八月一八日の政変で長州藩を中心とする尊王攘夷派の運動が敗北すると、かねてから長州藩尊王攘夷派の武士と連絡をとっていた天狗党の藤田小四郎、水戸町奉行の田丸稲右衛門らが首謀者となって、元治元年(一八六四)三月二七日、茨城県の筑波山に兵を挙げた。天狗党は日光東照宮に戦勝を祈願した後、一旦は領内に戻るが水戸藩内では将軍家に弓を引く反乱者とされ、この討伐を主張する市川三左衛門と、これに反対する家老職の武田耕雲斉の二派に別れて激しい論議が交わされ、やがて耕雲斉もこの挙兵に加わった。
九月になると天狗党は那珂湊に拠点を移すが、幕府は諸藩に天狗党追討を命じ水戸藩でも諸生党が加わり、十月二三日に総攻撃を行い、天狗党は決定的な敗北を喫した。武田耕雲斉ら天狗党の約八五〇名は逃れて久慈郡大子村(現大子町)で態勢の立て直しをはかった。しかし幕府から追討令を受けたうえ、主家である水戸藩から攻撃されるなどにより、主家から追っ手を受けることとなった天狗党は文字通り〈浪士〉となってしまった。幕府が水戸藩の佐幕派と結んだことにより、勤王攘夷を旗印にしていた天狗党はその拠点を完全に失ったのである。