宝永三年正月小田原宿去末年(元禄一六)地震・火事ニ付別而困窮に及び候条、当戌年(宝永三)より来る寅年(宝永七)迄五か年のうち、上下の駄賃銭五割これを増候、右増の内一割半助郷村々えこれを取なし、残る分は刎銭ニ致し問屋場に集置、御伝馬并人足定の通り急度これを持、宿竝家居等も取立申すべく候、勿論問屋・年寄立合猥りニ遣捨さる様ニ仕るべく候、且又稼のため在々より出候駄賃馬銭ハ、五割増の分残らず刎銭問屋場え取るべく候、救のため増銭申付候間随分相続候様に仕るべく者也
宝永三年戌正月 道中奉行四名
右の通達によると、宝永三年(一七〇六)幕府は、東海道三島宿の人馬賃銭を向こう五年間三割増にすることも許可したが、このうち一割五分を助郷村の人馬負担者に与え、残りは刎銭として問屋場に留める一方、それ以外の在村駄賃稼の者からは三割全部を問屋場で徴収、宿駅の人馬継立の維持費とさせた。
文政四年一一月東海道品川宿、中山道板橋宿役人連名で道中奉行に差出した文書に(『御規矩便覧』の道中御触書下)割増銭の扱いについて次の要望を上げている。
一、宿々において、出入人馬江割渡すべく割増賃銭の内、宿助郷対談の上宿方江預置、追て割渡候類、小前の内不伏(服)の者もこれある趣御聴入出入人馬江割渡すべく分は其時々相渡小前の者共、一統心得を以積金等いたし候処存候はゝ、村役人共引請取斗候は格別、宿役人共江預置は無用致すべく候。
一、宿入用受払勘定帳取調方、不行届宿方もこれある趣御聴入候間、以来、都て右帳面年々御支配御役所、又は領主役場等江差出、見届印申請べく候、
一、宿々において、出入馬江渡べく賃銭の内、刎銭と唱へ少々つゝ引取、問屋場筆・墨・紙代銭、帳付、馬差共給分足合等致候類もこれある趣、御聴入候所、割増賃銭の内、宿助成も受取候上は、前々仕来候共、以来、右刎銭引取候儀は無用に致べく候、
とあり、「宿人馬へ渡すべき賃銭のうちから、どれだけかの金を引き取って、問屋場の筆・墨・紙代や或は帳付・馬指の給料の補助金にしたり、宿の助成金に使用している」と言っている。このように宿助郷人馬に渡すべき割増賃銭の上前をはねて宿入用金等に使用するので、これを「刎銭」といった。
刎銭は前にもみてきたように、宝永三年三島宿の三割増銭から刎銭を取り、問屋場に留置(とめお)いたことでも明らかなように、かなり古い時代から行われている。安永三年(一七七四)一二月より七年間(天明元年一二月一五日まで)、人馬賃銭の二割増がなされたが、この二割増に対する取計らいについて道中奉行から次の指示が出ている。
(表)馬籠宿人馬賃銭割増刎銭表 享和2年
○二割増の内の一割は刎銭とし、一年の内七月と一二月の二回、御料(幕府領)は、代官役所・私領は領主地頭役所へ納めよ。
○助郷人馬へは、是迄の御定賃銭に今度の二割の内の五分を渡せ。
○残りの五分は刎銭として宿方助成に使用せよ。
右の一割の刎銭は役所に提出して置き、適当な者に貸与してその利息を得て宿助成に当てていた。木曽一一宿ではこのような策をとっていた文書は、寛政一一年から文化五年に至る一割五分増賃銭が行われたとき、享和二年(一八〇二)の「十一宿人馬増賃銭之内七分五里之分積金定書、大脇兵右衛門(兵次郎改名)信親」(県史史料編巻六所収)に、定書請書がある。これによると刎銭利倍の運用は木曽一一宿では、右増賃銭の実施中の享和二年から始まったようにみえる。利殖扱いの支配役人として一一宿から、須原宿庄屋・問屋西尾治郎左衛門・藪原宿庄屋問屋寺嶋勘右衛門・福島宿年寄永井三右衛門・贄川宿年寄贄川清右衛門・馬籠宿年寄代大脇兵次郎の五名が任命された。
「増賃銭一割五分のうち半分の七分五厘は、日々の出入馬に下付されており、残りの半分七分五厘は寛政一一、一二年の二年分は役所に差出して預っている。享和元年の分は村方に申し付、村入用に差加えている。当戌年(享和二年)分金高一三一両三分、永二八文は、其方(そのほう)共に渡した。そしてまた来年の分も其方ら宿方に渡すことになるから、この金額を宿方の支配をもって一割の利息で貸付け、積立金にするようにしたら大金になる。そして取り扱いのことは書き付けのとおりきっと守り取り計るようにせよ、金子の扱いをいい加減にして、手形(借用証文)許りになってはなはだ不都合なことであるから、終年(文化五年)の節借主の証文は勿論、貸付の元帳を添えて提出するようにせよ」と申し付けられた。
