有姫は関白鷹司政道の養女、任(ただ)子と称する。天保二年九月三日通輿しているが、このときには九歳であった。天保一二年五月一三代将軍家定と縁組し、姫君様と称され同年一一月婚礼、御簾中様と称される。嘉永元年六月一〇日没。法名は「天親院」、増上寺に葬る。『大黒屋留帳』によると有宮の馬籠通輿は、天保二年九月三日となっている。当日通行の行列の人足は四、〇〇〇人でうち二、〇〇〇人は中津川・落合宿の助郷で、二、〇〇〇人が木曽下四宿の伊那郡の助郷で、馬も一四〇疋が美濃路、二一〇疋が木曽助郷計三五〇疋の備で準備していたところ、急に人足五、〇〇〇人、馬四〇〇疋用意せよということになり、馬籠宿ではこれ以上の数は間に合わせることが出来ないので、木曽の助郷で五〇〇人増し、須原宿のお囲い人足二〇〇人、尾張藩太田代官所の手配で三〇〇人を雇入れて五、〇〇〇人とした。この通行では予定の備人馬の用意が出来ず、不足分は美濃路の宿から立継にて補足をし、木曽一一宿でも繰下りして人数を間に合わせたとしている。人馬とも予定の交代が出来ず、通しで持送り大変な疲労であったと述べている。