その後元文五年(一七四〇)三月には、二八ケ村のうち、駒場村・昼神村・備中原村・大鹿倉村の四ケ村九三〇石は、阿島の旗本知久監物頼久御預りの浪合・帯川・小野川・心川の関所御用人馬を勤める事になって木曽助郷は免除され、その分は残りの村々で勤めることになった。
続いて同年一二月上飯田村は、清内路関所の御用人馬役を勤める為助郷免除となり、その代りとして、
高一二六〇石 嶋田村、高三二四石、毛賀村、高八二石、時俣村、高九九石、一色村
の四ケ村が申し付けられ、駒場村の枝村大野村も同時に浪合・帯川・小野川・心川の関所人馬役を勤めるため助郷は免除された。そのため元文五年一二月には助郷は二六ケ村一万三八五四石となった。
翌寛保元年になると二六ケ村は木曽助郷が極めて難儀であるというので、同年八月二九日に上川路の開善寺に各村の惣代が集合して相談をした。その結果飯田領一五ケ村で四人、竹佐領六ケ村で二人、山本領から一人、御料所から一人合計八名の者が惣代として一〇月二九日に出立して東海道を江戸に下って、道中奉行へ訴え出る事になった。願書を読み下しで掲げると次のとおりである。
恐れ乍ら書付を以って御訴訟申上候御事
中山道の内 野尻・三留野・妻籠・馬籠
右四ケ宿江助人馬相勤候村々
〆二十六ケ村 此高一萬三千八百五十四石
一、正徳三巳年右四ケ宿江助郷人馬仰付被され畏れ奉り数年来相勤申候、梨子野峠、木曽峠と申す難所十里より十六、七里迄の所罷越相勤め申候ニ付、一日の御役も往来共ニ日数四、五日掛り迷惑仕候、当八月大番衆様御通の節も左の通相勤申候
高百石ニ付 人足四人八分 馬一疋六分掛り
一日 人足六百七十人 馬二百二十疋
口取二百二十人 証人 四十人
右は往来共ニ日数廿一日相勤候入用ニて御座候、初年より年々夥敷(おびただしく)入用ニ御座候、至極困窮仕リ候、四月御通の節は苅敷最中ニ御座候所、苅敷取得申さず田地あらし作ニ仕八月御通の節ハ田畑取上最中、取上ニおくれ、作物猪鹿ニあらされ、近年諸作半減ニ罷り成り、段々村々ニ潰(つぶれ)百姓出来迷惑仕り候、田地質入借用仕るべくにも助郷村々江は貸方一向御座無く候、諸道具等迄売代成し漸々今年迄相勤申候、殊ニ今年は稲虫付悉く喰い枯らし、皆無の場所も御座候て、此の上相続申すべき力も御座無く候、今日相立難く儀ニ存じ奉り候御事、
一、右四ケ宿江先年相勤申候助郷江仰付下され置候様ニ願上奉り候御事、
一、伊那郡の内北は太田切川大草村、南は新野村南山限助人馬入用銭平均ニ仰付為し下され置候様相願御役長く相勤リ候様願上奉り候御事、
右之通り聞召分けられ二品ノ中、何れ成共仰せ付下され置候ハヽ有難存奉り候、猶又恐れ乍ら口上ニて申し上度存奉り候以上
寛保元年酉十月二十七日 (長野県史資料編巻六)
願書は助郷に要する日数が長く、農作業の多忙の時期に重なり立ちいかぬから美濃路の人馬に、木曽伝馬をやらせて貰いたい。それが出来なければ伊那郡の内、北は太田切川大草村から南は新野村南山まで全部へ助郷人馬入用銭を平均に割付けるようにして貰いたいということである。
この願書によって道中奉行方からは翌寛保二年四月に、村柄検分に関忠太夫の手代高津清蔵と渡辺民部の手代加藤要助の二人を差し向けることにした。両人は四月一三日に江戸を出発することになったので二六ケ村では、両人の宿所として本陣を選んで両人に通知した。
幕府では四月に右両人を、下四宿とその助郷村二六ケ村に派遣して実情を調査させた。検使高津・渡辺の両名は調査結果に基づいて、伊那郡六万石の場所へ入用平均割ということは絶対出来ぬから、どうしても難儀であるということであれば、助郷村を多くして二六ケ村の負担を軽くするよりほかない。それにはどこどこの村を加えるがよいか二六ケ村のお前方で考えて差村をせよ。そうすれば、双方の村柄を見くらべて、よく吟味をし願意を聞き届けてやることもあるだろうということであった。
これによって二六ケ村の者は、又々相談をしたが、負担は軽減してほしいけれども、そのため差村をすれば、今麦刈りも迫って農事多忙の時に巡検使が来て、各村々を回り実情を調査することになる。そうすれば多くの手間がかかって農作業も遅れるし、その上江戸表道中奉行所に出頭しなければならず経費もかかる。また美濃路の方にも差村してよい村があるということだが、これは遠くて実情もわからず調べるにも容易でない。それで今度の願書はお下げ渡しを願って取り止めにした方がよかろうということになった。それで右の意味を認めて巡見使両人に差出したために巡検使は吟味を中止して帰ってしまった。その後同年六月四日、北方村曽右衛門と山本村由右衛門が出府して、六月二四日に願書の下げ渡しをうけ七月六日に帰郷し、この件はひとまず落着した。
助郷争論は明治五年陸運会社が設立され、廃止になるまで繰り返し問題は起きて絶えることはなかった。