木曽地方に於ける平田国学派の門人たち

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このとき浪士隊の受け入れ一切の世話をしたのは、平田国学同門の馬籠宿の庄屋・本陣・問屋を兼ねる島崎正樹であった。彼は浪士隊の通過のため美濃に居る同志に協力を呼びかけていた。「平田先生授業門人姓名録」によると、平田篤胤の没後に入門した者を加えるとその門人の総数は明治九年までに三七四五人にのぼり、このうち信濃には六二七人、美濃には三七五人いたという。
 ちなみにこの地方の最初の入門者は、嘉永五年(一八五二)苗木藩の下級藩士・青山景通で、彼が篤胤の養子平田鉄胤と接触したことから始まったものである。この青山を中心にして平田国学普及の初源的役割を果たしたのは、中津川宿の馬島靖庵(島崎藤村「夜明け前」の宮川寛斎)であった。彼は苗木藩の典医、水野自牧の五男として文化八年(一八一一)の生まれ。長じて医師になり、中津川宿の間矩普(はざまのりひろ)の娘婿となった人で、伊那の北原稲雄、松尾多勢子らと共に安政六年(一八二三)に平田国学の門を叩き入門を認められた。こうした人々の指導・活躍によって木曽谷から美濃地方一帯にかけて、神武創業の古代復帰を提唱する平田国学は、下級武士や宿村の支配層の受け入れるところとなり、これらを中心にして燎原の火のように広がっていったのである。
 木曽路における平田国学の最初の入門者は、贄川宿の小沢文太郎で万延元年(一八六〇)の入門。このあと文久三年(一八六三)正月に、馬籠宿の島崎重寛(後に正樹と改名)が入門した。島崎正樹の入門は、平素から親交のあった中津川宿の本陣市岡殷政(しげまさ)、問屋間秀矩(はざまひでのり)、庄屋肥田通光。そしてこれらの人々と縁戚関係にある伊那の女志士・竹村(松尾)多勢子らの影響に因るものだった。
 幕末から明治初期にかけての木曽谷の門人は次ぎのようであった。
【馬籠宿】島崎正樹。
【山口村】外垣範助。
【木曽福島宿】永井千洲、上田治馬、沢田速水、横田右衛門太、山村靱負、宮地半一郎、大脇文太郎、白州文吾、礒野閏三郎、松井八左衛門、小林廉作ら十一名。
【贄川宿】小沢文太郎、陶山正名、清水逸之丞、木曽座頭、市川久蔵、小沢邦太郎、小沢時之助、倉沢隆之助、贄川克、山口栄蔵、陶山政兵衛、小林左仲、千村清一郎、小沢清兵衛、小沢兵右衛門、市川虎三、伊藤金助、佐藤平助、百瀬九郎右衛門、以上十九名。
 このほか中津川宿には、前述の馬島靖庵、間秀矩、市岡殷政らを含めて三五名、落合宿には鈴木頼道ら一〇名、苗木には藩と町方併せて青山景通以下五五名、大井宿及びその周辺には佐藤清臣以下五六名、このほか東濃の村々から加茂郡にかけておびただしい数の門人がいた。
 浪士一行が伊那谷で通行コースを馬籠から美濃路に選んだのは、行く先々にこのように同門の志が多く、かつ広範囲に居住し活動していたことで、これが安全への大きな支えとなったのが最大の理由であった。そしてこれらの人々は浪士一行の期待に応え、身の危険を顧みる事なく浪士の通行に一致して力を貸したのである。
 島崎正樹が浪士隊を迎え、そしてこれを見送るにあたって、中津川の同志に宛てて次のような一通の手紙を送っている。
  尊王攘夷之赤心
  忠烈之軍隊邂逅
  忝一宿察僕之微志
  依僕乞助護於
  諸君仍達啓如件
    十一月二十七日 島崎重寛
  市岡君
  馬島君
  肥田君
  間君
 此の夜、島崎正樹が同門の志、亀山嘉治との邂逅の場面を、島崎藤村は「夜明け前」で次のように描いている。
 「半蔵には、浪士の一行に加わって来るもので、心に掛る一人の旧友もあった。平田同門の亀山嘉治が八月十四日那珂港で小荷駄掛となって以来、十一月の下旬までずっと浪士等の軍中にあったことを半蔵が知ったのは、つい最近のことである。いよいよ浪士等の行路が変更され、参州街道から東海道に向かふと見せて、その実は清内路より馬籠、中津川に出ると決した時、二十六日馬籠泊りの触れ書とともにあの旧友が陣中から寄こした一通の手紙でそのことが判然した。それには水戸派尊攘の義挙を聞いて、その軍に身を投じたのであるが、寸功なくして今日に到ったとあり、一旦武田藤田等と約した上は死生を共にする覚悟であるといふことも認めてある。今回下伊那の飯島といふところまで来て、図らずも同門の先輩暮田生香に面会することが出来たとある。馬籠泊まりの節は宜しく頼む、その節は何年振りかで旧を語りたいともある」(第一部から)
 亀山嘉治は本名を勇右衛門嘉治といい、下野国安蘇郡三好村の人。早くから日本古学を学び平田国学派の士。国典に精通し、詩歌の道にも造詣が深かった。水戸の尊王攘夷に身をもって投じ、敦賀で一行とともに斬首され二六歳の生涯を終わった。大正四年一一月従五位を贈られ、靖国神社に合祀されている。法名は亀山忠頌居士。
 島崎正樹は、同志らと共に明治改革の草の根的な存在として尊王討幕の運動に奔走した。しかし、発足した明治新政府は彼が期待したものとは程遠く、平田国学の大義である「神武創業の往古に還れ」の理想とは掛け離れたものであった。彼が、まさに命をかけた生涯の運動の結末としてはあまりにも哀れであり、失意の内に五六歳で狂死したのである。

馬籠宿本陣当主島崎正樹