街道宿駅の常備の人馬だけでは、宿から宿へ継立がまかないきれない場合に、近郷の村々から補助的に人馬を提供する課役が「助郷」である。宿駅にあって諸通行に伴う貨客の輸送に当っていたのが伝馬役であり、それには馬役と歩行役があった。その常備数については、東海道伝馬の制が設けられたのが慶長六年(一六〇一)で、多くの宿駅に三六疋の伝馬を常備することになり、寛永一五年(一六三八)以降一〇〇人・一〇〇疋の定置人馬が定められたが、中山道宿駅の場合は五〇人・五〇疋となった。その後中山道では万治四年(一六六一)に二五人・二五疋に半減されたが、寛文五年(一六六五)に五〇人・五〇疋に復された。そして元禄一四年(一七〇一)に再び二五人・二五疋に半減を認められている。道中奉行久貝因幡守正方、安藤筑後守重玄連名で山村甚兵衛良忠宛に、次の通達がある。
覚
当正月十六日之御条令被見候、然は木曽十一ケ宿御伝馬役人共困窮ニ付、大名衆上下之節先年被、仰出候通弐拾五人・弐拾五疋ニ而相勤度旨願候ニ付、其表ニ而遂吟味候処至極困窮致候段、無紛候故問屋ニ家来差添御越令承知候、何も遂相談、御老中江申上候、御定之弐拾五人・弐拾五疋ニ而相勤候ニ可被申渡候、勿論互ニ申合手支無之様可被申付候、大名衆江も被達候、人数心得有之様ニ申通事ニ候
委細は家来江申渡候、恐惶謹言
(元禄一四年)三月 久貝因幡守(正方)印
安藤筑後守(重光)印
山村甚兵衛(良忠)
(大黒屋宿村規矩細記録)
元禄一四年、伝馬人馬について木曽の困窮を訴えた嘆願書は、老中の許可がなり二五人二五疋が認められた。山村甚兵衛からその旨馬籠宿に達している。
覚
拾壱宿御伝馬役人困窮ニ付、大名衆上下之節、先年より被仰出候通、弥弐拾五人・弐拾五疋ニ而相勤申渡旨今度奉願候、依之被仰出候ハ、被遂御相談御老中江御窺候之処、御定之廿五人・廿五疋ニ而相勤候様ニ、勿論互ニ申合手支無之様ニ可申付之旨、且又大名衆江も被達候人数心得有之様ニ与被仰通之由、安藤筑後守殿・久貝因幡守殿より之御証状ニ候、併御用通之節ハ合宿可仕之旨被、仰渡候間、右之趣承知仕末々迄堅相守、御定廿五人・廿五疋之人馬を以往還無滞様ニ急度可相勤者也
元禄十四年巳四月
山村甚兵衛(良忠)
馬籠宿
(馬籠大黒屋宿村規矩細記録)
元禄十四年正月一六日、木曽一一宿の伝馬勤務は一日二五人・二五疋が精一杯で、これ以上の人馬勤は不可能であると道中奉行に嘆願をした。木曽谷中の困窮の状況が理解されて、中山道の宿のうち木曽一一宿だけが認められたのである。しかし五〇人・五〇疋を常備人馬としている他の宿では、それでも自宿の常備人馬のみでは間に合わず、助郷の設定を望んでいた。それは以前から公家門跡に対しては三二人・三〇疋までを供給するよう定められていた。そのほか諸大名の御用通行、大坂城番・二条城番の通行に当っては、常備人馬以外に多くの人馬の要求があった。『中山道交通史料集一御触書部波多野富信編』に次の触書があり、助郷の始まりの様子がみえる。
一、今度、大坂御番代衆、中山道被罷登候ニ付、宿々人馬不足ニおいてハ、其所ゟ三・四里程之内、御料・私領・寺社領共ニ、人馬無滞様可出之、
天和二年(一六八二)七月