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<翻 刻>
管理番号七七
福岡郷土館史料番号一二六
1 画像(翻刻付)
宝暦十二壬午年
見聞日記 四
正月 吉日 高山村宅矩
明和三戌年迄
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見聞日記第四之目録 | 後藤吉右衛門宅矩 |
午之年分 | |
一宗門御奉行御代り之事 | 一 |
一御上江戸御上屋敷御焼失之事 |
附 庄屋吉右衛門林木御用ニ立候事 村中より御見舞として平山ニ而栗角 五十本知原迄仕出し差上申候事 |
一西国三十三所観音石仏立候事目明之事 | |
一若山柴山の口高山より不明前ニ日比野より取候吟味之事 | |
延享元甲子四月四日之不埒 | 宝暦十二壬午四月三日之不埒両所之事 |
一白川筋みどの金掘之事 | 一午四月あられ降申候事 |
一午夏大旱魃ニ付田不植五月十八日ハ六月土用の入也夫迄植口(ムシ) |
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一宮地主水様御用人役之事 | 一福岡村より来村次 | 高山ニ而次不申 之事段々□□□ |
宝暦十三未年 一伊勢桧垣神主奉加之事 |
一宗門御奉行 | 陶山次郎左衛門御親父かん 病ニ御断為代と小池定右衛門様 御廻り被成候事 |
一加藤幸吉殿家潰之事 | 一長沼丈五郎殿家潰之事 | |
一雲林開山御法事之事 | 一殿様御発駕御延引之事 | |
一公儀より諸国銅山御触 | 一京都 | 清冷殿御普請有之由ニ 社木尋ニ来候ニ付あいさつ之事 |
一福岡村より村次荷物之事 | 一宝暦十三未八月 | 宗門御奉行替 鉄炮御奉行替 |
一苗木御役替之事 | 一同九月朔日日しよくの事 | |
申年分 一城ケ根ニ而なつやけとい木願之事 |
一中ノ方中切百姓不残 并御吟味之事 |
苗木江罷出ヲ 留メ候事 |
一殿様御縁組御願相済之事 | 一殿様江戸より御城着之事 |
一中原惣右衛門殿御家老之事 | 一年号改元之事 |
一南宮天神鳥居立直事 | 明和元申十二月十五日 一日輪三たい上り給ふ事 并勢州山田火事之事 |
一御郡奉行小池定左衛門殿御役御免之事 | 一苗木町作十郎うらの小家火事之事 |
酉年分 一巣おろし 与助政二郎 山番勤初之事 |
一又作忰娘三人宗門帳外シ之事 |
并政二郎役御免兵次勤之事 | |
一小十郎相果帳面之内之者帳之事 | 一利平次相果帳内之者帳之事 |
一福岡松嶋橋大木城ケ根山より出候事 | 一御巣山桧葉皮はき候事 |
一弥平借金出入之事 | 一酉五月洪水之事 |
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一御巣山のたばニ而 | 桧皮はき候ニ付 御吟味之事 |
一殿かいと 音右衛門 |
帳内さつ宗門帳はづし之事 |
一上ケ綿ニ付御しかり之事 | 一犬病ニ付 | 御領内中之犬打殺候様ニ 被仰付犬たやし候事 |
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一明和弐酉十二月十五日の夜の月の事 | 一鈴木徳右衛門殿隠居之事 | ||
一中村藤八不埒ニ付御いとま之事 | 一安田造酒右衛門殿御用人役被仰付候事 曽我万右衛門殿宗門御役被仰付候事 |
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一飛州御代官 | 布施弥市殿御代り 飛州より江戸へ御通り御役之事 |
一付知村 茄子川 黒川村 |
かねゐ之事 |
戌年分 一坂下合郷川木盗人之事 |
一舟大工荷物 |
高山より上地へ付通し日々野より 頼ニ付如此帰り之節日々野より 蛭川へ付通しかへし申候事 |
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一宮地多門殿御死去穏便之事 | |||
一伊藤清左衛門殿御家老職被仰付候事 | 一五ケ坂下御代官御代り | 藤田政七殿諸役 土屋与次兵衛殿御勤 |
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一御料下野村堤修覆之事 | 一御用矢箆竹伐り上候事 |
一御山奉行 | 山内伝右衛門殿下御目付被仰付 跡役佐々木次兵衛殿被勤候事 |
一殿様奥渡御仏参之事 | ||
一公儀より諸国勧化御触之事 | 一高山稲盗人入札之事 | |||
一日比野村團治と申者熊ニかゝれ候事 | 一江戸廻御紙荷 | ぬらし候ニ付 蛭川村御吟味高山へも 懸り候事 |
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一御料下野村柏原山伐あらし候事 | 一御家老小川政右衛門御役御免之事 | |||
一江戸廻米不埒ニ付御吟味之事 |
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○宗門御奉行御代り之事
一 宝暦十二壬午之春茂宗門御改ニ東新五左衛門様御廻り被成候
筈ニ而御触御案文迄相廻り申候所 御城ニおゐて
俄ニ御病気差起得御廻り不被成候ニ付陶山次郎左衛門様江
被 仰付候由御触相廻り申候然共御泊り御休御触御案文
等も新五左衛門様より御定被成候通り御日限共其通りニ而
二月晦日ニ御発駕ニ而地廻り坂下御泊り三月朔日田瀬ニ
御泊二日福岡村ニ御休蛭川村ニ御泊り也右次郎左衛門様鉄炮
御兼滞ニ候故鉄炮判鑑同証文共ニ御改之日差上申候
鉄炮判鑑御証文も宗門判(ハン)鑑と一所ニ前ニ取置之申候
延享四卯年新五左衛門江代り今年まて十六年ニ成ル
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○御上ミ江戸表御類火之事
一 宝暦十二壬午二月十六日さつま様御屋敷近所之町屋より
火出さつま様御屋敷不残御焼失夫より此方様御上屋敷
江火付キ不残御焼失被成候然共御上下共ニ壱人も
あやまちもなく御土蔵之分不残相残申候旨ニ候
いまたやけい申候内ニ松平右近将げん様并ニ町方出入之町人より
