伊那助郷設定願

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御用大通の節は、宿人馬はいうまでもなく在郷諸村の人馬を徴発して、これに充当しても尚不足をするので、美濃馬の徴発までして漸く交通の支障のないようにしていた。しかしその不便と失費のかかることに木曽は勿論、尾州藩においても最も苦慮をしていた所であった。助郷の設定希望は既に天和(一六八一~)ころより計画が進められていたのであったが、正徳元年(一七一一)いよいよ出願することに決意して、まず山村家家老大脇文右衛門を尾州藩と折衝させ、その同意を得て、同年一一月二日、木曽一一宿問屋惣代贄川宿千村伝右衛門、藪原宿の古畑又左衛門の両人が宿総代として出府した。時の道中奉行大久保大隅守は苗木藩遠山和泉守の妹婿であり、和泉守と山村家とは姻戚の関係上遠山和泉守に対して斡旋方を依頼するなど八方手を尽した。そして次の願書を提出した。
        乍恐奉願口上覚
 一中山道之内木曽御伝馬十一宿田畑纔(わずか)御座候、一宿之高三、四十石ゟ八、九十石程御座候、海道筋見及候迄ニ而助村ニ罷成候所無御座、爰彼之谷間ニ五軒・一軒程宛百姓家居御座候、此者共山畑切起漸渡世仕躰ニ御座候、木曽の内道法二十二里余御座候、其内山坂難所多く別而人馬草臥迷惑仕候御事、
 一寛文二寅、延宝九酉、天和二戌の年大坂御番衆様御通并松平日向守様御家中郡山より越後高田へ御用通之節自御公儀様中山道へ御回状通り御料・私領・寺社領共ニ、其宿手前之村々へ申遣人馬寄置間ニ合候様にと被仰出候其後中山道宿々不残助村被仰付候故、右御回状参不申候、木曽宿道中ニ助村無御座候事、
 一信濃口・美濃口より一日ニ二頭三頭も付込申候、尤一頭ヘ廿五人・廿五疋之人馬相立申候得共、前後の宿ニハ助村御座候故、一頭ヘ御定之人馬相立申候付、無滞継立木曽之内ヘ一度ニ御通懸リ被成候、木曽之儀ハ御定の廿五人・廿五疋之外人馬無御座候付、一頭ヘハ相立申候ヘ共相続御通御方様ヘ相立可申人馬無御座候故、先之宿ヘ付参候馬戻申候迄御待被成被下候様にと御断申上候付、往返指支其上急ニ御通被成候、訳御座候歟又断御聞届不被成候御方様ヘハ廿五人之外ニ宿中老若之人足を出し御荷物成次第ハ背負申候、勿論右之首尾に御座候ヘハ戻馬も水を呑せ飼申事も不罷成鞍より鞍ヘ付申候躰に御座候、尚以御用通の節ハ木曽十一宿一継或ハ二継、三継にも申合人馬継立申候付、別而難儀仕候、此節御通懸被成候御衆中様ひしと人馬差支申候ヘ共可仕様無御座候、依而連日困究仕自尾張様毎年大分之御救金被下漸其御陰を以相勤申候処、近年別而往還御通繁く就中一両年ハ御用通二条・大坂御番衆様上下御通被遊候、他領よりハ助人馬にて大分之御荷物付送申候ヘ共木曽之儀ハ御定之人馬にて数日付送仕候ニ付中々難相続尾張様ヘ御嘆申上美濃路より繰込馬被仰付被下候ヘ共、及四十里余候故馬の草臥間も合兼勿論美濃路も迷惑仕候由の御事、
 一此度定助村奉願ニ而ハ無御座候、御用通御番衆様、御公家様大通の節斗木曽の内ヘ先年之通御領・私領・寺社領共ニ木曽ヘ近寄之村々より助人馬被為仰付可被下候員数之儀ハ其節御通之人馬多少に准可申遣候、尤木曽手寄之村々前後之宿ヘ定助村々被為仰付置候ヘ共木曽ヘ定助と申に而ハ無御座大通之節斗之儀に御座候ヘハ邂逅之儀に御座候間、其節ハ他領定助村順々に繰込為仰付被下候様にと奉願候御事、
 一右奉願候趣乍憚為聞召分末々相続往還之御役儀相勤申候様ニ被為仰付被下候ハヽ難有可奉存候以上
     正徳元卯十一月                         木曽十一宿
                                        問屋両人
                                        年寄一人つつ
      御奉行様
