すでに記したように寛延四年山村役所から木曽谷中へ防火火消の七か条が申し渡されたが、その中に消火器具備え付けに関する条項があり、それ以前からたびたび、「仰せ渡されている」とあるが、木曽谷中で火消組が組織化されたのは、天明五年の触書に基づいてのことである。
馬籠宿蜂谷源十郎覚書の中に「火の用心」と見出書して、馬籠宿村に火消組を編成した記録がある。
一、天明五年七月此の節火の用心堅く仰せ付けられ、福島御役所「いろは印」にて、番手組、右の振合いに宿在共に仰せ付けられ候、当地においても片町(東側、西側別)づつ、一、二番手組、あら町一手組、その他で一手組、都合四手組に書き上げ候、
右の通達によると、「福島役所の『いろは印』をつけた組編成にならい」とあるが、これは江戸町火消の編成にならったものとみられる。馬籠宿では宿の町並みを東側と西側に分けて、西側を一番組、東側を二番組とし、あら町から新茶屋までを三番組、そのほか・峠・岩田、青野原など在郷を四番組とし、組の役割を定めて四組に編成した。馬籠村の火消組の編成は次のような構成となっている。
(表)
右の通り書き付け仕り候
天明五年七月十一日
寛延四年に備え付けるように命じられた火消道具は、水籠(竹かごに紙を張り柿渋をひいたもので水運びに使う)・大うちわ・あおり莚(共に火の粉をあおり払い延焼を防ぐもの)・からむし縄(からむしの繊維で作った綱)、水溜籠、はしごは組頭の家に一丁ずつ備えおき、鳶口・斧・掛矢は各家で保管するように義務付けられていた。当時の消火用具は稚拙(ちせつ)なものであったので、延焼を防ぐため建物を破壊して火道を絶つといった破壊消防が主であった。