通行が宿の常備人馬以上の人馬を要する場合は、各宿の在郷・近接の村に命じて人馬の補充をさせた。所要の人馬は昔からある木曽の村々の役人高に比例して課せられた。宿の近辺の村が宿の寄付村として決められていた。馬籠宿の寄付村は山口村と湯舟沢村であった。木曽は人馬が少ないので、継立は次の宿までが原則であったが、三継・六継などすることが多く規則どおりにはいかなかった。普通ならば、馬籠宿に出て妻籠宿まで運べばよいのに、野尻宿や上松宿までに運ぶことがあった。木曽在郷の諸村は定助郷の性質を持ったものではあったが、それらの関係から助郷とは称せず、山村代官役所の特別な奉仕として勤務をさせられていたのであった。寄人馬の一例を「山口村庄屋用留帳」から掲げると、次のとおりである。
(表)
右ハ今般日光例幣使御下向ニ付、人足割付申付候間庄屋壱人・組頭壱人相添右日限定之場所ヘ壱人茂無相違罷出御通行之節急度相勤可申候、不及申候得共諸事相慎慮外不調法等無之様堅可申付候、此回状披見之上村付下印判押早々順達納所より役所へ可戻者也
(嘉永六) (野)
三月廿九日 萩 丈左衛門
(表)木曽11宿の寄付村