鵜沼からは間道を通って天王で宿泊。一二月一日には糸貫川を渡って揖斐泊まり。ここから進路を北に転じて美濃から越前に向かった。日当で泊まった後はいよいよ雪の山道をたどることになり、長嶺・大河原と進んだ。暗闇峠・蠅帽子峠・笹又峠・湯の又峠などと進むうちに道らしい道はなくなり、雪は深く道は険しくなって、砲車はそのままでは運べないので解体して肩にかつぎ、負傷者は背負って進んだ。腰を埋める積雪は野営しても眠ることも炊飯することもできず、飢餓と寒さに苦しみながら雪の進軍を続け、一一日に木の芽峠を越えて半死半生の状態で新保に着いたが、このころには全軍の疲労困憊(こんぱい)はその極に達していた。
浪士隊が越前に向かったとの情報により、水戸家では大場一真斎を指揮者とする七〇〇人ほどが追討の手筈をきめたほか、加賀藩から一二〇〇人が差し向けられた。このほか間道には小浜、金沢、大野などから相当数の兵が動員されて要所要所を固めた。
加賀藩の永原甚七郎の率いる一二〇〇人は一〇日は葉原に陣を敷いて浪士隊を待ち構えていた。飢えと寒さの中で浪士隊の衰弱は激しくなり、眼前に永原軍を迎えて進退が窮まった。そこで一二日になって永原の陣に使者を立てて、「自分たちの目的は京都にいる慶喜に嘆願の為であるので無事に通行させて欲しい」と陳情した。加賀藩はその意を認め、浪士隊は京都へ陳情に行くのが目的であり、これを暴徒として討ち取ることは武士道に背くので、一行の処置は加賀藩に任せて欲しい、旨の進言を大目付滝川播磨守へ提出した。これに対して幕府は、あくまでも暴徒として扱えと命令してきた。しかし飢餓にさらされているうえ、長途の行軍と二度の戦いで傷つき疲れはてている浪士隊を攻撃することは加賀藩としては忍び難いとして、浪士隊に再三の投降を呼びかけた。だが浪士隊の意志が堅く降伏の兆しがないことから一計を案じ、「慶喜から一七日を期して総攻撃をするよう命令が出た」との虚報を浪士隊に流した。これを信じた浪士隊は、最大の寄り所である慶喜を敵に廻すことになり最後の頼みの綱が切れたとして、ついに降伏書を永原に送り全員が永原の軍門に下った。