安政五年の大火災

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大火の実態がうかがえる資料として、「宿内焼失諸事書留帳」(大黒屋)がある。詳細なこの記録によって大火の一部始終をたどってみることにする。資料によると、「十一月二十九日、夜四ツ半時出火・明六ツ時鎮火、火元西側扇屋鉄次郎裏馬屋藁(わら)より燃出し、善(ぜん)六迄焼失、重兵衛止り、東側穀(こく)屋(重助)へ火移り下町留八迄焼失、西側火元隣九助より弥平迄不残焼失、祐蔵より上町重三迄無難残り。東側穀屋隣り柳蔵より髪結才兵衛迄不残焼失、惣治より上町端次迄無難なり。御高札無難、焼失家数四拾七軒」とあり、被災者が西側拾七人、東側三拾人の計四七名の氏名を挙げている。A-Ⅰ図はその被災家屋図である。この他に蜂谷・茂兵衛・理兵衛の米蔵・土蔵が焼失。最後に「高塀・祐蔵」と記されている。
 高塀は宿場の中央部に共通して設けられていたいわば防火壁のことで、この高塀によって宿場の上町・下町の全焼をまぬがれた例は多い。高塀の厚さは普通一尺から二尺位、長さは街道をはさんで町幅の長さ・高さは一般民家の二階建てより少し高めで、土蔵式のがんじょうな土壁で出来ていた(生駒勘七、前掲書)。
「高塀・祐蔵」の記述であるが、祐蔵の家は西側、全焼した弥平の上隣りで、本陣の下手に位置していた。A-Ⅰ図を見れば明らかであるが、東側は西側の火元鉄次郎より通りをへだてた重助宅に飛び火し、いっきょに上町へと燃え広がっていったことがわかる。反対に西側は弥平宅で鎮火しているのは、下町・中町を区切っていた高塀が防火壁の役割をはたしていたことがわかる。もし、防火壁としての高塀がなかったら、本陣をはじめ、西側の宿場の中心部が全焼していたであろうことも想像できる。

(A-Ⅰ図) 安政五年焼失家屋図