浪士軍が味方の戦死者を仮埋葬し下諏訪の町に入ったのは夜一〇時ごろであった。下諏訪の町はほとんどの住民が避難し町は無人化していた。よほどあわてて避難したらしく、家財道具はほとんどそのまま、なかには食事の支度も出したままの家もあった。浪士軍は下諏訪到着と同時に全軍に布告を出し、民家への押入りや食糧の持ち出しなどを禁じ、万一民家のものに手を付けたら軍律に照らして厳しく処断する、と警告した。
下諏訪の宿に一泊した浪士隊は、ここから木曽路に進むべきか、伊那路を通るべきかを相談した結果、木曽路には福島の関所があり道も険しいので木曽を避け平田国学の同志も多く大藩の無い伊那路の方が得策という結論から伊那路を選ぶことになり、翌二一日早朝、伊那谷に向けて出発した。上平出(辰野町)で昼食、この日は松島宿(箕輪町)泊まり。二二日は上穂(駒ケ根市)に泊まった。このまま進めば遊撃態勢にある飯田藩の堀石見守と戦わなければならない。このとき飯田藩との衝突を避けて間道を行くことを説得したのは、平田篤胤の門下生で座光寺村庄屋の北原稲雄とその弟、今村豊三郎であった。二二日の夜、豊三郎は北原家に潜伏中の国学者・角田忠行とともに上穂宿に浪士の陣営を訪れ、飯田藩との衝突を避けるため間道を通るように説得した。この口利きで浪士軍は飯田突破をやめて、二三日早朝北原稲雄の案内で間道を通って飯島を経て片桐に泊まり、翌二四日には駒場に泊った。
この夜、隊士の一人、四番報国隊に所属する高橋憲治なるものが農家から着物(一説では蓑)を強奪したとして軍律違反の罪でその場で処刑された。処刑のあと、藤田小四郎は徴用してきた地元の人足に小判を渡してその菩提を弔うように依頼した。今、梨子野峠の麓、青木部落に一基の墓が建っている。「水戸浪士の墓。明治六年八月、金沢音松建之」とあることから、処刑後の菩提を弔うことを依頼された地元の人が後年になって建てたものである。墓には読み人しらずとして、
その名さえ 世に高橋の武士の
いのち梨野のつゆと消え行く
と、一首の和歌が刻まれている。
浪士隊はここから先の路順で再び悩んだ。中山道に出るための神坂峠は嶮路悪路のうえ雪も深く、兵の体力消耗を考えると不可能な山越えであり、このまま伊那路を進んで浪合から三河路をとれば、浪合の関所で武田耕雲斉の姻戚の旗本・知久帯刀と戦わなければならない。仮にここを突破しても、その先には尾張の大藩があり、加納(岐阜)には長井肥前守の三万二千石がひかえている。
こうした軍議の最中に訪れた平田国学同門の浪合の庄屋・浪合佐源太から、「木曽谷や中津川には平田門下の同志が多く、通行には便宜が図ってもらえるから」と馬籠に出るよう勧められた。一行はこの勧告を受け入れて一里ほど今来た道を引き返して梨子野峠を越え、二五日は上清内路に泊まった。清内路には関所があるのでここは強硬突破しなければならない予定だったが、清内路の平田国学同門の国学者原武右衛門の計らいで関所の手前から関所を避けて山伝いに中山道に向かった。