◎壬戌紀行

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大田南畝(蜀山人(しょくさんじん))
 …木曽川にわたせる橋を落合のはしといふ、橋杭なし、釜か橋ともいふ、河原に石多し、貝原氏の記に、是信濃の安曇郡と、美濃の境なり、是より東は木曽なりとあり、されど今は美濃と信濃の境は十曲峠にあり、石まじりの道をゆくゆく坂を上り、山中坂を三四町ばかりまかりてのぼれば、落合の駅舎ははるかなる下に見ゆ、此あたりより道いよいよけはしく、爰(ここ)を十斛峠といふ、左に狐膏薬あり、右のかたに薬師堂あり、行基菩薩の作るなりといふ、此所に札たてゝ是より東北湯舟澤兼好法師の古跡なりとしるせり、かの思ひたつ木曽のあさきぬあさくのみと、きこえし所なるべしとゆかしく、輿かくものにとふに湯ふね澤は橋より一里あり、熊か洞立岩などいふ所ありとかたれり、猶松の林の中を上りゆくに、右は山左は谷なり、むかふに近く見ゆる山あり、す山と云、草木しげれど大きなる木なし、道に大きなる石多し、又石まじりの坂をのぼる事長し、左に人家一戸あり、きつねかうやくをひさぐ、ゆくゆく道をのぼりて立場あり、同じ膏薬をうる看板に十曲峠とあり、爰(ここ)に此所美濃信濃国境と書たる傍示あり、かゝる国境を石にもゑらずして、いさゝかなる木をしらげて書つけしもおかし、猶乱石の中を上り上りてゆけば、右の方に緋桃、梨花さきみだれて、左にひなびたる人家あり、右に小社あり、此邊の人家に串柹うるもの多し、すこし下りて、左右ともに田畑見ゆ、土橋をわたりてすこし上れば、畠の中にいくつともなく、大石よこたはれり、昨日見し烏帽子石母衣石の如きは、よのつねなり、大きなる長櫃を荷ひすてたるごとき石多し、右の方に樋に水をひきて水車をめぐらせり、坂を上りて曲りて馬籠の駅あり、駅舎のさまひなびたり、飯もりてうる家に、御支度所といへる札を出せり、又うり銭ありなど書付たり、宿のうちより坂を上り、宿をはなれて又つゞらあかりなる坂をのぼる、これ馬籠峠なり(後略)
 大田南畝(一七四九~一八二三)・江戸時代中期の幕臣。文人、学者。蜀山人の名を用いての狂歌は天性の機智と諧謔の才に恵まれ一躍江戸の文芸世界に君臨した。狂歌のみならず、漢詩文も当代一とされ、江戸の代表的な文人として江戸文化に大きな影響を与えた。享和二年(一八〇二)の晩春、大坂から江戸への旅を試みて木曽路を通った時に書いたのが『壬戌紀行』である。博識な彼は当時の一級のジャーナリストでもあった故、紀行文の記述は精緻であり、かつ冷静な客観性を保っている。