宮姫の降嫁

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天下の実権を握った徳川氏は自家の安泰のために、藤原、平氏の先例に倣い皇室の外戚になるためにまず、二代将軍秀忠の娘和子(東福門院)を後水尾天皇の女御(後中宮)とし、他の諸大名と自家徳川家との相違を明確にして、江戸幕府の基礎を固め、その後の歴代将軍もほとんど宮家の姫宮、摂関家の姫たちを正室に迎えるようになった。
(表)
(表)水戸徳川家の正室
 初代将軍家康の朝日姫(豊臣秀吉の妹)、二代将軍秀忠のおごう(信長の姪)は別として、三代将軍家光以降の歴代将軍の正室は、皇族・摂関家である。近衛・鷹司・一条家などの姫を迎え、このほか御三家・御三卿家なども公家の姫達を迎えている。徳川一門の系図の中から拾ってみると、将軍家一五件・水戸徳川家一〇件があり、ほとんど歴代がこの関係で結ばれており、なかに都合でそのようにならなかったときには大名家の娘を公家の養女として輿入れを結んでいる。これら京都から江戸への下向の行列は、そのほとんどが中山道を下向している。道も狭く宿泊施設も充分でない中山道を選んだのは、大名の行列より人数は少ないが輿入であり将軍家・徳川一門が相手方であるので、その荷物がおびただしく、交通量の多い東海道では一般の通行者が難儀をすること、川渡しのか所があり川止をさけることなどと、道中箇所に遠州の「今切り」、駿河の「薩埵峠(さったとうげ)」などの地名があり縁起を担いだなどともいわれ、中山道には「子持松」とか「孫目(馬籠)」「上松」とか縁起のよい地名があるともいわれている。
 姫宮の通行といえば、文久元年(一八六一)和宮降嫁の大通行がその代表にされている。下向は初めは東海道が予定されていたが、文久元年三月江戸近辺の各地で不穏な事件が続いており、そして東海道筋の諸川が増水氾濫した。幕府は和宮の下向の変更を願い出で下向の道中を中山道に変更するよう秦請し勅許を得ている。徳川将軍家水戸徳川家に下向の姫君は前掲の一覧表に掲げたが、そのうちで馬籠宿泊をしたのは、比宮と五十宮である。寿明宮は昼食であったが、大通行ではその準備は大変であった。