◎木曽巡行記

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岡田善九郎
 ○山口村
  馬籠宿より上山口へ壱里二十丁、下山口へ壱里七丁、落合より二里。
 一、米百九拾三石六斗五合 上納高
 一、農家百七拾六軒(馬籠宿定助郷にて壱度に六十壱人ずつ人足出る)
   平均人数二十壱人減、天保九年改。
 一、口数八百三人。
 一、この村も美濃堺暖地にて田畑開け諸作物実のりよく、木紙・柏など生立つ。紙漉職四軒あり、女馬百六七疋飼立て、よき村立なり。
 一、山口は上下二郷に分れたり、上山口浜居場という所に錦織の番所有り。山口より落合境まで川狩の節雨小屋五カ所あり。山口より美濃の川上へ弐里に遠し。件の黍生の渡を越え、坂下の町組より上野といえる山間を過ぎ川上川に添て川上村に至る。
 
 ○馬籠宿
 一、米八十九石六升 上納高(但年に寄不同あり下これに効う一々規せず)
 一、農商家百四十四軒 散家峠共
   天保四巳年より以前五カ年平均七百二十七人に三十二人減、同九年改。
 一、口数六百九十五人。
 一、往還役人馬二十五疋二十五人なり。馬は宿方にて飼立、馬飼料米五十石づつ下さる。人足は湯舟沢山口馬籠三ケ所にて勤む。馬飼料五十石その余問屋給・庄屋給等下され候ことは谷筋贄川まで同様に付これを略す。
 一、この宿は木曽谷中にても美濃国につき、暖地ゆへ田畑諸作物生立よく、桑、椿等ある。しかれども口数よりは田畑少く人馬役手張り頭分の者借財多く困窮いたし、小前に至っては田地少きゆへ牛飼立、福島松本などより名古屋濃州今渡等へ荷物附送り駄賃をもって渡世いたし或は善光寺参詣旅人の休泊荷物送り等いたし、毎夏蚕を飼渡世にするなり。
 
 『木曽巡行記』は、天保九年(一八三八)、尾張藩の隠密であった岡田善九郎が木曽谷の村々の実情を調査し藩に報告した、いわば木曽谷の視察報告書ともいうべきものである。「巡行記」とあるように紀行文に記述されているが、地勢、産物、衣食住などの生活に至るまで事細かに記されている。きわめて実証的な記述故に信憑性が高く、江戸時代後期のこの地域の地理、風俗の実情を知ることができる。