正徳二年一二月、木曽一一宿の助郷となった村々は次のとおりである。上四宿は筑摩郡(現松本市・東筑摩郡)のうちで二一ケ村助郷高九、五九三石、中三宿は伊那郡(現伊那市・上伊那郡)のうちで二〇ケ村助郷高八、九一一石、下四宿は伊那郡(現飯田市・下伊那郡)のうちで一六ケ村、助郷高九、三五〇石である。下四宿の助郷に指定された村々のうち山本村は美濃高須藩領(東山本村)と旗本近藤領(西山本村)に、中村は美濃高須藩領(大中村)と飯田藩領(小中村)に分割されていたので、これらの村々を独立村と数えると一八ケ村となる。上四宿の助郷の村々は元禄七年に塩尻・洗馬・本山各宿の助郷に指定された村々(現在の塩尻市、東筑摩郡朝日村、松本市寿・笹賀・今井地区のうち)よりも遠く、梓川と奈良井に挟まれた扇状地に散在しており、上四宿の往復には、塩尻宿などへの村々より遠く日数を要する所にあった。中三宿の助郷村々は、権兵衛峠を越した付近に散在している村であったので、その峠を越して助郷役を勤めることとなった。しかし元禄九年の権兵衛峠開通の際に、馬役は出さないという取り極めを木曽十一宿と取り交わしていた。箕輪領の村々二七ケ村のうち、一五か村が助郷に指定されたので、これらの村々は人足役しか勤めないことになった。そのため人馬役を勤めることになったのは残りの五ケ村だけであった。
木曽11宿下4宿助郷村
(表)正徳2年12月
(表)正徳3年12月
下四宿の助郷村には清内路峠などを越えた地域の松川以南阿智までの竜西の村々であった。これらの村々は清内路峠・大平峠を越えて助郷役を勤めるために下四宿に出向いたのである。
享保二年(一七一七)八月、木曽十一宿に助郷を勤めることになった伊那郡の二〇ケ村助郷高八、一九一石に対する勤務割合を申し渡すため名主を福島宿に呼び集めた。享保二年八月福島御役所にてお定め仰せ付けられた。(木曽諸事覚書)
正徳二年木曽十一宿下四宿の助郷村
(表)