なお五人の者が、宿に下付された七分五厘の増賃銭の利倍支配人に任命されたのは、福島役所において詮考の上で適任者として選ばれたのであるから、どのような断り言を申し上げても一切取り上げないから、「其段左様承知致すべく候」と念を押されている。そして役所から提示された次の「刎銭積金定書」の扱いに対する請書を提出した。
「表紙十一宿人馬増賃銭之内七分五厘之分積金定書
大脇兵右衛門信親 」
掟
一御家中貸一切致間敷事
一宿・在役人貸可為同前事
一宿・村貸可為同前事
右者去ル未年ゟ木曽十一宿人馬賃銭壱割五分増之内、宿方江被下置候七分五厘之分、今般宿中為要用当戌年ゟ来ル辰年迄年々五月・十一月両度ニ取集、支配相立利倍致度之旨願申達、於役所令勘考候処、万千御救筋ニ相当リ一段之事候、勿論七ヶ年之間積置利倍致候得者大金ニ相成、一通ニ而者廻し方差支之筋相見候事ニ候、右之内丑ゟ辰迄四ヶ年之分猶又取計方茂有之候間、其節差図候、何れ年満之上者爾来宿役人役料并宿中手当之筋相含、尚更令熟考支配人別申合、其方共五人江右金子貸附方支配申付候間、前条之趣堅守毛頭心得違無之様厚存入、貸方之儀精々人別相糺利分年壱割を以、商人・百姓之内慥成地質、家質等手形取置貸渡、右証文并元帳年々十二月十五日役所江無相違差出可申候、尤幾々為取締借り主小前之者名前江相当、於役所不時遂吟味、万々一背前条不都合筋計之族於有之者、其筋江申達重御咎可被 仰付候間、其心得有之専取計方者五人者斗ニ而申合、二季ニ福島宿江出勤可致談判候、若々五人之者病気ニ而不出之者有之候ハゝ、残り之者無親疎塾談差支無之様可致候、依之取扱之規矩急度申渡候条仍而如件
享和二年戌十二月三日
沢 嘉 六御判
川 八郎右衛門御判
須原宿庄屋・問屋
治郎右衛門殿
藪原宿庄屋・問屋
勘右衛門殿
福島宿年寄
三右衛門殿
贄川宿年寄
清右衛門殿
馬籠宿年寄代
兵治郎殿
乍恐奉差止御請書之事
一拾壱宿江人馬賃銭壱割五分増之内、七分五厘人馬江割渡宿々江被下置候、七分五厘上納金之分、当戌ゟ辰年迄七ヶ年之内、貸附廻し方之義私共江被仰付、委細御定書御渡被仰付之御趣奉畏候、則当戌年分金百三捨壱両三分永弐拾八文八厘御渡被下置慥ニ奉請取候、尤宿方ゟ五月・十一月両度ニ御取立被遊候付、明年ゟ五月十一日・十一月十一日金子御渡可被遊候付、貸付共人別ゟ請取候証文与并元帳年々十二月十五日迄ニ差上可申候為其御請証文差上申所如斯御座候、以上、
享和二年戌十二月 須原宿庄屋問屋
治郎左衛門
藪原宿庄屋・問屋
勘右衛門
福島宿年寄
三右衛門
贄川宿年寄
清右衛門
馬籠宿年寄代
兵次郎
(東京都徳川林政史研究所所蔵)
享和二年刎銭取扱方書留帳(徳川林政史研究所蔵)
享和3年人馬割増賃銭半分上納覚帳(徳川林政史研究所蔵)
享和三年の人馬賃銭一割五分増のうち、宿方に下付された半分の七分五厘の分、役所に差し出し預け置いた刎銭の馬籠宿の控帳がある。記帳は上り(落合宿行)、下り(妻籠宿行)に分けて月ごとの計を記録してある。帳の体裁は前頁に写真を掲げたが、帳の一部を掲げると次のとおりである。
「表紙享和三年
人馬賃銭壱割五分増之内七分五厘之分上納仕候覚帳
亥十一月 馬籠宿 」
覚
亥五月
一登 本馬弐百九拾九疋
此銭壱貫弐百四拾四文
但壱疋ニ付四文宛
同
一同 軽尻六拾弐疋
此銭百弐拾八文
但壱疋ニ付弐文宛
同
一同人足五百五拾弐人
此銭壱貫百四拾八文
但壱人ニ付弐文宛
亥六月
一登 本馬三百拾八文
此銭壱貫三百弐拾四文
但壱疋ニ付四文宛
同
一同軽尻四拾六疋
此銭九拾弐文
但壱疋ニ付弐文宛
同
一同人足弐百拾弐人半
此銭四百四拾壱文
但壱人ニ付弐文宛
亥五月
一下リ本馬百四拾八疋
此銭壱貫弐百参拾弐文
但壱疋ニ付八文宛
同
一同軽尻六拾壱疋
此銭三百拾七文
但壱疋ニ付五文宛
同
一同人足弐百六拾四人
此銭壱貫百文
但壱人ニ付四文宛
(下略)
銭合三拾五貫百六拾三文
為金五両永九拾六文四分五厘
此銭六百六拾三文
但銭両替六貫九百文
右者当亥五月ゟ同十月迄当宿人馬上下賃銭壱割五分増之内、宿方江被下置候、七分五厘之分右之通上納仕候以上
馬籠宿庄屋問屋
享和三年亥十一月 吉左衛門
問屋
三右衛門
年寄
源右衛門
同
半左衛門
御奉行所 同
兵右衛門
同
九右衛門
この帳はその年の五月七日と一一月二日の二期に提出することになっているから、五月~一〇月分までと、一一月~翌年四月分までの二冊になっている。