江戸時代、この地方に発生した地震を三つの資料(『八幡屋覚書』『大黒屋日記』『外垣覚書』)によって拾ってみることにする。貴重な記録と思われるので、微小のものまでもらさず年表に掲げておく。
地震は、いわゆる直下型地震といわれる内陸性地震と海洋性地震の二つに分類できるが、江戸時代の長野県における被害地震の記録から、マグニチュード六以上の地震を挙げると以下の通りである。――元禄地震・M八・二(元禄一六年)、宝永地震・M八・四(宝永四年)、大町地震・M六・四(正徳四年)、信濃南部三河方面地震・M六・四(享保三年)、飯山地震・M六・二(享保三年)、高遠地震・M六・一(享保一〇年)、越中越後地震・M六・六(寛延四年)、駿河地震・M六・四(天保一二年)、善光寺地震・M七・四(弘化四年)、安政東海地震・M八・四(安政元年)――(長野県防災会議編『長野県における被害地震の記録』より)。
これら大きな被害地震のなかでも善光寺地震(善光寺如来の御開帳中に発生した直下型の巨大地震で、死者一万二千人、潰家三万四千戸、焼失家屋三千五百戸、松代領内で四万二千、松本領内で千九百カ所の山崩れ。犀(さい)川が堰止められ数十か村が水没、決壊洪水を生じた)と安政東海地震(震源地は遠州灘沖。県下の被害は南部の飯田・諏訪周辺が最もひどく、倒壊流失家屋約八千三百、焼失家屋六百戸、圧死者・流死者含め六百人余)の二つの巨大地震はこの地方にも被害をおよぼしたことが、『大黒屋日記』に克明に記されているので、年表内にそのまま記しておく。とりわけ安政東海地震の際には、恵那山の大崩落(鳥足崖のことか)をはじめ、発生から十日あまり激しい余震が続き、馬籠宿の住民は家の倒壊を恐れ、根の上や丸山等に小家懸け(避難小屋)をして不安な日々を送るなど緊迫した状況が克明に記されている。
(表)地震の記録 明和四(一七六七)~明治三年(一八七〇)