差出申一札之事

差出申一札之事 [目録]


 翻刻 (画像番号)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10

 
 現代訳

 
 
<翻 刻>
 
管理番号七三-一
 
 福岡郷土館史料番号七九
 
1



差出申一札之事
 
一 去未十月廿二日当村平山為境廻と
  庄屋勝四郎組頭三九郎善八文左衛門
  五人組頭新八郎御百姓代喜平吉右衛門
  山番作平 都合八人相廻り申候所
  其御村平山から沢通孫治小屋より
  笹平江出夫より城ケ根
  御立替境通二股ミズ免と
  申所江出二ツ森矢筈谷通り越
  相廻り所々ニ役人名前改之書
  印いたし候ニ付其御村方より御改
  之上境筋相違之段御引合ニ付
  早速村役人初メ小前一同打寄
  篤と談判いたし候処場処案内
  之者全く心得違并出会之役人
 
2



ども穿鑿不行届麁忽之
始末殊ニ 御立山弐ケ所茂
有之右御山内之二股ミズ免と
申所ニ而栗壱本削り并樫巣
御立山孫助谷之御札木其上
橋子坂と申所壱ケ所都合三ケ処
書印仕候段
 
御上様江対し一言之申上様
無御座重々奉恐入候依之御
村方より其御筋江御内歎被下
候様以来御頼ミ申上候所段々
御配意御執成被下候上山方
御役所ニ而心得違之段御聞済
御内済被下置候由難有仕合ニ
奉存候全く貴地之御執成上と
厚忝仕合ニ奉存候付而者往古
 
3



 より之境通堅く相守以来心
 得違無之様村方一同相慎可
 申候為念之境字左ニ記
一から沢筋孫治小屋より城ケ根伐跡
 境通城ケ根絶頂境
一右城ケ根絶頂より 御立山火除
 境夫より長根尾通差のぞ起が
 ま沢江見通し右がま沢筋
 樫巣 御立山火除迄右之通
 先々より御用捨ニ付臺草斗刈
 取申し候尤用立候木品壱本茂
 伐取申間舗候勿論芝草刈取
 候節口明之儀ハ前之通其御村
 御勝手次第ニ口御明最寄江御
 知らせ可被下候尤夏焼畑尻之
 もの斗ニ而刈江来り候
 
4



 一入合山之儀ハ孫助谷出合より
 たいこどう横道并石屋すみ
 場長根道下井林
 御立山境北ハがま沢境此分
 先年より当村夏焼畑尻并其
 御村と両村入合草場ニ相違
 無御座候勿論芝草口明之儀ハ
 先ニより其御村ニて御勝手次第ニ
 口御明被成候場処ニ相違無御座候
 段子立上林 御立山之上
 石休場道上之分ハ其御地より之
 御用捨之場所ニ而御座候
一二ツ森大境之儀ハ樫巣
 御立山火除尾通水ながれ二ツ
 
5



森頂上迄右之通先年より之
境通ニ相違無御座候依之此度
双方立合之上境相改申候上者
役人共ハ勿論小前之者迄少茂
申分無御座候依而以来右境
通より外江ハ一切入込申間舗候
右之通少茂相違無御座候
ニ付御断申上候様御聞済被下
置奉存候為渡証依如件
      福岡村畑尻百姓代
             九平 印
  文政七甲申年五月廿八日
     右同村夏焼百姓代   金右衛門 印
     右同村五人組頭    利右衛門 印
     右同村組頭      文左衛門 印
     右同村同断      善八郎  印
 
6



          右同村同断   喜右衛門 印
           右同村同断   三九郎  印
           右同村庄屋   勝四郎  印
 
高山村庄屋
  松吉殿
同村組頭
  清蔵殿
同村同断
  九兵衛殿
同村五人組頭惣代
  忠四郎殿
同村御百姓惣代
  磯平殿
同村同断
  治助殿
 
7



前書山境之通相違無之候然処
当村内字夏焼畑尻両組之者共
追々薪尽山ニ相成甚難渋候ニ付
今般岩瀬直右衛門 西尾五郎兵衛
両人立入段々御頼ミ申候所深く
御勘考之上其御村方御一同御納得
被下前書御用捨山之外左之通
 一芝草御用捨山境差のぞ起夫より
  長根江見通し城ケ根
  御立替御山火除境迄北ハがま沢
  境ニ而城ケ根北日かげ之分
 
