◎木曽路之記(巻三下)

1043 ~ 1044 / 667ページ
貝原益軒
 …妻籠嶺をこえ、馬籠にくだれば、木曽の山中をでる。此間の坂木曽の御坂なり。俗には馬籠嶺と云。又風越の峰も此邊ならん。其所分明ならず。いづれも名所也。木曽路も、木曽のかけはし、木曽路川も皆名所なり。いづれも古歌多し。凡木曽の山中、贄川より馬籠まで廿一里有。木曽の谷は其水南にながれ、大河にて、石大に水早し。故に船なく魚すくなし。谷中せばきゆゑ、田畠まれにして、村里すくなし。米大豆は松本より買来る。山中に茅屋なくして、皆板葺也。寒気はげしきゆゑ、土壁なし。みな板壁なり。凡信濃に、竹と茶の木まれ也。寒甚きゆゑ、植れ共かるゝ。他国にて竹を用ゆる物には、皆木を用ゆ。就中桶には、檜木を用。茶は他国より買来る。野尻より下には竹と茶の木少見えたり。野尻より東、碓日嶺までの間には見えず。野尻は地漸ひきゝして美濃に近く、川上より少温なる故也。又信濃に蜜柑、柑、金橘(きんかん)、木練、木淡しなし。是皆寒気ふかきゆゑなり、麦は六月に熟す。山中櫻花多し、山には桃紅梅有。三月の末頃みな一時にひらく。又当国には、ふじ松とて。冬は葉のことごとく落る夏木の松あり、落葉松と云。
 ◯馬籠より美濃国落合へ壱里、馬籠の民屋廿七、八軒許。わづかなるいやしき町なり。落合の東の入口、釜が橋といふ有。是信濃の安曇郡と美濃のさかひ也。是より東は木曽也。木曽は安曇郡なり。凡信濃は、東は上野、南は甲斐、遠江、三河、北は越後、越中、飛驒。西は美濃なり。凡八ヶ国に隣る。国のながさ、うすひ嶺より美濃境まで、東西四十七里余あり。
 貝原益軒(一六三〇~一七一四)は江戸時代前期の儒学者、本草家、庶民教育家。筑前国福岡藩士。彼の即事・即物的な思考、多くの旅行から得た観察と体験、博学を元に画期的な学風を遺した。ライフワークの一つをあげれば『大和本草』。またいわゆる「益軒十訓」のうちで有名なのが『養生訓』で、精神的修養と自然療法は特に現代注目されるところである。また彼は生涯に十余種類の紀行記を書いているが、客観的な写実にもとづいて、その地方の自然、産業、地理を書くようになったのは彼に始まるとされる。『木曽路之記』もその代表的な作である。