浪士隊が馬籠に入ったのは一一月二六日のことである。雨の中を浪士隊一行が馬籠宿に到着したのは夕方であった。情報機関の乏しかったこの頃、血刀を引っ提げた千人ほどの侍が大挙乗り込んで宿場に泊まるということで、宿内はたいへんな騒ぎとなった。このときの様子を馬籠宿の年寄役を勤めていた大黒屋十代の当主大脇兵右衛門は「大黒屋日記」で次のように記録している。
十一月二十六日 雨降り。
いよいよ浪人衆、飯田まで参り、昨二十五日清内路泊まりにて俄に当宿泊觸到来、大騒動に相成り。在方へ逃げ去り候ものも有之、家内諸道具土蔵へ入れ裏白戸まで用心いたし、大切の帳面、腰物などは拙宅にては長持へ入れ、青野久次郎方まで持運させ、用心第一番に為致候。本家は勿論隠居まで御用宿にて、同勢二十一人、御泊り引受け宿いたし候。
浪人衆出たちは残らず鎧兜、騎馬にて、中には陣羽織着用之人も有之候。烏帽子の仁も有之、いろいろさまざまの姿にて、まことに恐ろしき事に御座候。しかしお目付と申す御方には至極人宜敷、穏かに御座候。中には人気悪敷ねだりがましき事も有之、旅籠銭は一人に前弁当用意二百五十文お払い被成候。人数凡そ二千人、及馬は乗馬、荷付馬共に凡そ四百疋程と申事に候。松本・諏訪合戦、和田峠にて有之、松本家老水野新左衛門と申す人討死、其他大人数殺され、其上、陣太鼓・具足大筒抔も浪士方へとられ候由、浪人衆よりお咄有之候。諏訪も同様之由。
この日記によれば、浪士たちが大勢来るというので婦女子はもちろん危険を感じた者は在方に避難し、家財道具や貴重品は土蔵に入れたり、遠く離れた青野原あたりまで持ち出して用心した。当日大黒屋に宿泊した者は二一名だった。隊士は全員が鎧・兜で馬に乗っていたというから、多分幹部クラスの人達だったのだろう。「ねだりがましき事も有之」とあることから、ここでも金銭を強請され被害に遭っている。しかし食事付きで宿泊料は一人につき二五〇文の割合で精算されており、その面での被害はなかったようである。
浪士隊は行く先々で多数の人夫を徴発し、数日後にはその一部を解雇しているので、一行の総人数は絶えず変動しているが、前日泊まった清内路村の記録には総合計が八八四人とあるので、馬籠宿に入った者もほぼこの人数とみていいだろう。これだけの者は馬籠だけでは到底収容できないことから、手勢を二つに分け、本隊のほか年少者や老人・負傷者など約六四〇名あまりは馬籠に、壮年組など約二五〇名は落合宿に宿営した。