大火の翌日「村方より作助、八幡屋より新作」の両名、名代として火防信仰で有名な秋葉神社へ出立。同じく福島山村役所へ「焼失御達にて峠組頭仁兵衛出勤」。二日後の一二月二日夜福島より御見分の役人が到着。「御用人沢田志津馬様・織田武一郎様・御下役八木佐平殿・足軽中村又蔵殿・右ハ焼失御見分として御出張被遊翌三日朝役人共御案内ニ而焼跡御見分相済絵図面書類等取調相認差上候内四日五日御逗留ニ而六日八ツ時妻籠泊りニ而御出立被遊候」
大火とともに、近隣より援助の手が差しのべられた。二、三を挙げると、「出火之節人足召連中津川肥田九郎兵衛・岩井休助・大屋又八郎・落合宿塚田弥左衛門・鈴木利左衛門・井口五左衛門・中津川菅井加兵衛・間半兵衛・菅井次郎兵衛・右両宿之儀は早速馳付人足共之宰領いたし被呉候」。同じく人足を連れて、山口村、湯舟沢庄屋、妻籠村六郎左衛門、島崎与次右衛門の両名。見舞いとして、中津川、落合の両宿より「早駕籠二而握飯沢山宿中へ御見舞被下候」「葺板六駄妻籠宿より役人三人組頭弐人之配当」などなど。
大火の翌日より復旧作業が始まるが大規模火災故、近隣の宿村に人足等の応援を求めねばならなかった。このような近隣の宿村同志の相互扶助の制度を「寄村(よせむら)」といい、この大火の際出動した寄村の人員は以下の通りである。「四日五日六日湯舟沢五拾人ヅツ〆百五拾人手伝差出し被下候」「四日五日六日の三日に〆弐百人山口村より灰寄せ取片付ニ手伝差出し被下候」「四日五日六日七日、〆弐百人妻籠宿より手伝差出し被下候」「四日、落合宿より人足五拾人御手伝ニ差出し被下候、井口五左衛門・塚田弥左衛門殿名代八蔵殿上田庄蔵殿組頭壱人支配ニ御出張被下候」。
八日迄には総ての焼跡の片付け作業は完了。しかし宿駅としての機能が再開されるまでには半月を要しており、一二月一六日付『大黒屋日記』に「宿方人馬継立今日より始め申候」と記されている。被災者への見舞金は、一軒当り三百文が支給された。「一、銭拾弐貫文但小前之者四拾軒へ朔日朝壱軒ニ付三百文ヅツ手当いたし遺し候」(ちなみに安政五年当時、山口村川番所の人足賃が銀一匁三分とあり、銭になおすと一日百四十文となる)。他に「当秋米値段五斗八升替、一、米六俵弐斗、右ハ極難渋之者廿七人へ拾五俵施し、此内六俵弐斗源十郎方より差出し、弐俵吉左衛門より差出し、年寄大黒屋より六俵弐斗差出し、都合拾五俵ニテ配当いたし候処廿七人之家内百拾四人へ配当いたし候」と記されている。