 右の嘆願書を道中奉行所に提出し裁許を待っていたが、その年には回答が下されず翌二年二月になって交通業務が忙しくなる時期を迎えたので、同道していた贄川宿問屋千村伝右衛門・藪原宿問屋古畑又左衛門は帰郷し、大脇文右衛門一人が残って道中奉行所の折衝に当り奮闘していた。幕府の意向は上四宿に対しては信濃口より、中下七宿に対しては伊那口より入れるという考え方であった。ところがここに支障となったのが元禄九年権兵衛街道開道に当って取り交した証文の助馬を出さぬという契約であった。道中奉行吟味役もその証文の文面の堅いのに驚いたそうであるが、大脇氏は馬はともかく人足の事には一言の文言もないから、人足だけでよろしいと断行を迫った。詮議の結果遂に聞届けられ、同年一二月城内において助郷帳三冊を渡された。三冊というのは贄川・奈良井・藪原・宮越の四宿を上四宿として一まとめにして助郷高を定め、中三宿は福島・上松・須原の三宿を一まとめにし、下四宿は野尻・三留野・妻籠・馬籠の四宿を一まとめにして助郷高を設定したのである。
 正徳二年の助郷帳は下四宿の分が残っていないが、大黒屋大脇兵右衛門の写本がある。
 上四宿の分は、筑摩郡にて二一ケ村、高九、五九三石、中三宿は伊那郡二〇か村高八、一九一石、下四宿は伊那郡にて一六ケ村高九、三五〇石であった。道中奉行から下四宿に次のとおり申渡された。
      覚
 九千三百五十石 助郷十六ケ村
  竹佐村  大瀬木村  山本村  北方村  上飯田村  中村  三日市場村  久米村  上殿岡村  下殿岡村  駒場村  大野村  昼神村  上中関村 中関村  向関村
 右之通野尻町、三留野町、妻籠町、馬籠町江公家衆・御門跡・其外御用ニ付、大通有之節斗(ばかり)助郷申付候間、右之宿々問屋・年寄相触次第人馬無滞村々より可出之、此帳ハ右四ケ宿之内ニ差置助郷之村々ニ而は、自今以後急度守、若費之人馬触仕候歟助郷より於不参可為曲事者也
    正徳二辰年十二月
                                   萩 源左衛門印
                                   (杉岡佐渡守能直)
                                   杉 弥太郎印
                                   (大久保大隅守忠香)
                                   大 大隅守印
                                   (松平石見守乗宗)
                                   松 石見守印
                                            四ケ宿 問屋
                                                年寄
                                                名主
                                                百姓
 伊那一六ケ村からは次の請書一札を差出し、伊那の農民達の血のにじむような助郷生活一六○年が始まったのである。
        一札之事
 一、今度木曽四ケ宿江助郷就被仰付従 御公儀様被仰渡御帳面奉拝見則助郷之村々写置御證文之趣奉畏候事、
 一、御用御通之節人馬御入用次第各々より助郷江御触被成候はば其節人馬員数日限刻限共ニ御差図之通無相違人馬召連其村より証人一人ツゝ相添右四ケ宿之内江罷出急度可相勤候事、
 一、木曽十一ケ宿之儀は一ケ宿江廿五人・廿五疋之御定ニ付、御用御通之節人馬多少ニより合宿被成継立等不同御座候間、左候得は助郷之人馬罷出候節、其時之御通ニ随ひ四ケ宿寄集り申儀も可有御座候間、時之御差図ニ随ひ可相勤被御申聞得其意申候、右四ケ宿之助郷被仰付候上は何れ之宿成共御差図次第寄集御下り之儀は須原迄、御登之節は落合迄附払可申候、為其連判證文仍而如件
      正徳三巳年二月                     十六ケ村 庄屋
                                       組頭
                                    四ケ宿問屋
 右の請書の第一は助郷を引受けること、第二には人馬入用の日時・員数通知受次第助郷役勤めること、第三には一一宿は人馬少なく合宿により継立をしているので、その時の差図次第上り、下りの付送りをするというのである。