楽宮(さざのみや)の下向

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楽宮は有栖川宮織仁親王の王女、寛政七年誕生、本名喬子という。文化元年(一八〇四)一二代将軍家慶に輿入れ、竹千代・寿姫・最玄院を生むが、天保一一年(一八四〇)逝去、上野寛永寺に葬り、法名「浄観院」という。文化元年九月三日京都発輿、九月九日中津川宿泊り、九月一〇日馬籠宿を通行した。
 
 『文化元年子九月九日
 一楽宮様御通輿 中津川御止宿
   人足四千人 内弐千人美濃
          弐千人尾州より御繰り出し
   馬四百疋  但 百六十疋 美濃
         〃 弐百四十疋木曽助郷』(『大黒屋留帳』)
 右の書き上げによると、人足四、〇〇〇人は、尾張と美濃路尾張領から出している。人足は美濃路の村四一か村から二、〇〇〇人を出し、あと二、〇〇〇人は尾張領から出している。