御かこい御打被成候旨ニ候御屋敷もへ落候場より直ニ御ひ
きやくニ参申候者衣類貌(かお)などにすミ付候まゝ忽とび出シ
参候ニ付委細ハ相知不申候依之郡方東方只右衛門様
東新五左衛門様より御触二月廿日ニ出村々庄屋与頭御被官
長百姓神明神主右 御機嫌御伺として早速御
台所江罷出可申旨御触御座候ニ付勝手次第早々登城
仕御台所御帳面ニ付申候右御類火ニ付河合村庄屋
飯地村庄屋より松壱本つゝ差上申候由高山村庄屋吉右衛門よりも
大洞と申所ニ而目通り八尺廻り長八間程之杉壱本五寸六寸
弐本つゝ有之桧木弐本差上申度旨御目附石原喜平次様
山奉行新田金平殿山内伝右衛門殿本〆山下曽七南方より
上ケ林見分御廻り高山村ニ四月十三日御泊り被遊候ニ付曽七を頼
右上ケ木之御願申上候処きとく千万之由ニ付翌十四日ニ
大洞江皆様御出御内見被成被下候ニ付十五日ニ以願状を
御代官様へ御願申上候処きとく千万ニ被思召右差上候
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様ニと被 仰付候右御願申上候節口上ニ而申上候ハ右之木
手前ニ而板子角ニ仕知原渡場ニ而差上申度旨願申候
本伐角取とも御上ニ而可被遊候由殊之外首尾能相済申候
一 右御類火ニ付御領内村々より少々宛御見舞金差上申度
旨願申候ニ付高山村之義も平山ニ而栗角三十か五十本
知原渡場迄仕出差上申度然共御為ニも不成思召候ハヽ
金子少々差上申度旨御代官藤田政七様江与頭七左衛門ヲ
以御窺申上候処尤之義ニ候得共何れが可然候哉相知不申候
間御内々ニ而東方只右衛門様へ御うかゝい申上此方より可申
遣候由被仰下候
一 殿様江戸より四月廿二日ニ御発駕廿九日御城着被為遊候
天気能御機嫌能御着被遊候
一 明暦三丁酉年表長屋御門燈落申候由御屋敷之義ハ御拜領
之御屋敷之由いつ頃立申候哉相知不申候由及承候明歴三年より
当宝暦十二壬午年迄百六年ニ成申候
一高山村より御見舞として栗角差上可申旨御内窺申上候処
東方様江御窺被下候処夫からそれ江御うかゝい有之処至極御尤ニ
被思召願之通明日より伐り懸り本伐仕候様ニと被 仰付候
尤御内窺之義ニ候故願状ハ上不申候夫ニ付山御奉行衆本〆
山下曽七毛呂窪村林山ニ被成御座候ニ付御届ケ遣申候使太郎右衛門也
右角差上候事御尤ニも被思召候儀ニおゐてハ御代官様山御奉
行衆江願状差上可申と存候処夫迄もなく被 仰付候
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山下曽七閏四月二日村より御帰り吉左衛門方へ立寄被申候ニ付いさいはなし
取合相頼申候同三日ニ山御奉行新田金平殿山内伝右衛門殿庄やへ
御立寄被成候ニ付吉右衛門申上候ハ今度御類火ニ付村々より御見舞いとして金子
等上り申候得共当村之義甚困窮ニ付惣村平山之内ニ而栗角弐間五寸
五十本知原渡場迄仕出差上申度奉存候夫共金子ニ而上納之方可然思召
候哉と御内窺を御代官様へ申上候処藤田政七様被仰候ハ材木を上ケ
申度段尤ニ存候得共我等了簡成不申候間御郡奉行東方只右衛門様へ
御うかゝい被成可被下候旨ニ御座候若材木上候方可然も思召候ハヽ願状
弐通相認御山奉行衆へ壱通御代官所へ壱通差上相願可申候と存候処
殿様御城着之御祝義参候節御代官様ニ而被 仰付候ハ此間咄之平山
ニ而栗角作出上申度筋御尤ニ被思弥被 仰付候依之明日より
取懸り作りかゝりし候而仕出候様ニとの御事ニ而御座候ニ付願状ハ
上不申御うかゝいのミニ候故各様方へ御あいさつも不申上候
故手ぬけ之様ニも被思召候半か左様ニ而無之候弥被 仰付候通ニ
思召可被下候旨御咄申候処平山之義ハ村林同意之義ニ候故成程
左様ニいたし候様ニと御座候ニ付閏四月五日より取懸り作り申候栗
五寸角五十本を一組々之人高ニ割七組へ出シ共ニ割付作らセ申候
一七本文吉組一五本市左衛門組一七本兵左衛門組一九本太郎右衛門組一七本
清十郎組一九本新蔵組一六本勇吉組〆五拾本長弐間五寸角両のぎニし
右之通作り出申筈候右平山ニ而ハ村ニ材木入用之節ハ少々取来候段
伝右衛門様金平様へ此度咄置申候弥以後共左様ニ御座候由申上置候
村林ニ而御座候ニ付今度作り出御用ニ立申候而大慶仕候今度之御用
御巣山ニ而御取出し可被成旨被 仰出候処 御城御用かけ申候間小木壱本
も御伐不被成候様ニ山奉行衆より被仰上候由御咄御座候
一 坂下村三組より金五両上り候由上野村より金三両上り候由田瀬村より[ハ栗五寸三十本上ル 知原土場付之由]
福岡村之義ハ今度之浪人事ニ付御免被成候由其上麦八十九俵御かし被成候よし
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地廻り上地瀬戸日々野町ニ而金拾両上り申候由北方中通り南もそれ/\ニ
金子上り申候由承候蛭川村金七両上ル
一 毛呂窪村中として栗松桧三十本上り候由姫栗村中として栗松け
や木九本上り申候由
一 河合村庄屋惣衛門より松壱本上ル大木也同村与頭より桜木壱本上ケ候由飯地村
庄屋儀衛門より松九本上ル由同村八十吉より松壱本上ル由同村石か鼻善藏より
松十本上ル由
一 右之御用木御仕出し山毛呂窪村上ケ林河合村上ケ林姫栗村上ケ林どう
どう山福岡かま沢井林ニ而ひは桧本木五十本右之御山方より御仕出被成候本〆
あわや山下曽七山奉行山内伝右衛門様新田金平様杣頭喬(高カ)山九七茂吉両人
右御山方杣田瀬より五人上野より四人高山より八人太沢より清右衛門利兵衛九十弟
彦三郎圓蔵九七茂吉〆十八人前々四月廿六日より取懸り六月まて作り申候
七月より出シ方初り申候同月上の弐人田セ弐人福岡弐人蛭川四人毛呂久保壱人高山弐人惣請武右衛門より
一 神土村わらび縄二百六十わ[壱軒ニ 弐わツヽ上ル]一越原こバ板上ル一赤河樅なが板五十間黒瀬付ニして上ル
一 江戸御屋敷御用木川なミ筋上ケ林御伐仕廻夫よりとうぐ山御仕出之
筈ニ候処 殿様被仰出候ハ来未ノ春御のほり前ニ急度ふしん
仕候様ニと被 仰出左候へハ仕出材木御用ニ立不申候由ニ付とうぐ山
御仕出御止メニ被 仰付候御材木御かい上ケニ被成候筈之由御さ候
右御普請御奉行として御用人吉田峯右衛門様へ被仰御目付棚橋
弥市様御大工ニ惣兵衛忰宗十郎五月廿五日ニ江戸へ御差下シ被成候由
一 吉右衛門上ケ木杉本木壱本ニ而長弐間三尺六寸角[一本弐つニ 割]其次ニ而弐間壱尺
