頻発した宿場火災の背景

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江戸の華といえば火事を指すほどに、江戸の火事は名物の一つであったが、各地の集落にあっても江戸時代には頻繁に大火に見舞われている。とりわけ木曽は、火事の名所としてその名が知られていた。大火災に見舞われるたびごとに、宿場の住民は苦渋のなかで再興をはたすが、立直りできない住民は「家内残らず離散」という悲運のもとに、宿場を後にしなければならなかった例もめずらしくなかった。大火の度ごとに、このような人口流出が見られることからも、宿場経済を極度に疲弊させたことがわかる。経済的な面ばかりでなく、通行の支障等宿駅としての機能が壊滅状態となる故、幕府、尾張藩ともに各宿場に対して、防火取締りの触書を頻繁に発していることからも、その深刻さが推察される。木曽十一宿に限定してみても、木曽福島宿の一七件を最高に、大火を蒙らない宿は一つもなく、一度の大火によりその宿場が全焼した例が一〇件。奈良井宿のごときは、年に二回の大火に罹災したような例もあり、江戸時代三百年間に大火を繰り返すこと実に七十余回を数え、平均一〇年に一回の割合で大火に見舞われていることになる(『木曽十一宿に於ける火災とその対策』生駒勘七著)。
 勿論このデーターは当時の記録の集計であるから、実数はこの数よりはるかに上回るものと考えられよう。
 いずれにしても、江戸時代の消防体制の稚拙さは論外として、自然的あるいは社会的条件等からして木曽の宿場の環境は、大火を発生させる要因が整いすぎていたと言っても過言ではない。四~五月の乾燥期には、強い季節風が谷間の集落を吹きぬけていく。地理的に見て、おしなべて水利が不便な宿場の性格から、街道に沿って軒を並べて密集する家屋が類焼を誘発する原因ともなった。しかも板壁、板屋根という木曽の家屋の構造が大火を発生させる決定的要因となっていた。とりわけ板ぶき屋根は、火の粉がふりかかると容易に発火し類焼の原因となった。木曽の家屋の構造は、南部の二、三の宿を除き、外壁は壁土を用いないで板を横に使った板壁の工法が一般的であった。これは木曽の中、北部の宿村では粘土、藁(わら)の入手が困難であり、有数の美林地帯にある木曽谷として当然のことであるが、防火上からみれば危険この上ないことであった。享保九年(一七二四)尾州藩は林政改革にあたって、山林保全の上から板屋根を禁止したが、藁ぶき屋根は防火上危険があるとして宿村が強硬に歎願したので、同一四年に取り消しとなり以前のとおり板ぶき、板壁が自由になった。馬籠など南部の宿では、良質の粘土の入手が容易に得られたため、外壁は土壁の家屋が多く、中、北部の宿場に比べて構造の上からも防火上の対策が多少払らわれている。しかし、いずれにしても木曽の家屋の構造は防火対策を想定しての恒常的な建築様式には程遠いものであったといえよう。