六)の定書によると、伝馬・駄賃馬の積荷は、一駄について四〇貫と定められた。馬籠宿から落合宿へ荷物一駄二七文であった。人足は馬の半分で一四文ということになっていた。
 このお定賃銭以外に増賃を取ることは厳しく禁止され、若し違反者がでた時は、その宿駅から過銭として、家一軒について一〇〇文ずつ出させ、当人は五〇日籠舎につながれることになっていた。
 その後寛永二〇年(一六四三)四月一日、銭貨の比価が低価したため人馬賃銭が上った。銭の値が金一両に付四貫文となったら、寛永一九年の駄賃銭に戻すと説明されている。この増銭のことが「神坂八幡屋の覚書」に次のように記されている。年号はないが、このときの増賃銭の記録である。
 一寛永年中妻籠え本馬壱疋ニ付、本馬六拾七文、軽尻四拾弐文
 万治三年(一六六〇)は、雨の日が多く秋の収穫は少なかった。そのため翌万治四年は品不足となり、米や大豆の値が上がってきた。そこでこの年の三月二七日、人馬賃銭の割増を行い、本馬は、一里一〇文増、軽尻と人足は五文増となった。
 寛文二年(一六六二)正月九日、万治三年以来の米や大豆値は次第に安定したので、「本馬一里一駄一〇文、軽尻五文、人足一人五文」の割増分を廃止し、万治二年のお定賃銭に戻した。
 寛文六年(一六六六)六月二日の高札では、「寛文五年二月八日、最近米や大豆等の値が高くなり、街道の人馬の継立が多くなり、宿々が困窮している」という理由で、人馬賃銭の二割増が行われた。
 延宝三年(一六七五)正月、昨年末より米の値段が上り、逆に銭価が下がったので、人馬銭が値上げされた。
 延宝八年(一六八〇)は天候不順で、所々に風水害が多く、四月に雪も降って麦の収穫も少なく、宿も経営困難となった。延宝九年三月一五日から一〇月三〇日までの期間を限って、人馬賃銭の二割値上げが行われた。一一月一日からは延宝三年の人馬賃銭に戻す規定であった。しかし奥羽・関東・畿内は飢饉で一一月一日に元に戻すことは難しく、一〇月一六日付で、二割増の期限を翌年五月末日まで延期した。しかし情勢は一向に好転しないので、再び天和二年(一六八二)五月四日に人馬賃銭の二割増を一〇月三〇日まで延期することとなった。その後天和二年中に情勢が好転し、ようやく延宝元年の人馬賃銭の規定に戻った。そして天和三年は豊作であったため、人馬賃銭を二割減とした。元禄三年(一六九〇)六月三日の回状で、近年道中の宿が困窮であるために人馬賃銭を一割増とした。このころは幕府の貨幣改鋳があり、諸国の宿駅が経営困難をきたし、人馬賃銭を一割増とし、馬籠宿より妻籠宿まで本馬一駄一〇八文・軽尻一駄六七文・人足一人五四文となった。
(表)馬籠宿人馬賃銭変遷表