右之ケ所かな木斗薪ニ伐取候段ハ
御用捨被下厚く忝奉存候尤申
迄も無之候得共
御立山之儀ハ一切入込不申御用捨
山之内たり共栗け屋き檜椹
 
8



檜葉を初メ御留木之品々拾三木
之分ハ小木ニ而も一切伐取申間舗旨
并芝草之義も堅く相慎刈取申
間舗候得共致承知薪之外
決而伐取不申候猶又前書預り
御用捨ニ候場処ニ而もかなぎ之分薪ニ
伐取候段ハ御断申候処是以御承知
被下忝奉存候依之右書面之通
急度相心得少茂違背申間敷候
万一相背申もの有之ニおゐてハ
御用捨之義御引戻シ被成候其節
一言之御頼ケ間敷も申間舗候
為後日仍而如件
福岡村畑尻百姓代
             九平 印
  文政七甲申年五月廿八日
     右同村夏焼百姓代   金右衛門 印
 
9



  右同村五人組頭    利右衛門 印
     右同村組頭      文左衛門 印
     右同村同断      善八郎  印
     右同村同断      喜右衛門 印
     右同村同断      三九郎  印
     右同村庄屋      勝四郎  印
     上野村庄屋  西尾五郎兵衛   印
     日比野村庄屋 岩瀬直右衛門   印
高山村庄屋
  松吉殿
同村組頭
  清蔵殿
同村同断
  九兵衛殿
 
10



同村五人組頭惣代
  忠四郎殿
同村御百姓惣代
  磯平殿
同村同断
  治助殿
 
 

