宿場中枢部が全焼、宿駅機能が停止した万延元年の大火

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文久元年(一八六一)は、孝明天皇の皇妹和宮が一四代将軍徳川家茂のもとへ降嫁するため、中山道を江戸へ下向した年であり、馬籠宿は御昼食宿と指定され、この未曽有の大通行の馬籠通過は一一月一日のことであった。ところが、和宮降嫁の前年の万延元年一〇月一九日馬籠宿は宿場の中枢部が全焼する大火に見舞われている。本陣・問屋・会所等宿駅中枢の全焼により、人馬継立等の宿駅機能が長らくマヒするなかで、総勢四万余名(江戸よりの迎えが一万五千人、京よりの付き人が一万、警衛の諸藩の武士一万五千人)といわれた大通行の業務に対応せざるを得なかったのである。
 まず大火の経緯は――「十月十九日、同夜五ツ半時頃火元祐蔵背戸馬屋二階より出火。本陣はじめ兵七まで西側七軒、丸ト質蔵焼け、太田屋半こわし。東側、蜂谷・問屋・角八屋など、弥平・国吉・角八屋・長三家・蜂屋・問屋・作兵衛・由兵衛・武右衛門迄焼失九軒、都合十六軒、外に問屋・和泉屋・祐蔵方・本陣方・各土蔵一軒づつ〆て蔵六軒(内味噌蔵壱ケ所共)丸焼。夜明前方までに不残焼失」(『大黒屋日記』以下の引用も同じ)。――A-Ⅱ図参照――

(A-Ⅱ図) 万延元年焼失家屋図

 翌、二〇日早朝より村方より一人、大黒屋・八幡屋より一人ずつ三名が秋葉神社代参のため出発。「二一日朝福島御役所へ御届役人善七出立、諸土蔵屋根葺板手当灰片付見まひ人八十人餘」「二三日福島より御役人様方御見分、つまご御昼休みにて当宿御入込お触れ御座候」「二五日、焼家本陣灰よせ、町内・峠・あら町・湯舟沢・山口村よりも人夫出申候」「一二日・一四日、火元祐蔵福島御呼出、宿預け二廻り滞留にて御免被仰出、一三日出立須原泊りにて引取申候」「一七日、福島御出役国見(くにみ)伴之進殿、香山順治殿御両人当宿焼家之者へ福島殿様より御手元御救米被下置右割渡配当に御出張被下太田屋茂七方に御泊り被成候、十八日焼家一同之者へ右御米割渡候」
 ここで、宿場の窮状をうかがえる資料として大火の半年後、文久元年五月付の「馬籠宿本陣焼失御救願」の一部を引用しておく。「列風下、防火につとめたがなすすべもなく、母屋をはじめ米倉、薪小屋に至るまでの全ての建物・障子・畳・膳椀などの家財道具の総てを焼失、当惑悲歎之外無」の記述にはじまる本陣島崎吉左衛門の歎願書は以下の通り。「…差当り人馬継立方差支候付、妻籠、落合両宿へ持通し継立方相頼候得共、数十日之儀者迷惑之趣ニ付、無拠内拝借奉願上、問屋場仮建仕如何様とも雪下相凌居候処、当二月問屋場取建方へ付為御手当御金被下置、并葺板代金拝借等被、仰付難有仕合奉存候、諸色高値之折柄、旅籠屋渡世相休候而者実々難渋至極仕、今日を営兼候付深心痛仕、仮屋取建拝借奉願上候処、外差響相成候付、御聞済難相成旨、御理解之趣者奉畏候得共、御用家様并御大名様方御休泊御宿相勤可申方便無御座御用御差支、且御大名様方御休泊無之候而者宿内往還之潤も無御座、一同難渋ニ相成候」として、三百五拾両の拝借を願い出ている。さらに「…当宿之儀者木材払底、剰去ル午年(安政五年)焼家之もの共手近之場所者追々伐尽し、最早家作木可相成木品無御座、手遠之場所より仕出し、加へ米穀を初諸色高直、其上嶮岨之土地柄ニ付、石垣凡三四尺ゟ八十尺位築立候付、余宿ニ引比候而者一倍相懸リ候儀ニ御座候間、厚、御覧察被成下置、何卒御憐愍之御慈悲を(後略)」(『長野県史・近代史料編』より)。
 なお、本陣が落成したのは和宮が通行した一ヵ月後のことであった。「本陣御家族本宅へ家移り。招かる」(『大黒屋日記』文久元年一一月二五日付)。