元賃銭以後の御定賃銭

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正徳元年(一七一一)の人馬賃銭の改正は元賃銭といい、以来宿駅制度が終わるまでの長い間人馬賃銭の基準となった。正徳元年の高札の文面は次のとおりであった。
 一正徳元年五月人馬賃銭御高札壱枚御文左之通ニ御座候。(大黒屋大脇兵右衛門信親、宿付規矩細記録)
      定
  馬籠ゟ之駄賃并人足賃銭
    妻籠迄
  荷物壱駄   百八文
  乗掛荷人共  同断
  軽尻馬壱疋  六七文
  附
   あふ附ハから尻ニ同し、それより重き荷物は
   本駄賃ニ同しかるへし夜通し急ニ通る輩は
   かる尻ニ乗るとも本駄賃と同前たるへし
    人足  壱人 五拾弐文
  落合江
  荷物壱駄   五拾五文
  乗掛荷人共  同断
  かる尻馬壱疋 三拾六文
  人足壱人   弐拾八文
 
  泊々ニ而、木賃銭
   主人壱人  三拾五文
   召仕壱人  拾七文
   馬 壱疋  三拾五文
   右之通可取之 若於相背に可為曲事者也
     正徳元年五月      奉行
 右之通従公儀被仰出之 訖弥堅可相守之者也      竹腰山城守
                           成瀬隼人正
 この正徳元年の元賃銭は、安永初年まで変化なく持続して、安永三年(一七七四)に最初の割増が行われた。その理由は、近年道中宿々が困窮し、殊に明和七・八年の旱魃、安永元年の風損、流行病によって難儀しているからとして、東海道は三割増、中山道は二割増の人馬賃銭が、安永三年一二月より七年間(天明元年一二月一五日まで)二割増となった。ついで天明三年(一七八三)七月、浅間山が大爆発して被害はその山麓から関東に及んだ。そのため同年一二月から満七年間、人馬賃銭の値上げが行われた。これは地域により差があり、板橋から鴻ノ巣までの七宿は二割増・熊谷宿より軽井沢宿までの一一宿は三割増で当地方の割増はなかった。
 寛政一一年(一七九九)正月より、一割五分の割増が一〇年間許された。これは文化五年一二月で年季が切れたが、再び翌年の文化六年から一〇年間一割五分増が許された。そして文化一二年(一八一五)に、それに加えて三割の増賃銭が許されたので、元賃銭の四割五分増の人馬賃銭となったのである。その後文政元年(一八一八)六月から五年間に限り、人馬賃銭の一割五分増が許された。そしてこの年の一二月より五ヶ年間、一割五分増の上に三割増で合計四割五分増が許された。
 その後文久二年(一八六二)には、諸物価が高騰して宿々の困窮が甚だしいからと、従来の四割増に三割を加えて七割五分となり、翌年文久三年九割五分増となった。そして四年後の慶応三年、明治新政府は賃銭の改正を行い、東海道と中山道の元賃銭を一里について本馬四〇文・人足三〇文に改めた。一二月大政奉還が行われ、翌明治元年の四月、元賃銭の六倍五割増となった。そして翌明治二年明治天皇の東幸のときは元賃銭の九倍増、すなわち一〇倍となった。さらに明治三年二月の駅制改正では、人馬賃銭は明治二年の一〇倍の上へ更に二倍増を追加して、一二倍ということになった。そして明治四年に継立はすべて相対で行うことになり、お定賃銭は消滅した(『近世宿駅制度の研究』)。