松尾芭蕉
さらしなの里姥捨山の月見んことしきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、共に風雲の情を狂すもの又ひとり越人といふ。木曽路は山深く道さかしく旅ねの力も心もとなしと、荷兮が奴僕をして送らす。おのおのこゝろざし盡すといへども駅旅の心得えぬさまにてともにおぼつかなく、物ごとのしとろにあとさきなるも、なかなかにをかしきことのみおほし。何ゝと云所にて六十ばかりの道心の僧おもしろげもおかしげもあらずたゞむつむつとしたるが腰たわむまで物おひ、息はせはしく足はきざむやうにあゆみ来れるを、伴ひける人のあはれがりておのおの肩にかけたる物ども、かの僧のおひね物と一にからみて馬につけて、我をそのうへにのす。高山奇峰頭の上におほひかさなりて、左は大河ながれ岸下の千尋の思ひをなし、尺地も平らかならざれば鞍のうへ静ならず。たゞあやうき煩のみやむ時なし。かけはし寝覚など過て、猿が馬場たち峠などは四十八曲りとかや、九折かさなりて、雲路にたどる心地せらる。歩行よりゆくものさへ眼くるめきたましゐしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるゝけしき見えず。馬の上にたゞ眠りにねぶりて、落ぬべきことあまたたびなりけるを、跡より見あげて、危きことかぎりなし。
(中略)
身にしみて大根からし秋の風
木曽のとち浮世の人のみやげ哉
送られつ別ツ果は木曽の秋
松尾芭蕉が中山道を旅したのは、貞享五年(元禄元年・一六八八)の八月であった。木曽路の秋と姨捨山の観月、ついでに善光寺まいりなどをめざした『更科紀行』の旅である。同行者は、名古屋で染物屋を開く門人の越智越人であった。芭蕉が「さらしなの里姨捨山の月見」のために岐阜を旅立ったのが八月一一日で、一五日にはすでに更科の里に着いている。実に一日、十数里の強行軍であった。