和田峠の戦い

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浪士隊は一八日平賀村を経て望月の宿(望月町)に泊まり、一九日には笠取峠を越えて小県郡の和田宿(和田村)に泊まった。
 幕府から松本藩に浪士追討の命令が到着したのは一一月一五日だった。出兵を決め稲村久兵衛が約四〇〇人を率いて一七日午前八時に松本を出発、和田峠には一八日午前二時に到着して陣を構えた。松本藩では梅沢峠の戦闘の様子を聞いて検討した結果、平地で戦うことは不利と考えたので、峠に兵を配置するとともに峠から佐久方面に寄った東の餅屋に本陣を置いた。
 高島藩に幕府の命令が届いたのは一一月一七日であった。高島藩には水戸藩の勤王派と同じ思想を持つ国学者がおり、藩にはその門人も数多かったことから、浪士と戦うことに消極的な意見が強く藩の意見統一に手間どった。しかし藩主諏訪忠誠が老中職であることから、その手前上、防戦のための出兵ということで物頭矢島伝右衛門を指揮者として、和田峠の南麓の樋橋(現下諏訪町内)に一九日午前六時に陣を敷いた。
 高島藩は浪士軍が甲州路に入ることを警戒し甲州路を固めることを理由にして出兵の数も二〇〇人と少なく、そのために松本藩と連合して戦うことが有利と考え、松本藩に合流を申し入れた。この日、戦火の及ぶことをおそれた岩村田藩では、戦闘が峠の向こう側で行われるよう松本藩に本陣の移動を陳情した。こうしたこともあって松本藩は協議の結果連合軍で戦うことを了承し、本隊は二〇日の夜明けに東餅屋に火を放ったうえ、峠を越えて高島藩の本営である樋橋村で高島藩と合流した。
 浪士軍が和田峠を越え、戦いが始まったのは、二〇日午後三時ごろである。両軍は次第に接近し、壮烈な白兵戦が四時間程続いたが、夕闇が迫るにつれて連合軍側は彼我の判別が困難になり、同士討ちとなる危険がでてきたこともあり、午後七時を過ぎたころ下諏訪方面に敗走し戦闘は終わった。
 両軍の損害の状況
  水戸浪士軍
   戦死者…不動院全海 横田巳之助 鈴木恆之助 鈴木金蔵 大久保茂平衛 岡本久次郎
  松本藩
   戦死者…近藤艮五郎 吉江右衛門太郎 吉江伴之丞 堀江玄三 堀江曾野太夫
  高島藩
   戦死者…三輪佐兵衛 林久太兵衛 矢崎与一 牛山源次郎 今井作右衛門
 この戦いで横田藤四郎の一子巳之助は胸に弾丸を受けて戦死した。父藤四郎は、首級だけはどこかの寺に葬ってやりたいと首を陣羽織に包んで背負って行軍を続けた。
 今この峠の麓に「元治甲子水戸浪士殉難之処」の碑が、さらに少し離れて戦死した浪士六名の墓碑が建っている。横田巳之助は本名藤三郎元綱、一八歳。大正四年一一月従五位を贈られた。敦賀の松原神社に祭神として祭られている。