四寸角一本[弐つニ 割]其次壱間尺弐寸角[弐つニ 割]其次尺角弐つニ割 其次壱間尺
八寸角[弐つニ 割]其次六寸〆木数六本有りひの木本木弐本弐間六寸角
壱本弐間五寸弐本壱間六寸角壱本惣木数廿本差上申候数取
引道仕出共ニ手前ニ而仕知原茶屋へ上ケ置山奉行衆へ
渡し上ケ申候午四月初ニ作らセ八月五日六日七日三日ニ出し申候
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杣十弐人手間木挽二人仕出人足三十人殊之外おもく候故出人足多ク
懸り申候以上
一 江戸御屋敷御普請御奉行御用人吉田峯右衛門殿御目付棚橋弥市殿
御下り被成御普請町方人参屋 金子千七百両ニ而請合
七百両金子御差上置御普請出来後ニ不残申請候筈之由
請合申ニ付御渡しニ被 仰付候由大工ニ而惣十郎罷下り申候
一 御屋鋪午冬迄ニあらまし出来仕ニ付
若殿様を初御家中十二月廿六日ニ御下屋敷より御上屋敷
江御わたまし被遊候由奉恐悦候
大殿様ハ火事後午五月御国江御登り被為遊候而
未三月廿六日ニ又江戸江御発駕被遊候
一 右御普請御入用金千弐百両御領内有徳之者共江
被 仰付候由午年上納仕候四百両ふくおか弥七弐百両町
永徳屋や平兵衛百両蛭川庄屋惣兵衛五十両坂下酒や源内五十
両福岡酒や伝六五十両蛭川勘左衛門五十両中ノ方与吉五十
両切井銀二郎五十両飯地吉蔵五十両神土酒や金十五十
両残而百五十両ハたれへ被 仰付候哉不承候右御用金御領内
百姓方へハ少も当り不申候
一 右上り申候御材木并ニ上ケ林より御仕出御材木桑名ニて
御払ニ成江戸ニ而御かい上ケニ被成候由江戸江御廻し被成
御普請ニ御用ひ被成候御材木ハ高山吉右衛門上ケ申候杉
桧木不残飯地村より上り申候けや木一本此分江戸江御廻し
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被遊候其外ハ一本も江戸へハ不被遣候
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○高山村三十三番観音石仏立候事
一 宝暦二申年より思ひ立七たい切ル石屋高遠長蔵と申者ニ
きらセ申候夫より和泉石屋四郎兵衛ニ夫より段々きらセ宝暦
十一巳年迄ニ不残出来申候巳年ハ 公方様御穏便百日余
十一月迄ニ而御座候故差延置宝暦十二壬午四月廿三日吉日
ニ付而御目明仕候天気能参詣之者も千四百人程有之候
得共酒酔壱人不出来殊之外成上首尾ニ御座候僧衆御出之
方片岡寺一三和尚法界寺宝林寺雲林寺和尚ハまね
き不申候ニ付御使僧としてしゆだく坊祇首座右両僧
御出被成候岩松寺現住翁首座福岡村ニ而はちつゝミ
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借りはち之役[祇首座 しゆだく]つゝミ之役[法界寺 宝林寺]いのふの役岩松寺
他村より仏きしん本尊ハ田瀬村吉村弥十郎一番壱たいハ
苗木土屋与次兵衛殿又壱たい蛭川村幸纈幾右衛門又一たい
下の村ごせなべ四たい他村より寄進有之残ハ村方ニ而
出来申候初メ候より十一ケ年ニ成候得共何之しつもなく
首尾能日明迄相済大施主吉右衛門大慶不過之候
音右衛門曽七両人之者出情(しゅつせい)仕村方すゝめ米集りそれニ而
仏八たい出来きどく成志之者ニ候諸事委細之義
帳面ニ仕立残所なく書記し証文箱之内江入置申候
高山岩松寺現住
御代官藤田政七様 翁蔵司
宝暦十二壬午四月 郡方東方只右衛門様 庄屋吉右衛門
東新五左衛門様 与頭七左衛門又兵衛
殿様遠山出羽守様 定使幸助
○日比野村より若山木草高山ニ而口明不申内ニ取ニ
参候ニ付吟味之事 附延享元子年日比野不届之
事下書状三印ニ有之を爰江書出申候事
○ 延享元申子年四月四日日比野不埒吟味之事
一 若山惣山(ソウサン)下草ハ高山村田地養ひニ往古より致来候処
近年不埒二成申候元文三年之頃迄ハ日比野村より柴
ぬすミ二入込候而も俵なと持参りこき込俵の口ニりやうぶ
なとあてりやうぶつミ之様ニ仕すいぶんかくし申候処ニ
夫をたゝき柴ニ仕りやうぶと見セかけぬすミ申候段々
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ゆるかせニ成元文四五年之頃ハかくし不申其まゝしよい参候
様ニ成当村之者至極不埒ニおもひ居申候処猶みたりニ成
延享元申子年四月四日ニ日比野者大勢若山之口明ケ候なとゝ
申大勢参候ニ付高山村中之者共知原江罷出日比野者持参候
柴四拾壱荷きりくすし申候ニ付其翌日五日ニ日比野村より
使[彦七 九兵衛]と申者両人を以日比野役人中より[庄屋九郎左街門 与頭源六・源十郎 七郎衛門・弥惣]被申越候ハ昨日
此方之者共若山江柴取ニ遣候処知原川ばたニおゐておろ
さセ被成候義思召御座候哉前々よりぬすミ申候処当年ハ
御上より一旦柴御留メ被成其上口あげ被 仰付候事ニ御さ
候曾て私共了簡ニて口あけ候事ニ而無之候思召之程承度
由被申越候ニ付高山庄屋清九郎あいさつニハ成ほと昨日
村中之者共知原ニ而おろさセ申候元文之頃迄ハりやうぶ
なとと申俵えこき込かくし申候処近年殊之外みたりニ
成はれてぬすミ候様ニ成尤ニ不存い申候処此度此方の山ノ
口を其元より明なとして被取候義甚不届ニ御座候し
かし御上より口明被 仰付候儀ニ御座候ハゝ此方より
御代官所江御尋可申上と申遣夫より直ニ藤田仲右衛門様江
右之趣申上ケ様ニ成候てハめいわく之段申上候[四月六日当所 先年之通口明ル]
処御代官様被 仰候ハ御郡奉行衆様方御存無之事
ニ候ニ付[日比野村御代官御目代兼 岩井杢衛門様御勤成候]杢右衛門様江右之趣引合申候
処杢右衛門様被 仰候ハ夫ハ日比野村不届千万之至りニ候
右之柴高山村へ取徳ニして日比野村より高山村へ断立候
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様ニ可申付候間以後ケ様之義無之候様ニ急度可申付候
間高山村へ其通被 仰付可被下候由ニ御申被成候間此
以後もより之柴取候事急度吟味可致候勿論
知原なと此以後一筋も通し申間敷候旨被 仰付候
右之旨藤田仲右衛門急度申付候よしニ申せとの御事ニ御さ候、
此以後下渡瀬三本松共目ニ当り候ハヽきりくすし
申筈ニ相定り申候其後壱人も通り不申候
