浪士隊の軍資金調達

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浪士達は行く先々で軍資金の調達を行った。行軍のための日々の費用のほかに、攘夷実行のために備えるためのもの、国恩冥加に報いるための拠出金ということが名目であったが、徴収はかなり強引に行われたようであった。特に横浜の生糸貿易で利益を得た者には、朝廷の攘夷鎖国の方針に反して外国と貿易し、莫大な利益を得たものとして目をつけられた。
 浪士隊の金策担当者は春日秀太郎、園田七郎が受け持っていた。信濃で最初に拠出させられたのは、原村の市兵衛外二名である。
     一金拾五両
  右者御国恩為冥加前書之金子被致献納慥ニ致受納候 以上
                水戸 園田七郎  印
                   春日秀太郎 印
    元治元甲子年十一月
      原村
       市兵衛殿
 このほか野沢村の並木七左衛門五〇〇両、庄兵衛二〇両などが記録に残っているが、軍資金調達行為は伊那路に入って本格化し、浪士に好意的に寄せられたものも含めて伊那谷だけで実に八五三三両にのぼった。伊那郡泉原村の茶碗屋善助は拠出金の求めに応じなかったため、浪士隊は同家の隠居を馬籠まで連行した。家族がその後を追いかけ、馬籠で三〇〇両を出して隠居を取り戻している。このときの状況を大黒屋日記は、一一月二六日の日記の続きで次のように記録している。
 飯田みのぜ茶碗や善助と申す仁、横浜交易にて一萬両之利分有之候事聞出し、右善助親召し捕り、當宿へ縄かけ引き参り、拙宅に泊まり、金子ねだり、とうとう三百両出し親父の命助かり、親類并に取扱の者共五六人参り居候處、事済み相成り、二七日朝出立被致候。道々悪党の趣、中々書き尽せず候間、あらましのところ相記し申候。
 さらに二七日の日記に、「中津川の十八屋と山半の家族を落合まで呼び出し、二百両出すようにと言った。両家のものは村へ帰って相談の結果、横浜で交易した者たちで負担しあって差し出した」とある。

冥加金領収書
(野沢町・飯島家所蔵)

 藤田小四郎ら浪士隊の幹部はその夜は馬籠宿の本陣に宿泊したが、そのとき揮毫の短冊が島崎家に残されている。この短冊は額装で保存されており、最初に島崎正樹の筆で、
 元治元年甲子一一月廿五日弊駅一泊翌日自中津市岡送ル 水戸義士藤田小四郎以下揮毫 馬籠駅 島崎正樹
と書かれた短冊があり、次に浪士揮毫の六枚の短冊が収められている。
 
    消え果つる身は惜しまねど後の世に
       語り継ぐべき名を立てまくも     信

                       (水戸藩藤田小四郎)
 
  詠史   法霊出岫主天笠置山所無索
       勤王恢後事経土窟納僲石城
                   常陸□□山王 大岩寺無三

 
  霜月はかり旅行  駒並めてわか越えくれば信濃なる
  をり信濃の国へ    すかのあらのにみ雪降るなり
  かかりければ                  佳斡

                           (滝平主殿)
 
  信の□□や   何となく心くもりてたひ衣
  またふみぬ     きその山路に袖ぬらすらん
  きその山は                   久直

 
   玉の緒はたへてもたへし皇を
      あらむ限りは守り守らは         久直

                          (田村右三郎)
 
  故ありて信濃の
  国を通ける時駒が  あられなす矢玉の中はこえくれど
  岳より吹きおろす雪    すすみかねたる駒の山下
  風のいと寒ければ                嘉治

                     (水戸藩 亀山勇右衛門)

水戸浪士揮毫の短冊(馬籠島崎家所蔵)

 浪士隊の中には水戸藩士以外の浪人が紛れ込んでいた。これらの者の中には軍律を犯すものがあったようで、隊士が落合の三五澤の山中で処刑している。その辺りのことを大黒屋日記は次のように記している。
 十一月二十七日―天キに相成。浪人出立。中に土佐の浪人一人交り居候処、是は余程悪党者につき、仲間中にて三五澤まで召連れ此処にて首切申候。逃込候百姓家へは手当として金子一両家内へくれ候由有之候。