二七日に大井宿を出た浪士隊は二八日に細久手を通って御嵩宿泊まり。二九日は木曽川を渡って鵜沼宿泊まり。このまま進めば行く手の加納には永井肥前守が城下を固めて待機し、御影寺宿には大垣城の戸田采女正の手勢が、また垂井宿には彦根藩が待機しているという物見の報告があった。このとき薩摩藩の中村半次郎(後の桐野利秋)が潜行して一行の本営を訪れ、「薩摩藩は真正面から浪士の力になるから、間道などを大回りして通らずに堂々と本街道を京都に進みなさい」と薩摩藩の意向を伝えた。しかし、近江の大津宿には一橋慶喜候の陣所があり、ここを強硬突破することはできないとしてこの協力の申し出を断り、山岳地帯を横断して越前に出て琵琶湖の西から京都に出るコースをとることになった。