右四十壱荷之柴入札ニ〆[知原政吉 五百廿三文落札也]右之代ニ而石橋
三まい切セ[石屋いづミ 久七郎]知原御制之本之みぞニ橋ニかけ
申候、是を柴橋といふ[右石橋北之方石橋之うらに延享元子 年四月四日柴橋ときり付させ置申候]、
末世の証こ是也いさいわ下書帳三印ニくわしく有り
延享元申子四月四日 御代官藤田仲右衛門様 高山村庄屋 清九郎
地廻り岩井杢右衛門様 与頭 忠左衛門
甚八郎
定使 弥四郎
○ 若山宝暦十二壬午四月三日日比野不埒之事
一 右之通り事相定り候処又宝暦十二壬午四月三日ニ日比野より
若山之口明侯とて大勢三本松通し人込侯由尤知原通りハ壱人も
不参候先年延享元申子四月四日不埒より当年迄十九年二成ル
日比野村役人替り候ゆへか甚不埒ニ付高山より日比野村へ使ニ音右衛門遣
申遣候趣若山柴之義ハ先年事相定り其御村へも御代官
岩井杢右衛門様より被仰渡も有之事よもや村方御失念も
有之間敷事ニ候此方之義委細書記置申候如何之思召ニて若山
の口御あけ柴御取被成候哉此方いまた柴取不申内ニ不埒
成被成方ニ御座候思召いさいニ可被仰遣と庄屋江申遣候処
16 画像(翻刻付)
庄屋西尾安左衛門被申越候ハ昨日比方より若山柴取ニ参候ニ付
被 仰下候趣承知仕候私不存事ニ御座候か町作右衛門被申候ニ
高山村山のロ二日ニ明き申候由蛭川之者より両度承申候
ニ付定而定使こゝかしこニ而咄申候哉不埒千万之事ニ御さ候
村方御しづめ可被下候若しつまり不申候ハヽ又々御知らセ可
被下候と申越候日比野村不埒之事ニ候ヘハ此方使之者ニ直ニ
そひ断ニ可参処不埒之上之不埒ニ候故御代官様ニ被仰
上可被下候と村方かつてん不仕候ニ付又々彦市を日比野村江
遣申候今朝村方しづめくれ候様ニと被仰遺候得共村方かつてん
不仕ケ様之義ハ重而之れいニ成事ニ候故御代官所ニ申上くれ候
様ニと申候間明朝御代官様へ可申上候間左様ニ御心得被下候様ニ
申遣処安左衛門被申候ハ被仰下候儀委細承知仕侯よし返事有之候
ニ付庄屋与頭村方寄合相談仕明朝五日之朝磯助七左衛門
御代官様へ遣申筈ニ相定り申候然所四日夜四ツ過頃ニ日比野より
使[平二郎 直吉]両人を以安左衛門方より被申越候ハ今日ハ両度御使被下
忝奉存候音右衛門殿ニ申遣候通間違之筋ニ而ケ様ニ不埒ニ罷成申候
村方御しづめ此度ハ御内々ニ而相済候様ニ被成可被下候重而ハケ様
之儀不仕候様ニ村方へ急度可申渡候由段々之御断ニ御座候
吉右衛門あいさつニハ御使被下忝奉存候今朝直ニ御人被遣候ヘハ
相済可申候得共左様ニ不被成候故村方より右之段申上候筈ニ
相定り申候間如何可申も不存候得共御心安キ中ニ候ゆへ
随分相済申候様ニ明朝村方寄セ可申聞候間左様ニ御心得
被下候様ニ申遣候五日朝村方寄役人立会相談いたし候処
重而ケ様之義堅く不被成候哉と念入書付を取候ほとに被成被下
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候様ニと村方申候得共日比野達而之断殊ニ重而不埒無之候様ニと
申来候事ニ候間是切ニ而相済シ申候様ニと申相済申候以上
庄や 西尾安衛門
宝暦十二壬午年四月五日ニ記ス 日比野村 与頭 長十郎
岩右衛門
要八郎
喜右衛門
御代官様 五ケ坂下地回り 藤田政七様 高山村庄屋
北廻り 曾我八郎様 吉右衛門
御郡方 東新五左衛門様御病気ニ而御引込被成候 与頭 七左衛門
東方只右衛門様 又兵衛 病気ニ而引込い申候
定使 幸助
午閏四月五日ニ新九郎葺板上ケニ苗木江参候処町定使伝内咄候由
高山より日々野村へ吟味いたし遣候ニ付町兵左衛門頼日々野より御代官曽我
八郎様へ聞合候処高山之山へ入込甚不埒ニ候間日々野より高山へ達而
行候様ニ可仕旨被 仰付候由承参申候以上
○白川筋ミとの村ニ而金堀参村たをれ候事
一 宝暦十一辛巳九月白川筋みとの村ニ而金ほり大分村方をたをし
申候事ハ五六年以前より両人ツヽ参やな嶋と申所の向の山ニ金
有之なとゝ申見分いたしてハ帰り三四度も参見分いたし
へうばんいたし置去ル宝暦十一辛巳七月来り村方有徳成者
をだまし込公辺願ハせ七月より取懸りほり申候金ほり
の本〆則金本として江戸いセ屋幸蔵と申者之由申候而
来り金ほり人足頭弥七郎と申者之由右本〆幸蔵手代に
利平と申者有之一切金銀の取さはき仕一切之仕入ハ月切ニ
払申由ニ而りちぎに月々払なとして其村之者と甚心安く
仕出入申候有徳成之下女なとに銭急ニ爰ニ而入用之義候間有合
候ハヽかし候へなと申弐百文もかり二三日之内ニ四百文ニ而かへし又有
所之下人ニ百文かり酒なと銭切かいなとして一両日之内ニ弐百文ニ而
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かへし或ハたひ壱足あつらへ代弐百文も払セんたく一ツ頼銭
三百文もくれ又或時ハ金壱両かり壱両ニ日合わつか四五日かり利
として五百文も壱分も出或ハ商人ニ物をあつらへわつか銭
百文計りニ而調候物ニ而も弐百文も出候へハ其商人申ニハ百文ニ而
よきと申候ヘハ又も用事頼為也百文ニ而ハ合ひ申間敷なとゝ申
とほうもなく銭つかい見せ候故皆人うむき事ニおもひけり
然に日用之者是ハ我等しんがいぬすミ置候なとゝ申ほり候石
かくして吹キ分ケ候へハ銀多く出申候是を少々ニ而かい申候へば
銀したゝか有ゆへに皆人心まよひ申候右金ほり申穴の口ニハ
かうし戸を拵錠をおろし番をきびしく守しめたり
然所へ京都より両かへ屋来りて右ほり取候石むしろ四ツ切ニして
かますを拵それへ入封印を付村方の土蔵江預ケ候石おひたゝし
右之石を吹分ケ見て段々此かすと是ハ代何ほと是ハ何ほと
直段を附仕申候内ニ右手代利平へ村方之者内を通し隠しかいなと
いたしふきわけさせ其銀を内々ニ而名古(なご)屋などへ遣申候所両ニ
六十匁くらいニ売候へハ代金壱両出候分ニ而三両ニも成候様成事ニ候故
われも/\と右之石をかいかこい置候事大分之事也有徳
成人ハ内々ニ而かい中間ニ成五両十両或ハ廿卅両も出し又金
ほり方ニ而ふき分候銀ぬのゝ袋へ入持来り一寸と見セ封印ヲ
付是を金壱両ニ百五十目或ハ弐百目当分之ひちニ置申候由
又右金ほりの扶持方味噌塩酒一切仕入させ少々之小商人
迄そうりわらし其外いろ/\物かし申候月切之払の事
ゆへ殊ニ先月迄払利ちぎ成故かしかけ申候有時金ほり申候ハ
明日ハ金山かうじんのまつり仕候とて近村のれき/\皆よひ
