幕府から追っ手を受ける身となり、緒戦にも敗れた天狗党は挙兵の目的を幕府や諸藩に建白する一方、挙兵の目的が勤王攘夷であり皇室に対する忠誠の証しであることを朝廷に訴えることが必要であり、そのためには当時京都で禁裏の守護総督の職にあった徳川慶喜に訴え、その助けを得ることにより事態の打開を図ろうとし、元治元年一〇月二四日、京都を目指して西上の行軍を開始した。
一行の幹部は旧主の水戸家への遠慮から変名を用いることにした。即ち武田伊賀守彦九郎正生が武田耕雲斉と名乗ったのをはじめ、田丸左京は稲之衛門、藤田小四郎は小野斌男、亀山嘉治が神山勇など一七名が名前を変えた。
浪士隊は総大将が武田耕雲斉、大軍師・山国兵部、本陣・田丸稲之衛門、輔翼・藤田小四郎がそれぞれなり、出発時の総勢は八七五人、一行の中には茨城郡川又村・市毛庄七の妻のように、非戦闘員が若干名含まれていた。
天狗党の一行は水戸領外に出てからは〈水戸浪士〉と呼ばれるようになった。よってここからは特に限られた場合のほかは「水戸浪士」と記述することにした。
浪士隊は筑波山を出発するにあたり、次のような厳しい軍律を布告した。
一、無辜の人民をみだりに手負せ、殺害致候事。
一、民家へ立入財産を掠め候事。
一、婦女子を濫りに近付け候事。
一、田畑作物を荒らし候事。
一、将長の令を待たず自己不法の挙動致し候事。
右禁令の条々相犯すに於いては断頭に行う者也。
こうした厳しい軍律の下に行動を開始したのであるが、途中から参加した者や、紛れ込んだ無頼者などもあり、これらの者のなかには騒ぎにまぎれて軍律を犯す者が若干でたものの、隊士の規律は終始保たれていたという。