梅沢峠で高崎藩を破る

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徳川幕府は天狗党が京都へ行くというのは口実で、その本当の目的は長州へ行って長州勢と合体して幕府に対抗する戦闘行為と判断し、このため浪士隊の進むと思われる沿道の諸大名に「浪士一行は一人も通すな、手に余れば討ち取れ」と指示した。幕府から諸藩に出した命令はつぎのようなものであった。
 野州屯集の賊徒其の内脱走ノ者有之信州路等へ罷越候趣ニ付追討之議最寄ノ面々へ相達置候共間道等通行京阪並に長州辺へ罷越やも計難候に付銘々領分ハ勿論他領までも申合厳重取締向相若騒動敷者有之候ハバ討捨候様致し候事
                                   講武所奉行 堀 岩見守
 江戸幕府はさらに若年寄・田沼玄蕃頭に兵三千を付けて浪士隊追討を命じ、追いつき次第撃滅せよと指示した。しかし田沼軍は江戸出発以来、連日のろのろ進軍でその日は大宮泊まり、翌日は四里ほど進んだだけで熊谷に泊まるなど足踏み同然の進行で浪士隊の行き過ぎるのを待ち、その後は常に浪士隊との距離を二〇里ほどおいて行軍していた。
 浪士隊の一行は無益な戦闘を避けるため、間道を通ったり夜間の行軍をしたりしながら、本庄宿から中山道を横切り吉井・富岡・南蛇井と中山道の裏道を信州に向けて進んだ。元治元年一一月一五日の夕方には上信国境の下仁田に到着し民家に分宿した。高崎藩はこの日早朝から松平右京亮が率いる遊撃隊が梅沢峠に配備され、攻撃態勢に入っていた。
 十六日午前四時ごろ、高崎軍は浪士隊の隙を窺って襲いかかり戦闘が始まった。しかし長い間平和が続き戦闘経験がない高崎藩は、約二時間の戦闘で戦死者三六名、負傷者十六名の損害を生じたうえ、一〇名以上が敵に捕えられ、砲三門・小銃五〇余挺を失うという大きな犠牲を払って退却した。浪士隊軍の損害は戦死三名だった。
 田沼追討軍が梅沢峠に到着したのは、この戦いの三日後であった。これを聞いた高崎藩主は、追討軍がもっと早く行動し背後から浪士隊を攻めていたらこんな惨めな敗戦はなかったのに、と悔しがり戦意のないまま行軍を続けている田沼軍を恨んだという。
 浪士隊軍は高崎軍との戦闘後、十六日夜は上州一の萱に泊まり、十七日は内山峠を越え、十八日平賀村を経て野沢村で昼食となったが、このときの浪士隊の状況について「上信佐久通行記」に次のような記録がある。
 ……大槍鉄砲はひさしに立て掛け、或いは戸障子に立ち並べ旗・馬印・馬簾様の品々並べたる有り様は五月の節句にわかにできたるが如し。乍去、下仁田戦い間近の事ゆえ、薙刀・槍の類血に染まり、或いは具足・衣類などまで、血戦ありしままのいでたち、誠に恐ろしき有り様なり。槍・長刀残らず抜き身なり。前・中・後・三陣共に手負い人もこれ有り、こびんを切られ、或いは腕を突かれ、又は鉄砲にて撃ち抜かれ、一人は大股を撃たれ、鉄砲玉留まり候をほりだし、その疵へ真綿を打ち込み、足腰槍鉄砲の疵、痛手の者戸板に乗せ、ハレツ玉にて焼きただれ・切り傷・槍傷等は酒にて洗い、木綿の切れにて〆杯いたし候見るもなかなか恐ろしく、ぞっと致し候。また休み中、農家の鎌とぎ砥を借り、刀・脇差・槍などを磨き候輩多分有之候。また具足・衣類に血着き候を洗うなど致し候……。(文中の句読点、送り仮名は一部整理した。)