酒さかなたくさんニ取よセけつかう成振舞仕候夫よりまへ方に
かうじんまつりハ大切之事ニ而いつれも衣類改申事ニ候とて
近村迄能キ小そで上下おびわきさし迄過分之そんりやう
出筈ニして不残かりあつめ是を着し早朝よりまつり尓
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懸り酒えんらんぶして殊之外の大さわぎにて酒呑者ハまひ
うとふ事も有べしか一てきものまさる石げこ迄もうたひ
まひしてたわひなしいか成事やらんセうたいさらになし
是をおもひ廻すに金ほり之者共常尓いなりをしんかう
して大切尓まつり申候よしケ様成事いなりのわさ成
らんか一日のらんぶ暮に及ひる頃迄金ほり壱人なし皆
逃けうせけりやれそれといふもはやおくれはセニ成
ゆき方更にしれす成けり夫より前ニ本〆ハ両かへ屋来り
候故是尓何か申合其身ハ気分あしきとてかこをかりて
ぎふへ養生ニ参とて帰り其かこも村方ニ而かりふとんも能(よき)を
弐つ迄かり村方市左衛門と申者之二男供ニつれぎふへ参申候
由後聞ケハかこハぎふにすて置ふとんを持逃たり供之者ニ
金壱分くれ返し申候由所之れき/\申ニハ前度飛州下呂
ニ而金ほりたはかり申候間後ハ其通りなりと初の程者
用心堅く仕候得共後/\ニハ其義も打わすれ一文なしニ
成たり是より一ケ年前に信州飯田ニ而も此通り成仕組□□(ムシ)
それを聞なからうろたへたる事と諸人わらいしなり
右みとのと同年同頃岩村ニ而も金ほり有上之御役人も付
なからみとのより二三日過し頃同様之仕組ニて大そん仕候而町人
寺入なといたし候由承及候外々金銀大分借り入し者致
方なく寺入仕候由古今珍敷事共也去年之事ニ候へ共具(くわ)
しく相知不申今度とくと承爰ニ記ス
宝暦十一年辛巳の九月末
○四月あられ降り候事
一 宝暦十二壬午年四月十七日田瀬村庄屋切下田せ田瀬坂頭切之内
あられ降上野山川上村半分上の方あられ降り申候大栗
ほとつゝ有之あられにて大分降り麦なと打たをしたね
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ほとあるましく様子ニ候あさなと打おり皆中おれニ成申候山杯
殊之外打芝取申頃ニ見申候ニ火を付やき申様に成申候
十七日ニ降り申候あられ田セなと門庭をなてあつめ申候あられ
十九日ニ田セヘ人遣候処見来り咄申侯ニ十九日ニきへ不申はきた
めし所なとハ六寸七寸ほとふかさ有之由申候御願申上御
見分有之候由ニ候河上村なとハ日光宮様御通りニ付尾州より
御役人衆大井宿へ御出被成候其次手ニ御出御見分被成候由ニ候
其後郡上有郷かわべ近所大サ目百六十めくらい有之あられ降人あいまち
なと仕候者多有之由ニ候
○午之夏旱魃故村々田不植付候事
一 宝暦十二壬午之春ハ雨露之順よく当年も豊年と悦ひ候内ニ
夏ニ至芝なとも心能かり取閏四月中頃ニ雨降知原川出水いたし候
夫より照上り同月廿四日ニ少雨降り夫より殊之外成旱魃ゆへ村中
不残植り不申五月中頃又少降りそれニ而都合能者ハ少々つゝ植付
其後雨降り不申候五月十一日(此日はんげしやう也)与頭七左衛門を以御代官藤田政七様へ御届
申上候沼麦ニ而廿弐石蒔ほとうわり不申段御届ケ勿論雨請之義
いろ/\と仕つくし申候ニ付御上雨乞被遊被下候様ニと御願申上候
それより夜雨ばら/\と降り申候ニ付沼方植村申候得共不残ハ植り
不申候ニ付村方を役人不残相廻り吟味仕[役人村方を 三度迄廻り]五人与頭よりたれ分
植り不申分麦田何升蒔沼田何升蒔と銘々之分書付取之村中ニ而
蒔合セ九石壱斗蒔内麦五石八斗五升蒔沼田三石弐斗五升蒔右此分植り不申
候由五月十六日(此日節明申候)ニ与頭又兵衛を以御代官様へ御届ケ申上候当年之旱魃百五十年
ニも承不及事と老共申候尤村中ニ而名だい之日やげ中や殿かいと寺
ミややふなとハうわり不申候而節明十日め程ニもうへ申候事も前度有之候得共
米取レ不申候ケ様ニ一とうにうわり不申事ハ前代未聞之事ニ候
御領内いつれの村も右之通之由御上江注進村々より有之由ニ御座候
五ケ坂下地廻り之内ニ而ハ上野村廿石蒔余うわり不申候由高山ハ二ばん之由
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御代官様御はなしの由ニ候御上ニ而も段々之御雨請被遊被下候由五月十八日ニ
御上より御雨乞の御札被下置候ニ付同廿一日ニ庄屋与頭両御郡奉行衆御代官所江
右之御礼ニ参上仕候又其後午五月廿三日ニ 御上御直之思召ニ而御雨請
被 仰付御札村次ニ而被下置候右御札之義ハ此間御礼ニ罷出候者ハ今度ハ
御礼ニ参上候ニ不及由御代官様より御触ニ付御礼不申上候右両度之御札庄屋頭
五人与頭罷出森江納メミきを上ケ申候雨乞もいつもの外ニ鎌鍬多
御すわらへ代参村中森々を廻ル其外大方之雨乞いセ木二度つゝ仕候
初書上ケ 高山村植り不申田地節明候日書上ケ覚午五月十六日書上ル
一麦田八升蒔 沼田弐升蒔 |
藤助 | 一沼田弐升蒔 | 清二郎 | 一麦田壱斗五升蒔 沼田五升まき |
兵左衛門 | 一麦四升蒔 沼壱升蒔 |
弥惣 |
一麦田三升蒔 | 神田 安兵衛 |
一沼田九升蒔 | 忠助 | 一麦弐斗三升蒔 沼壱斗三升蒔 |
惣七 | 一麦田壱斗四升 | 金三郎 |
一麦弐斗蒔 沼壱斗蒔 |
幸助 | 一麦田弐斗蒔 | 中や分 惠七 |
一麦一斗五升蒔 沼弐斗五升蒔 |
音右衛門 | 一麦五升蒔 沼四升蒔 |
市左衛門 |
一沼五升蒔 | 利兵へ | 一沼壱升蒔 | 円助 | 一麦田弐斗蒔 | 七兵へ分 与七 |
一麦壱升蒔 沼弐升蒔 |
金兵へ |
一麦田八升蒔 | 政吉 | 一沼四升蒔 | 庄六分 | 一沼壱斗五升蒔 | 与頭 七兵衛 |
一沼□□(ムシ)蒔 | □(ムシ)吉 |
一麦田一斗蒔 沼田一斗蒔 |
清十 | 一沼壱斗七升蒔 | 六右衛門 | 一沼田弐斗三升蒔 麦田弐升蒔 |
彦市 | 一麦田□□蒔 沼田□斗 |
長二郎 |
一麦田壱斗六升 沼田壱斗 |
惣兵衛 | 一麦田七升 沼田七升蒔 |
定吉 | 一麦田七升 沼壱斗五升蒔 |
伴助 | 一麦弐升蒔 | 作右衛門分 |
一麦三斗五升 沼壱斗五升蒔 |
紋兵衛 | 一麦田壱斗七升蒔 | 茂吉 | 一麦六升 沼弐斗四升蒔 |
ふくおか分 善七 |
