比宮は伏見宮邦永親王の王女で増子という。享保一六年(一七三一)の四月、徳川九代将軍家重のもとへ輿入れしたが同一八年二三歳で没した。法名「証明院」といい上野の寛永寺に葬った。「四月二六日大湫宿泊」となっており、大黒屋留帳には「一比宮様御通輿、馬籠宿止宿」となっているから、止宿は四月二八日ではなかったかと思われる。「人足二、〇〇〇人」と記しているから、享保年代のことであり、伊那助郷が決まってから間もない時期で大変なことであったと思われる。『瑞浪市史』によると「尾張藩の加宿五か村の村役人も数か月間、大湫宿へ動員され、尾張藩からも役人が出張して諸準備を整えた」としている。「宿内一二〇軒では不足するので、人馬会所間口五間を建て、仮建小屋五棟と、荷物小屋二棟を建てた」と記し、「宿泊用品の不足分借り上げ蒲団夜着七〇〇名分、椀など食器類一三〇〇名分、燭台一五〇、あんどんその他近村数か村から借り集めた」と記している。そして「四月一八日ころから二三日までに長持等一三六棹ほど通過した。三宿合宿の助郷人馬数一五〇〇名、二五〇疋」としている。