立羽不角
…それより幾山/\を機〓(ヘル)がごとく上り下り馬籠といふ駅に着て息を突。此宿を出、又難所の山坂にかゝる。是より下り坂、しかも急也。中のりや坂村、此処に連理の松在。しばらく松の木陰に駕籠立さセて硯を鳴らせども松ふぐりの外趣向なし。噫(アヽ)うぬがまゝ駕籠やれ/\。然る処に二疋の馬の内一疋屬強(ツケツマヒ)してはかばかしく行ず。「准南万畢術蛍火レ馬」、此詩の心は、蛍火を取り羊の皮に包みて土中に埋て置に、馬是を知て嘶(いなない)て敢て不行と也。「然れども此術を何の為にすべきや、馬の歩まぬ事いぶかし」といへば、馬士(マゴ)鞍に付たる袋より馬の喰(ハミ)ものをなん出シて馬に飼ふ。怱に足かるくすゝむ。馬士が日、「夕ものをくはせたる。から腹なれバすゝむ事あたはず」といへり。何んの事もなき事を深く思ひたりたるも、おかしかりけり。 十石村、十石峠かたの如クの難処を上りて行。此処信濃と美濃の境也。人家なければ泊るべきよすがもなし。
みじか夜や寝ぬ物語美濃信濃
立羽不角は、享保期江戸俳壇を代表する俳人。『木曽の麻衣』は享保一五年(一七三〇)、法眼の位を得た彼が、その官位受領のため上洛した折りの紀行文。享保一五年五月一五日江戸を出発した彼は中山道を通過して一カ月弱で京都に到着している。五月二六日夜、妻籠泊の後、馬籠を過ぎ当時荒町にあったという有名な「連理の松」の辺が記述されている。