現代訳

 
  差し出し申す一札の事
 
一 去る未(文政六)の十月廿二日、当村平山境廻りのためと
  庄屋勝四郎、組頭三九郎・善八・文左衛門、
  五人組頭新八郎、御百姓代喜平・吉右衛門
  山番作平、都合八人で相廻り申し候所
  その御村平山から沢を通り孫治小屋より
  笹平へ出、それより城ケ根
  御立替境を通り二股みずめと
  申す所へ出、二ツ森の矢筈谷通りを
  相廻り、所々に役人名前改めの書
  印をいたし候に付き、その御村方より御改め
  の上、境筋相違の段、御引合いに付き
  早速村役人初め小前一同打ち寄り、
  篤と談判いたし候処、場所案内
  の者全く心得違い并びに出会いの役人
  ども穿鑿(せんさく)行き届かず、粗忽の
  始末。殊に御立山二ケ所も
  有り、右御山内の二股みずめと
  申す所にて栗一本削り并びに樫巣
  御立山の孫助谷の御札木、その上
  橋子坂と申す所一ケ所都合三ケ所
  書印を仕候段
  御上様へ対し一言の申上様
  ござなく、重々恐れ入り奉り候。これに依り御
  村方よりその御筋へ御内歎下され
  候様、以来御頼み申し上げ候所、段々
  御配意御執り成し下され候上、山方
  御役所にて心得違いの段、御聞き済み
  御内済下され置き候由、有り難き仕合せに
  存じ奉り候。全く貴地の御執り成しの上と
  厚く忝き仕合せに存じ奉り候に付いては往古
  よりの境通り堅く相守り以来、心
  得違いこれ無き様、村方一同相慎み可
  申すべく念のため境字(あざ)左に記す。
一 から沢筋孫治小屋より城ケ根伐り跡
  境通り、城ケ根絶頂境
一 右城ケ根絶頂より、御立山火除
  境、それより長根尾通り、差しのぞき、が
  ま沢へ見通し、右がま沢筋
  樫巣、御立山火除まで右の通り
  先々より御用捨に付、台草ばかり刈り
  取り申し候。尤も用立て候木品一本も
  伐り取り申すまじき候。勿論芝草刈り取り
  候節、口明の儀は前の通りその御村
  御勝手次第に口御明、最寄へ御
  知らせ下さるべく候。尤も夏焼・畑尻の
  ものばかりにて刈りへ来たり候
一 入会山の儀は孫助谷出合より
  太鼓堂横道、并びに石屋すみ
  場、長根道下井林
  御立山境、北はがま沢境、此分
  先年より当村夏焼・畑尻并びにその
  御村と両村入会草場に相違
  ござなく候。勿論芝草口明の儀は
  先により、その御村にて御勝手次第に
  口御明成され候場所に相違ござなく候
  段、子立上林、御立山の上
  石休場、道上の分はその御地よりの
  御用捨の場所にてござ候。
一 二ツ森大境の儀は樫巣
  御立山火除尾通り、水ながれ、二ツ
  森頂上まで右の通り先年よりの
  境通りに相違無くござ候。これに依り此の度
  双方立合いの上、境相改め申し候上は
  役人共は勿論小前の者まで少しも
  申分無くござ候。依て以来、右境
  通より外へは一切入り込み申すまじき候。
  右の通り少しも相違無くござ候
  に付き、御断り申し上げ候様、御聞き済み下され
  置き存じ奉り候。渡証のため、依て件の如し。
       福岡村畑尻百姓代
             九平 印
   文政七甲申年五月廿八日
     右同村夏焼百姓代   金右衛門 印
     右同村五人組頭    利右衛門 印
     右同村組頭      文左衛門 印
     右同村同断      善八郎  印
           右同村同断   喜右衛門 印
           右同村同断   三九郎  印
           右同村庄屋   勝四郎  印
     高山村庄屋
         松吉殿
     同村組頭
         清蔵殿
     同村同断
         九兵衛殿
     同村五人組頭惣代
         忠四郎殿
     同村御百姓惣代
         磯平殿
     同村同断
         治助殿
  前書、山境の通り相違無く候。然る処、
  当村内字(あざ)夏焼・畑尻両組の者共
  追々薪尽山に相成り甚だ難渋候に付き、
  今般岩瀬直右衛門・西尾五郎兵衛
  両人立入り、段々御頼み申し候所、深く
  御勘考の上、その御村方御一同、御納得
  下され、前書御用捨山の外、左の通り。
 一芝草御用捨山境差し除き、それより
  長根へ見通し城ケ根
  御立替え御山火除境まで北はがま沢
  境にて城ケ根北日かげの分。
  右の箇所かな木ばかり薪に伐り取り候段は
  御用捨下され厚く忝く存じ奉り候。尤も申
  す迄もなく候えども
  御立山の儀は一切入り込み申さず御用捨
  山の内たりとも、栗・欅・檜・椹
  檜葉を初め、御留木の品々、十三木
  の分は小木にても一切伐り取り申すまじき旨
  并びに芝草の義も堅く相慎み刈取り申す
  まじき候えども承知致し薪の外
  決して伐り取り申さず候。猶又、前書の預り
  御用捨に候場所にてもかなぎの分、薪に
  伐り取り候段は御断り申し候処、是を以て御承知
  下され忝く存じ奉り候。これに依り右書面の通り
  急度(きっと)相心得え少しも違背申すまじき候。
  万一相背き申すもの有るにおいては
  御用捨の義、御引き戻し成られ候。その節
  一言の御頼みがましきも申すまじく候
  後日のため仍て件の如し
  福岡村畑尻百姓代
             九平 印
   文政七甲申年五月廿八日
      右同村夏焼百姓代   金右衛門 印
     右同村五人組頭    利右衛門 印
       右同村組頭      文左衛門 印
       右同村同断      善八郎  印
       右同村同断      喜右衛門 印
       右同村同断      三九郎  印
       右同村庄屋      勝四郎  印
       上野村庄屋  西尾五郎兵衛   印
       日比野村庄屋 岩瀬直右衛門   印
       高山村庄屋
           松吉殿
       同村組頭
           清蔵殿
       同村同断
           九兵衛殿
       同村五人組頭惣代
             忠四郎殿
       同村御百姓惣代
             磯平殿
       同村同断
             治助殿
     ― 了 ―