八月一八日の政変

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文久二年(一八六二)、京都の政局の主導権は尊王攘夷派が掌握し特に薩摩・長州・土佐三藩の急進派は政局をリードしていた。文久三年四月には攘夷祈願のための加茂神社及び石清水神宮への天皇の行幸を実現させ、また将軍には五月一〇日を攘夷実行の日として宣言させる。さらに八月一三日には攘夷祈願・親征軍議のための大和行幸の詔を出させるなど、その運動は極度にエスカレートしていった。
 こうした急進派の動きは、もはや幕藩制度の秩序の維持を踏み越える動きとされ、当時京都にあった薩摩・会津の公武合体を主張する派の指導部は、朝廷内部の上層公卿らと連絡をとり、クーデターを計画した。八月一八日未明、薩摩・会津両藩の兵が御所を守護するなか、中川宮朝彦親王・前関白近衛忠煕父子・右大臣二条斉敬・京都守護職松平容保らが参内して朝議を公武合体の方向に一変させ、過激な攘夷が天皇の意志でないことを表明する。大和行幸を延期し、長州藩の御所警備の任を解き、三条実美以下急進派二一名の参朝を停止した。この結果一部の公卿は京都に残るが、三条・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳・沢宣嘉の七名は長州藩と共に長州に行くことになった。これを「七卿落ち」という。以上の経過によって、長州藩を中心とする攘夷急進派は一掃され、攘夷派によって支配されていた京都は一変して公武合体派にリードされ、敗れた尊王攘夷派は政治的な拠点を失ってしまった。これを「八月一八日の政変」という。(維新資料編纂会・「維新史3」から要約)