一三代将軍家定の正室(有姫)が嘉永元年六月逝去されたので、翌二年継室として摂政関白左大臣一条忠良の姫寿明姫(名は秀子)が下向されることになった。
嘉永二年二月一九日福島役所からの触書に、「当一〇月上旬寿明君様御下向に付入用であるから各村々大工・畳師・木挽等名前悉取調の上当月中に差し出すべく候」と前書の職人を書上げて報告するよう回状が出ている。そしてまた三月上旬には幕府の道中改方役人が、宿々を巡視して修理や普請箇所の検査を行っている。そして山口村庄屋外垣氏の用留帳には、「寿明君下向に付」とした道橋の補修普請に関する申し渡が、いくつかみられる。
嘉永二年三月 出人夫一一三人、内三人は小杣人夫、これは妻籠宿往還橋普請に付出人夫御割付仰せ付られ、罷出て相勤めたのである。
同 二年三月 出人夫二九人、これは妻籠村神明下橋普請を割当られ勤めたのである。
『大黒屋日記』一〇番嘉永二年四月二二日の記事に、「寿明姫君当秋通行往還道橋御見分のため福島役所の役人を村境まで出迎えに出る。庄屋問屋吉左衛門、問屋三右衛門、年寄源右衛門なり。同年七月一六日寿明君様御同勢馬籠宿止め宿を仰せ付けられたので、屋根葺板并に御下宿となる旅籠屋の者共居宅繕をするよう命じられたので、木材・板子類払い下げ願に組頭五兵衛が福島役所に出勤した。同八月一八日に寿明君の繕椀一〇〇人分用意するよう仰せ付られたがむつかしく困り果てた」と記している。
同八月一五日には、寿明君の通行を控え、夜具五五通り、膳椀皿一一〇人、行燈五〇、燭台八丁調達の触あった。同日寿明君様御下向お泊所、篝場にご入用の松明作りを割付けられた。
(表)
回状を以って申入候
寿明君御方御下向の節、御宿所并篝(かがり)場御入用明松別紙の通り割符申付候、右ハ桧類の儀ニ付宿々本陣御補理材并往還道橋欠所等江伐出し相成候枝木有合次第取拵不足の分は追て御材木方(上松材木役所)立合見分の上、立木枝下させ取拵えなし候筈ニ付、本陣材木伐出し相成候村方へ懸合、自村割符の分取拵、其の余り右仕出材等これ無く村々は、末木・枝木等見取願の上取り拵え申すべく候、勿論段々日限差迫り候間、来七月皆出来の積夫々取計出来の境申達すべく候
子六月二七日 自 新五左衛門外二名
同年八月には、草鞋・薪の調達の触書が出ている。
(表)
回状を以って申入候
寿明君御方御下向ニ付入用草鞋・薪割付申付候間別紙の通り相心得、来る九月五日迄に下の場所へ差出し其段申達申すべく候
右のような調達品は、このような通行には、それぞれ割付があった。