一沼壱斗七升蒔 | 林平 |
一沼五升蒔 | 小三郎 | 一麦田八升蒔 | 弥平 | 一沼田五升蒔 | 恒八 | 一麦一斗弐升 沼六升蒔 |
新蔵 |
一麦田一升 沼一斗一升蒔 |
与頭 又兵衛 |
一沼五斗弐升蒔 | 庄屋 吉右衛門 |
水なと汲入ニ而大勢掛り一日ニ田一つ二つつゝうへ候て残也 但所ハ長通りその木こしまへ田少いわくら三四日前 右之内ニ而のこり申候第一長通りいわくら残申候 |
|||
一麦田壱斗八升 | 岩松寺 | 一麦田一斗五升蒔 | 宗十 | 一同弐斗蒔 | 金蔵 | 一同壱斗蒔 | 文助分 |
一麦田三斗九升蒔 | 小左衛門 | 一同壱斗五升蒔 | 弥兵へ | 一同壱斗三升蒔 | 九兵衛 | 一同六斗弐升蒔 | 善藏 |
一同五斗六升蒔 | 伊左衛門 | 一同六升蒔 | 儀左衛門 | 一同弐斗四升蒔 | 利七 |
惣合九石壱斗蒔内麦田五石八斗五升蒔沼三石弐斗五升蒔也
右之通書上ケ申候委細之義者九印下書帳ニ下書有也 尤銘々ニハ書上不申候
村中何石付き内麦田
何ほと沼何程と書上申候
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一 午五月廿四日[此日節明キ候て 九日めニ成申候]朝五つ頃より雨降り出能降也夜中降廿五日ニ下切なと大方
うわり申候其外もうわり申候同廿五日夜降ル廿六日ニも雨降り村方あら/\
うわり申候吉右衛門植残田地廿五日ニ不残うへ仕廻申候其外かいそへ田地
中や神田なとうわり不申候
右之雨次ニ而五月十六日ニ書上申候田地能植りいつれニ仕候而もうわり
不申候分吟味仕相改五月廿七日ニ又々書上ケ仕候五月廿八日ニハ六月
土用ニ入申候ニ付前日迄ニ植付申候分のけ植り不申分左ニ書上申候
二番書上ケ 覚
一麦田壱斗八升蒔 | 惠七 | 一麦田壱斗四升蒔 | 金太郎 | 一麦田三升蒔 沼田四升蒔 |
弥惣 |
一麦田四升蒔 | 兵左衛門 | 一麦田五升蒔 | 藤助 | 一麦田弐升蒔 | 曽兵衛 |
一沼田三升三合蒔 | 与市 | 一麦田弐斗蒔 沼田壱斗蒔 |
幸助 | 一麦田弐升蒔 | 金太郎 |
一麦田三斗五升 沼田弐斗五升蒔 |
音右衛門 | 一麦田五升 沼田壱升蒔 |
市左衛門 | 一麦田弐斗七升 沼田八升蒔 |
中や 惠七郎 |
一麦田壱斗一升蒔 | 岩松寺 | 一麦田弐斗一升 沼田八升蒔 |
長二郎 | 一麦田壱斗五升 沼田八升蒔 |
惣兵衛 |
一麦田六升蒔 | 金蔵 | 一麦田六升 | かんだ 文助分 |
一同壱斗四升蒔 | 利七郎 |
一麦田七升蒔 | 宗十 | 一同三斗四升蒔 | 善藏 | 一同壱斗□□(ムシ)蒔 | 伊左衛門 |
一同壱斗蒔 | 紋兵衛 |
惣〆三石四斗六升三合蒔麦田弐石八斗一升蒔沼田六斗五升三合蒔
右之通午五月廿七日ニ与頭又兵衛を以御届ケ申上候尤書上ケ之書付ニハ村中
惣高何ほと内麦田何程沼田何程と書上ケ銘々ニハ書上ケ不申候外村中
銘々小付仕掛御目申候御代官より被 仰下候ハ二三日見合能雨降候ハヽ植付
可申候二三日相立候ハヽ何成共存付次第之物仕付可申候由被 仰下候ニ付五人
与頭よひよセ右之段申渡候以上
一 当年之旱魃永々の照りニ而ハ無之候得共日でり年ニ当り候年ニ而候哉
わづかの日数之内ニ井水殊之外かれ申候みそ谷に水無之候故
苗代の取廻しも難成こまり申候ひでり年ニ定候年ハいか様ニ仕候而も
水早くかれ申候故永てりと申ニ而無之候而も水引つよく
こうしや不かうしや無之一とうニいたし方無之候而自然の道理也
くやむへき事ニあらす候
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三番書上ケ覚いつれ尓仕候而もうわり不申分外之物仕付書上申候
尤土用明まてニ沼田なとハうへ申候故此書付び田之内も段々水出来ニまかセ
植申候六月十六日ニ土用明き申候此書付十七日ニ書上ル村よりハ十二日まてニ
書付受取庄屋元ニ而しらべ書上ル
一 籾蒔弐石五斗三合也内麦田弐石三升蒔沼田四斗七升三合蒔也高山村中
但し書上ケニハ銘々之分ハ書上ケ不申候書上下書ハ下書帳ニ有り
一三升蒔内 | 弐升蒔そば 六合蒔たはこ 四合蒔大こん |
金蔵分 | 一壱斗七升五合蒔内 |
弐升九合蒔そば 六合蒔 大こん 五合蒔 ひへ 壱升五合蒔大豆 壱升五合蒔大こん 八升五合蒔たはこ |
かんた分水少分 伊左衛門分 |
一七升蒔内 | 弐升蒔大こん 弐升蒔たはこ 弐升蒔 そば 壱升蒔かい豆 |
宗十郎分 | 一壱斗三升五合蒔内 | 八升蒔そば 三升五合蒔大こん 三升五合蒔たはこ 五合 油荏 |
赤坂 利七郎分 |
一五升蒔内 |
弐升大こん 六合かいまめ 壱升九合そば 三合 小豆 弐合 油荏 |
かんだ 文助分 |
一弐斗蒔内 | 三升まき 大こん 五升まき たはこ 壱斗四升蒔 そば |
善藏分 |
〆六斗九升五合蒔不残麦田太郎右衛門組分 | 善藏帳内 一三升蒔五合内 |
升三合蒔大こん 弐升弐合蒔そば |
権兵衛分 |
一六升蒔内 | 三升蒔沼田ひへ 三升蒔麦田大こん |
弥惣分 | 一麦田壱斗三升蒔内 | 三升大こん 壱斗そは |
金二 |
一麦田弐斗壱升蒔内 | 六升蒔たはこ 三升五合大こん 壱斗弐升そば |
惠七分 | 一麦田弐升五合蒔内 | 三升蒔大こん 三升五合蒔そば |
藤助分 |
一同四升蒔内弐升蒔 | 弐升蒔たはこ 弐升蒔油荏 |
兵左衛門分 | 一麦田壱斗五升蒔内 | 弐升蒔大こん 三升蒔たはこ 壱斗蒔そば |
中や 幸助分 |
〆四斗六升五合蒔 | 麦田四斗三升五合 沼三升蒔 |
兵左衛門組分 | |||
一沼田壱斗蒔 土用明まてニ植申候 |
但し明田ニ而 | 幸助分 | 一麦田四升蒔内 | 壱升蒔大こん 壱升五合たはこ 壱升五合そば |
市左衛門 |
一沼田壱斗六升蒔 土用明キ迄ニ植付申候 |
但し明田也 | 音右衛門分 | 一麦田壱斗八升蒔内 | 三升蒔大こん 九升蒔たはこ 六升蒔そば |
音右衛門 |
一沼田七升蒔 土用明キ迄ニ植付申候 |
但し明キ田也 | 惠七分 | 一壱斗八升蒔内 | 三升蒔たはこ 壱升五合大こん 八升ひへ 七升五合そば |
中や七三分 与七郎 |
一麦田弐斗五升蒔 | 明キ田 | 同人 |
