降伏後、浪士隊は武器弾薬を引き渡し、二一日に敦賀に送られ加賀藩に引き渡され、本勝寺・本妙寺・長遠寺に分かれて収容され保護を受けた。この時加賀藩に引き渡した軍装備は乗馬五二頭、駄馬四〇頭、大砲一二門、小銃三八八挺、火薬五三貫、鉛弾丸四一貫、火縄四五把、大小刀八一本、槍二七五本、薙刀二一本その他であった。加賀藩に収容された浪士たちに対し、越前の松平春岳を初め鳥取・岡山・浜田・喜連川などの各藩から浪士救済のための運動が起こったが幕府の聞き入れるところとならず、後から到着した追討軍の田沼玄蕃頭に引き渡しを命じた。
二百余里に亙る決死の行軍の末路はあまりにも哀れであった。加賀藩では手厚い処遇を受けていたが、玄蕃頭の手に移ると一変して重罪人扱いになり、鰊粕をいれる暗闇の一六棟の土蔵に丸裸同然にして押し込まれた。この土蔵は現在一棟だけが残されており、土地の人たちは「浪士土蔵」と呼んでいる。更に長さ一尺五寸、幅三寸、厚さ一寸五分の松板で作った足枷(あしかせ)を左足にはめて自由を奪った。食事にいたっては与えられないも同然だった。
遠く信州にあってこれを聞いた松本の市川量造、馬籠の島崎正樹、清内路の原武右衛門らは同志に働きかけ、金を集めて食料を買い、馬の背に付けて急送した。
幕府は清水村の永覚寺に臨時の役所を作り、三日間に亙って浪士たちの取り調べと処刑の言い渡しを行ったが、その結果は斬首刑が武田耕雲斉以下三五三名、遠島二二七名、追放一八八名、無罪五十余名となった。
斬首刑の執行は彦根・小浜・福井の三藩に命じられたが、このうち福井藩は、憂国の士を処刑するは武門の恥としてこれを拒否した。他方彦根藩は五年前の万延元年(一八六〇)に主君井伊直弼が桜田門外で水戸藩士らによって殺害されたことから、主君の恨みを晴らすのはこの時とばかり喜んで引き受けたという。処刑場には大穴を掘り、処刑は慶応元年(一八六五)二月四日、一五日、一六日、一九日、二五日の五日間に亙って行われ、死体はこの穴に投げこまれた。武田耕雲斉、藤田小四郎、田丸稲之衛門、山岡兵部の首級は田沼玄蕃頭によって江戸に運ばれて水戸に回された。水戸では市川三左衛門がこれを城下を引回しのうえ那珂湊でさらした。
筑波山で挙兵した際、幕府は首謀者の家族はことごとく捕らえて牢に入れてあったが、一党が処刑されたあと、武田耕雲斉の妻とき子四八歳、六男桃丸九歳、七男金吾三歳など、その首謀者の家族はすべて牢獄で斬首された。
王政復古の大号令が出たのは、浪士が断罪されてから僅か二年後の慶応三年(一八六七)であり、その翌年には明治維新を迎えるのである。黎明日本の捨て石となったともいえる水戸浪士のうち、四一一名は明治二二年(一八八六)五月、靖国神社に合祀され、さらに二四年一二月には正四位が武田耕雲斉、田丸稲之右衛門、山岡兵部、藤田小四郎に贈られ、そのあとも外の者に相次いで贈位があり、浪士全員が福井市の松原神社に祀られた。
武田耕雲斉は名を正生といい、通称を彦九郎、号を如雲、引退してから耕雲斉といった。断罪されたときは六三歳だった。
藤田小四郎は藤田東湖の四男で、号を東海といい、天保一三年(一八四二)生。
田丸稲之衛門は名を直允、号は和斎といい、文化二年(一八〇五)の生まれ。享年六一歳だった。