幕末期の水戸藩の動き

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水戸藩は家康の第一一子である頼房を祖とする。二代藩主光圀は大日本史の編纂を通じて〈水戸学〉という独特の学風をつくり家中の思想統一を図った。藩の財政の窮乏などから水戸学は一時姿を消すが第六代藩主治保によって再興され、改革の機運が動き出した。しかし改革について漸進守旧を唱える派と、急進改革を唱える派に別れ藩内に党争が起きるようになった。
 第九代藩守斉昭のとき、藤田東湖や会沢正志斉など改革派の国学者が登用され天保の改革が断行された。この天保の改革の流れを汲む人々が幕末の水戸藩の尊王攘夷の推進派となるのであるが、これらの推進役を果たしたものは主に下級武士たちである。彼らは門閥保守派からなる〈諸生党〉と鋭く抗争しながら水戸藩の尊王攘夷派、あるいは急進派を形成していった。身分の低い階級の者の集団ということから、保守派からは「なりあがりもの」と白眼視され、〈天狗〉又は〈天狗党〉と呼ばれた。彼らに思想的な影響を与えたのは平田篤胤(一七七六~一八四三)であり、皇室中心主義の平田国学は宗教的色彩も強く、その思想は地方の豪農や下級武士の層に浸透し、幕末期における尊王攘夷派の精神的支柱となっていた。徳川斉昭の死後、攘夷派の中心的指導の役割を果たしていたのは藤田東湖の第四子、小四郎である。
 このころ水戸藩には一方で、佐幕的傾向の強い市川三左衛門が保守派の指導権を握り、藩校の水戸弘道館に学ぶ学生らと結んで天狗党に敵対するようになった。尊王攘夷運動が盛んになるにおよんでその急進派が天狗党の中心的存在になると、両者の間は政治的論議を越えて武力抗争の様相を呈するに至った。