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一沼田壱升三合 | さしミ也 そば |
与市 | 一七升蒔内 | 三升蒔たばこ 壱升蒔小豆 沼三升蒔ひへ |
紋兵衛 |
〆八斗九升三合蒔内 | 五斗五升麦田 三斗四升三合沼 |
市左衛門組分 | 〆麦四升蒔沼三升蒔 新蔵組分 | ||
一麦田壱斗七升蒔内 | 八升蒔そば 四升蒔たばこ 五升蒔大こん |
長二郎 | 一沼三升蒔 | ひへうへ申候 | 長二郎 |
一麦田一斗四升蒔内 | 壱升蒔たばこ 壱升大こん 壱升□□ 三斗一升そば |
惣兵衛 | 一沼四升蒔内 | 弐升ひへ 三升油荏 五合小豆 |
惣兵衛 |
〆三斗八升蒔内三斗一升麦田七升沼田清十郎組分 | 五合蒔明田 土用明キし迄に 植付申候 |
一壱石壱升八合蒔ニ | そば蒔申候 | 一四斗八升一合蒔に | たはこうへ申候 | |
一三斗五升八合蒔 | 大こん | 一壱斗九升五合蒔 | ひへうへ申候 | |
一三升五合蒔 | 大豆うへ申候 | 一壱升六合蒔 | かいまめまき申候 | |
一四升七合蒔 | 油荏うへ申候 | 一壱升八合蒔 | 小豆うへ申候 | |
一三斗三升五合蒔 | 明キ田ニ而い申候 | 土用明迄ニ半分過 | 植付申候 土用明□月十六日也 |
|
外ニ 一麦六升蒔内 |
三升蒔たはこ 三升蒔大こん 三升五合蒔あづき 五合蒔あふらへ |
岩松寺分 |
合籾蒔弐石八斗壱升三合蒔内[壱斗六升五合蒔沼 六月十七日迄ニうへ申候 幸助分音右衛門分 惣兵へ分いねうへ申候]
残而弐石五斗四升八合蒔六月十八日ニ書上ケニ仕候
内麦田弐石三斗四升蒔沼田弐斗八合蒔也
一 津戸ニ而徳右衛門地喜助地なと六月廿日植申候よし土用明キ
五日目也幸纈勘右衛門様下屋敷ほりこし地同廿二日ニ植申候
よし六月廿日ニ上ミ高山北林辺くりほと成あられ降申候
一 右日やけニ付高山村幸助中や分惠七善藏金蔵宗十郎利七長二郎
惣兵衛伊左衛門〆九人午ノ御年貢難勤旨ニ付村役人へ段々願ニ付村役人
下見分仕候所ニ[中や 幸助][中や地 惠七][ミやゝふ 惣兵衛][ミやゝふ 長二郎]右四人之田地御年貢相勤りかたく様子ニ
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相見へ候ニ付御願申上候残五人之者共ハ年貢一倍も可有之者と見へ候ニ付差止メ
申間敷候哉村役人うちばニ見立候而も年貢一ばいも可有之様子ニ候へハ御上御見分候ハヽ
御しかり之程無心元候其上入用も懸り可申候併達而ハ留不申段申聞候所左候ハヽ
御願相止メ可申旨申候ニ付証文取之申候曰御見分願申候処御年貢相勤可申様子ニ下
御見分被成被下候私共もつもり見申候処慥ニ御年貢勤り可申と奉存候ニ付差止メ之
御断申上候依之御断申上候上ハ当午ノ御年貢一粒も無不足急度相勤可申候間
御願之義御無用被成可被下候後日ニかれこれ申上間敷候旨証文取之申候中やミやゝ
ぶ四人之者共も同様ニ証文ニ印形仕候得共此四人之者之義ハ村役人より止候様ニとハ得不
申候段申候へ共印形仕候夫ニ付御上江下見分之義一々申上右四人之者之義者
人数少々ニ付入用をいとい御願不申上と相見へ申候得共此四人之義ハ追而御願
可申上候間御勘弁被下候様と御代官藤田政七様へ分ケて申上置其後
当御年貢つゝ拝借米願くれ申候
一 米三石壱斗弐升壱合四勺 幸助 一壱石五斗九升七合壱勺 惠七郎
一 同壱石六斗四升壱合八勺 長二郎 一壱石壱斗一升五合四勺 惣兵衛
〆七石四斗七升五合七勺 右四人之年貢拝借米奉願上被仰付候
右返納ハ来未ノ年より亥年迄元米ニ而五年賦ニ奉願被仰 付候
返納壱石五斗つゝ四年壱石四斗七升五合七勺壱ケ年〆五年也
右之通拝借米ニ而御年貢相済申候右ニ付納所後ニ□□(ムシ)
之者共も拝借両度奉願候得共尤ニ不存候へ共両度之願ニ付御
代官様へ申上候処相成不申段御世話やかれ候其段申渡候処其後
差ひかへ不願候右四人之者願状下書拝借証文共ニ願状下書
九印之帳ニ有り右四人之願之通ニ被仰付候未より亥迄五年賦ニ元米ニ而被仰上候但し
御年貢納跡之高切を年ふニ奉願上候
一 右之外惠七郎手前がいと小平次分音右衛門両屋敷紋兵衛なと殊之外やけ申候
得共御願不申上候庄屋吉右衛門中や地神田地北かいと地大かいと御や藪手前
がいと大やけニ而候得共御願不申上候御代官様へハ御はなしハ申上候以上
其外村中日やけニ合不申候者無之候皆少々宛やけ申候
一 右日やけニ而至極困窮之上ニ困窮仕候ニ付鍛冶炭御願申上
未ノ春御すくいニ御運上不被召上山被下置候当壱ケ年切ニ被 仰付候
山ハすぎより横手上大だわ通り願相済やき申候願書下書ハ九印帳ニ有
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一 小池定左衛門殿郡御奉行役東新五左衛門殿御病気ニ付而
御隠居願之通被仰出同役小池定左衛門殿江被仰出之候以上
宝暦十二午ノ六月十八日
一 宮地主水様御用人役宝暦十二壬午六月廿九日ニ被仰付候由御触
有之候右之御祝儀ニ七月三日ニ庄屋与頭罷出ル御触[東方只右衛門殿 小池定左衛門殿]
○福岡より来ル荷物次不申事
宝暦十二壬午七月十二日ニ記
一 飛州布施弥市郎様御手代斉藤又蔵殿下川辺御
役所江御通り被成候由ニ付御先触写し
覚
一人足弐人 但し山駕籠
右者我等儀就御用明十二日明七つ時恵那郡下野村出立
下河辺御陣屋迄罷越候間書面之人足無差支差出
可給候此先触早々継送り杤井村より川辺御役所可被相届候 以上
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布施弥市郎手代
午七月十一日 斉藤又蔵 印
福岡村 高山村 蛭川村 中ノ方村 福他村 久田見村 細目村
野上村 和知村 飯田村 与名田村 杤井村
右村々[庄屋 年寄]中
右之通之御先触福岡村使庄三郎庄六両人持参申候ニ付福岡より
蛭川江直通し申事ニ候間受取不申由申候得共右両人申候ハ
我等共高山迄之役ニ而参申候故持帰り可申由申候左候而ハ明七つ時
御立被成候故是より持帰り又人足当テ持送り申義ニ候へ者もはや
こんばんも四つ過ニ候故殊之外おそなわり末々ニ而ハ御先触
と御役人衆と一所ニ成候而ハ何様之御吟味も相知不申候
問蛭川江両人共ニ持参候様ニ申候処人足殊之外きのとくがり
