ちなみに、A-Ⅲ図で見ると、嘉永年間当時峠には二九戸家屋があったことが分かるが、その中でABCDEFの六棟は現在(平成六年)の家の間口・奥行の面積が同じである故に、この五棟は、少なくとも嘉永二年以前の建築であることが分かる。このような背景からも、現在の峠の集落は建築史的にも、貴重な集落遺構であることが分かる。
さて、宝暦一二年の大火は子供二人による蠟燭の火の不始末が原因であったが、『大黒屋覚書』によって大火の経緯をたどってみることにする。まず、福島役所への失火報告は以下のように記されている。
「当月三日夜九ツ時半頃、馬籠村内峠藤四郎と申者家より出火ニ付近所の者は勿論、私共初メ村中追々馳着、防申候得ども折節風烈しく手に及び申さず類焼家弐拾軒、都合弐拾壱軒うち土蔵壱ツ焼失仕リ候、出火の様子吃味仕り候所宵の内藤四郎孫九歳のと六歳とまかりなる女子両人裏の雪隠へ燈火仕まかり有り候所子供の儀故右之火燭落し置出火仕候と相見え、外に怪敷義も御座なく過(あやまち)に紛(まぎれ)ご座なく候惣て人馬等怪我御座なく泊り牛ご座候て荷物焼失仕り候(中略)火の用心の儀常々入念相守るべく旨、仰付られ近年別(わけ)て急度(きっと)仰出され候あと、不調法成る義仕り出し迷惑至極ニ存じ奉り候以上
馬籠庄屋 彦兵衛
宝暦 一二年四月 問屋 三右衛門
御奉行所 年寄 幸右衛門
又右衛門
源右衛門
兵右衛門
(表)
(A-Ⅲ図)・嘉永二年峠部落町並絵図
焼失家屋は以上の通りであるが(八幡覚書との記述の違いがみられるが)、この火災でおびただしい量の輸送途上の荷物が類焼している。このことによっても江戸時代の峠の生業(なりわい)の実態を垣間見ることが出来る。江戸時代の輸送機関は幕府による伝馬制度が組織されていたが、他に民間の輸送機関として、「中馬(ちゅうば)」「中牛(ちゅうぎゅう)」と呼ばれる制度があり、木曽では主に牛が使われ一般には「岡船(おかぶね)」とも呼ばれていた。この仕事に従事していたのが峠部落の牛方衆であった。ちなみに、藤村の『夜明け前』にも安政三年(一八五六)八月に起こった牛方紛争の顚末が描かれている。中津川の問屋との出入に、新興の問屋がからんで起こった事件であるが、描かれた部分は史実にもとづいている。それぞれの地区の牛方の輸送範囲は定められており、峠部落の牛方衆の行動範囲は福島・松本・善光寺より、美濃の今渡・名古屋にまで及び、名古屋へは主に下街道を通って荷物を運んでいた。
岡田善久郎著『木曽巡行記』(天保九年)には、峠の牛方についての記述が見られる。
「…小前に至ては田地少故、牛飼立、福島・松本などより名古屋・濃州今渡等へ荷物附送り駄賃を以渡世いたし、或は善光寺参詣旅人之休泊荷物持送り等いたし、或は善光寺参詣旅人之休泊荷物持送り等いたし、毎夏蚕を飼渡世をするなり…」
このように、峠の牛方は広範囲に渡って荷物附送りの業務にたずさわっていたが、宝暦一二年の大火によって焼失した輸送途上の荷物は以下の通りである。
覚(『大黒屋覚書』)
一、牛附荷物五駄 但塩拾俵牛方□□□村・宿嘉七 弥七
一、牛附荷物五駄 塩拾俵牛方□□□村・宿同人 安右衛門
一、牛附荷物四駄 牛方上松村 宿同人 長右衛門
但内木綿荷五箇 錦壱箇名古屋大野屋平八出・茶六箇、池田勘助出・小田井表壱箇、
名古屋松前屋出、そめ物弐包、牛方手前荷里(り)うきう拾枚手前荷物
一、牛附荷物五駄、牛方□□□村、大平、宿藤四郎
櫃(ひつ)荷内弐箇、さと弐樽、ひじき弐箇、名古屋かし通次郎右衛門荷
茶三箇池田勘助荷、木綿荷、中指三つ、火のや平八荷、塩四俵手前荷
一、牛附五駄、牛方□□□村、次郎右衛門、宿、藤四郎
内、ひつ荷弐箇名古屋かじ屋町次郎右衛門出、さと樽五つ、名古屋井けや嘉左衛門出
ふと物中指、壱ツ、かじや町次郎右衛門出、塩四俵牛方手前荷 茶三箇 池田勘助出
一、牛附荷物五駄牛方□□□村太郎右衛門宿嘉平