高塀は宿場の中央部に共通して設けられていたいわば防火壁のことで、この高塀によって宿場の上町・下町の全焼をまぬがれた例は多い。高塀の厚さは普通一尺から二尺位、長さは街道をはさんで町幅の長さ・高さは一般民家の二階建てより少し高めで、土蔵式のがんじょうな土壁で出来ていた(生駒勘七、前掲書)。
「高塀・祐蔵」の記述であるが、祐蔵の家は西側、全焼した弥平の上隣りで、本陣の下手に位置していた。A-Ⅰ図を見れば明らかであるが、東側は西側の火元鉄次郎より通りをへだてた重助宅に飛び火し、いっきょに上町へと燃え広がっていったことがわかる。反対に西側は弥平宅で鎮火しているのは、下町・中町を区切っていた高塀が防火壁の役割をはたしていたことがわかる。もし、防火壁としての高塀がなかったら、本陣をはじめ、西側の宿場の中心部が全焼していたであろうことも想像できる。
(A-Ⅰ図) 安政五年焼失家屋図