この見出しの件については『南木曽町史』(伊賀良村史所収)に掲載されている。ほかには見当るものがないので、右の記事から掲げることにする。
正徳三年二月、伊那郡一六村村高九、三五〇石が、木曽下四宿の助郷村に指定された。ところが間もなく助郷返上の動きが起こり、一六ケ村のうち幕府領を除いた一〇ケ村が訴訟を行うこととなった。まず正徳三年三月訴訟には、名主・長百姓が交替で江戸表に詰めて当ることにする。江戸表に訴訟に出た者の田畑の耕作は村中で行う。訴訟費用は石高割にして負担する。違約者を出さないという内容の連判状を作成して、訴訟体制を固めた。
訴訟の理由は、自分達の村は山麓にあり、猪・鹿の被害を受け、干水害を受け易い場所で、常に困窮して領主から救恤金の下付を受け渡世を営んでいる土地柄で、馬持は半分程しかなく助郷役の人馬は不都合となり、迷惑至極であるので是非なく訴訟に及んだ次第である。
助郷勤に出る村々から妻籍宿に出る道筋は伊那郡一の難所である上に、松川・黒川・広瀬川という荒川が流れているような次第であるので是非検分してほしい。このような道を往復二〇里以上通うので、一日の勤にも往復四、五日かかる。その上弱馬であるので本荷一駄を運ぶのに二疋・二人を要する。それに出役には各村ごとに証人一人ずつ付添いの上に、助郷役は大通の際には村高一〇〇石に付馬五疋程人数は限らずということである。通行の時期は、四月から八月までで、田地肥料の苅敷の最中と収穫期にあたり、金を出しても雇い馬はなく、村中の人馬が出ても足らず田地は荒れてしまうことになる。このような実情であるから御慈悲をもって助郷役は取りやめてほしいという内容の「恐れ乍ら口上書を以って御訴訟申上候事」(『伊賀良村史』所収)という嘆願書であった。
正徳四年(一七一四)四月、出府して訴訟に踏み切った。助郷役の返上である。そして一二月にはさらに次の訴状を提出している。その内容は一つには、四月に訴訟したように、一六ケ村は前々から困窮の村々である上に、助郷役には大金を必要とすることになるので迷惑である。二つには正徳三年四月、二条大番衆(京都二条城の城番)の通行の際には、人足一日に五四〇人宛、往来日数一〇日分で五、四〇〇人、馬一日に一七九疋宛、往来日数一〇日分一、七九〇疋、七月の大坂大番衆の通行の際には人足一日に二三〇人宛、往来日数七日分一、六一〇人、馬一日に一八五疋宛、往来日数七日分一、二九五疋で、両度の人馬を合計すると人足七、〇一〇人、馬三、〇八五疋となり、これに要した金子が六三八両三分と銭三七三文にも達したので、助郷役を勤めることは出来難い状態である。そこで今後助郷役の勤めを果たしていくには一六ケ村と入り混じっている村々が数多くある。村数が多い方が一村当りの費用の負担が軽減されるので、最寄の村七、六ケ村をも助郷役を勤めるように差し添えてほしい。このように、四月の時点で主張していた助郷役返上の主張を取り下げ一村当りの入費軽減のため、助郷役を勤める村数を増加することを申し入れた。その結果、その年の一二月には前年助郷役を命ぜられた一六ケ村に、新たに一二ケ村を加えて二八ケ村(助郷高一万四九〇四石)となった。