寿明姫の下向行列の日程は九月一五日京都発、九月一六日愛知川宿泊、九月一七日柏原宿泊、九月一八日垂井宿昼、九月一九日加納宿昼、九月一九日鵜沼宿泊、九月二〇日細久手宿泊、九月二一日大井宿昼、九月二一日中津川宿泊、九月二二日野尻宿泊、九月二三日福島宿泊にて通行されている。
この下向行列の継立については、嘉永二年六月木曽一一か宿の問屋役人が福島に集まって寄合、天保二年の有姫下向の行列に準じて継立の計画を予定した。それによると人足五、〇〇〇人、馬三五〇疋となっている(『長野県史史料編』巻六参照)。九月二一日中津川宿泊となっているので、中津川宿問屋孫右衛門、年寄万兵衛と落合宿年寄義一郎同健次郎両人、妻籠宿佐左衛門、三留野宿藤左衛門らと寄合い、人馬継立の話し合いをした。姫下向の行列は大行列で人馬の確保は大変であるから、美濃路の宿は尾州藩にお願いして加助郷を出してもらっている。中津川宿から人馬を野尻宿まで繰り出しにして援助するという中津川宿の話であった。
馬籠宿年寄大脇兵右衛門は九月六日夜明け前に出発し伊那助郷村三三村を回り、この度の通行助郷は道中奉行のお達のとおり、大切な通行であるから間違なく出役してくれるように助郷村を巡村し名主に念を押し依頼した。このときの伊那助郷村は、前からの村三三か村と、新助郷村三九か村の七二か村が対象であった。
道中奉行から助郷村への触書は次のとおりである。
此度
寿明君御方
御下向ニ付人馬多入候間、左之村々中山道野尻・三留野・妻籠・馬籠宿江当分助郷申付候間、右宿役人共ゟ相触次第、人馬無滞可差出者也
(嘉永二)
酉九月五日
佐渡 印
遠江 印
本文村々之内外宿助郷等相勤居候分も有之候ハゝ残高を以可相勤候事 (『大黒屋諸事書留覚』)
(表)
馬籠宿外下四宿の役人から伊那郡新古助郷村に宛てた助郷人馬の申触書は次のとおりである。
一筆致啓上候、然は寿明君様下向当九月十五日京都 御発輿同九月廿一日中津川宿御旅館同廿二日野尻宿御旅館ニ而御通輿被為遊旨、未御本触至来不仕候得共、其筋より御沙汰ニ付御村々ニ左之通助人馬申触候、
一高百石ニ付
人足四拾八人四分八厘九毛掛り
此人足〆 五千人
一高百石ニ付
馬弐疋九分弐厘八毛掛り
此馬〆 三百弐疋
但勤方内訳左之通り
勤人足 弐千四百人
勤馬 弐百拾疋
右ハ九月廿日馬籠宿江参着、翌廿一日五ツ時中津川宿江相詰、翌廿二日野尻宿御泊迄御荷物持送り御勤可被成候
勤人足 弐千六百人
勤馬 九拾弐疋
右ハ九月廿一日九ツ時野尻宿江参着、翌廿三日福島宿御泊り迄御荷物持送り御勤可被成候、将(はた)又証人中は廿日野尻宿参着可被成候、
右之通人馬御割合之儀は、文化度(文化元)楽宮様御下向之節御泊所ゟ御泊り所迄御継立之振合を以今般道中 御奉行所様より被 仰渡有之候間、御承知被成右日限、刻限共、無相違中津川宿・野尻宿江急度御差出可被成候、
勿論御太切成 御旅行殊ニ長丁場持通し之事ニ御座候間、丈夫成人馬相選御差出、御通外御無礼等無之様、御申付、證人中差添御差出可被成候、万一違変之儀有之候得は出役證人中江御引合可申候、猶又御継所江一村ニ而御庄屋衆壱人宛御出役可被成候、尤無所詰之義、追例之通御立合被成候、為其如斯ニ御座候以上
嘉永二年酉九月十三日
野尻宿問屋 古屋久左衛門印
三留野宿問屋 鮎沢弥左衛門印
妻籠宿年寄 原 佐左衛門印
馬籠宿年寄 大脇兵右衛門印
竹佐村初〆外三拾弐ケ村
新助郷村三拾九ケ村
〆七拾弐ケ村
右村々庄屋衆中
組頭衆中
中津川宿から木曽野尻宿の間、行列の荷物持通しの人馬数は、馬籠宿年寄大脇兵右衛門の『大黒屋日記』に次のように記録している。
嘉永二年九月廿二日 天気 朝五ツ時前寿明君様御本陣出立ニ被成候、其外御供方追々御出立、無御故障人馬御継立相済、八ツ時帰村仕候、
人足四千八百人備
内訳 弐千四百人 中津川宿 助郷方 千八百人
尾州御加 六百人
弐千四百人 木曽三宿 伊那助郷 弐千弐百五拾人
尾州水野村御加人足 百五拾人
馬寄三百五拾疋
内 弐百拾疋 木曽寄
百四拾疋 三留野・妻籠・馬籠