病人も御座候得共急御用ニ付高山迄と有之候故持参申候きのとくニ
奉存候重而之れいニハ急度不仕候様庄屋へ可申候間此度ハ何とそ
御すくいニ御送り可被下候由達而断申候ニ付病人もひかへ殊ニたべ
物支度等も不都合之由折ふしニ此方ニも少もたへ物無之殊□(ヤブレ)
公辺御大切之義又御先触延引候而ハ先々之村々も首尾も悪く
間合かね可申候間此度次申ニ而ハ無之今ばん人足かし申候間
追而人代取可申候間必/\重而之例ニ不被成候様ニ庄屋仲右衛門殿へ口口
申遣候重而ハ何様之義ニ候共次不申儀能々申遣候且又明日
之御駕籠人足高山ニ而ハ次不申候間直ニ蛭川へ御通し被成候様ニ可被成候
此方之義ハ次不申願相済郡奉行様方へ御礼迄申上候義ニ候ヘハ中々
次不申候若次申候様ニ御心懸ケ被遣候ハ六ケ敷成申候然時ハ御大切之御衆中
之義ニ候間何様御きけん之程も無心元奉存候御申ふん候ハヽ御通し
被成候而上へ御願被成候様ニ可被成候必/\左様ニ御心得可被成候由ニ申
遣候
一 七月十二日朝日出前ニ右之又蔵殿御出被成候庄屋方ニ而暫御やすミ
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被成候人足ハ下野村人足ニ而参申候ふくおかハあまり近過候とて高山次
ニ可仕候よしニ而高山迄下の人足ニ而通し申候吉右衛門又蔵殿へ申上候ハ
人足次之義ハ先年より川辺より御通り被成候節ハ蛭川より福岡次
下ノより御通り之節ハ福岡より蛭川次ニ而先年より当地ニ而次申事ハ
無御座候故人足も当置不申候先例ニ御座候故御断ハ申上候得共
御次被成候可然思召候ハヽ 御公儀様之御用ニ候是ハ重き大切成
義ニ而御座候間人足差出可申候いづれ共御差図次第ニ可仕候由
申上候又蔵殿御世話御座候ハ我等共中津川へ出中仙道通り
可参と申候処ニ下ノ村庄屋申候ハ是通り御通之方が可然と
申差つかへさせ申候不届ニ候道筋之義不存候ハヽおき候ハて
ケ様之義ニ候福岡へ承合候而も相知申事ニ候ニいらざる事を申
候而此筋之さしす仕候下ノ人足も通し申支度ニ不仕参候事ニ
候間下ノ村之たのミニ而人足頼送り可申との義ニ候故下ノ者申
候ハ成程次不申所ニ候故下ノ人足ニ而蛭川村へ送り可申候由
申上候吉右衛門申上候ハ人足衆遠道ニ候故此度ハ次可申候御大切
之義ニ御座候間次可申かと申候所それニ及不申候然ハ下ノ人足
ニ而遣申セとて御立被成候直ニ下ノ人足ニ而通し申候
又蔵殿被申候ハとでもなき事ニいかいセわかけ申候とて御礼申被立候
又蔵殿被申候ニもケ様ニ村順ニ而も次不申村何方ニも有事ニ候
故下野村より聞合不申段不届之由被申候御きけんハ能候 以上
宝暦十二年八月也
一 午八月十日夜九ッ過之頃白川筋之者由善光寺参り
之者之由ニ而わつらい痛有之ニ付坂下村よりかごニ入村次ニ而
差越候福岡より八月十日夜九ツ過ニつりかけ申候かこ人足四人
ニ而持参申候処当地ニ而ハ次不申候間直ニ通し申候様ニと
申請取不申候人足共申候ハ私共高山迄と申候ニ付是迄
送り参申候得通し不申由申候得共高山ニ而ハ高山ニ用無
之村次ハ御用御役人衆ニ而も次不申段願相済御礼迄
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申上置候事ニ候故高山ニ而ハ次不申候間其方達勝手次第
と申中々高山ニ而受取不申候右之者ふくおかへつれもとり
候哉蛭川へ通し申候哉不存候高山ニ而ハ受取不申候 以上
一 宝暦十二午冬御代官藤田政七様御中勘定ニ御出之節右
飛州御代官手代御触并白川之善光寺参之訳福岡村より
御代官様へ咄し仕候由ニ而御代官様御物語ニ御座候得共先年
高山村ニ而一切村次不仕候様ニ御願申上候処願之通被 仰付
候ニ付御礼等迄申上候事ニ候故次不申 公辺御用之
儀ハ若間違候而ハ 御地頭様へも御苦労懸り申義ニ候間
御為之義ニ候間ともかくも可仕候得共其外之義ハ中々次不申候
併山荷物ふくおかより直ニ蛭川へ通し申儀ニ付御願申□□□(ムシ)ハ
ふくおか通し候様ニ被 仰付候ニ付是より一切何ニよらす
直ニふくおかより通し申様ニ高山ニ而次不申候様ニ御願申上候
処願之通被 仰付候事ニ候両所共願相済申儀ニ候へば
村方かつてん不仕候間 御前様御了簡として山荷も其外
一切高山ニ而次申義ニ候ハヽ出入無之候賃銭のとれ申山荷
商荷ハ通し御役を次申義ハ相成不申ニ付御願申上
御尤ニ被思召願相済候義ニ御座候間賃銭とれ申荷も
御役村次も皆次候様ニ御内々御取計ひ被下候ハヽ出入無之候
旨申上候処尤ニ被思召其内ふくおか庄屋へも申達左様
ニも致見可申由被 仰候 以上
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宝暦十三未年同十四庚申年
一 伊勢桧垣神主常吉殿御家とく御相続ニ付願等ニ大分
之物入三百五十両入申候由ニ付惣旦那中江奉加御頼
被成候御手代野村庄内未正月六日ニ被参一万度之御はらい
庄屋吉右衛門方江一ツ惣村中へ壱ツ奉加帳一冊持参被致候
得共去午年大日てりニ付御年貢等も納り不申当時之
過合も難儀仕候ニ付御伊勢様之義ニ候へハ付可進候得共
当時一銭二而も埒明不申候間当秋作二而相応ニ可進由
申候処外々ハ只今皆埒明申事ニ候間何とそ半分も
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上くれ候様ニと庄内達而之頼ニ候得共右之仕合故少二而も
埒明不申筋申候処しかれハ当秋御上ヶ可成候御帳面只今
面々一人/\ニ付帳面くれ候様ニと有之ニ付村中五人与頭
大頭よひ村方一組/\ニ組下帳面付候様ニと申渡し
付ケさせ申候処村中二而五斗七升五合有之候役人中ニ而
弐斗有り惣合テ七斗七升五合有之候日々野村聞合候処
村方二而壱石八斗外ニ三十両宛付申候由高山村分九升弐合
儀左衛門組六升市左衛門衛門組五升七合平左衛門七升六合文吉組
七升五合清十組壱斗新蔵組八升勇吉組三升五合
与九郎組〆五斗七升五合五升与頭又兵衛五升与頭七左衛門壱斗
庄屋吉衛門合米七斗七升五合也
右帳面相記右手代庄内日々野より帰り之節我等方へ立寄り
可申段やくそくニ付帳面其節相渡可申と存候処日比野村より
直ニ帰り被申候ニ付右帳面ふうじ日々野村多蔵方ヘ頼遣候当年ハ
たいく打ニ被参候筈ニ候故相届ケ置可申段ニ付遣申候以上
一 宝暦十三癸未四月三日ニ桧垣神主手代片山儀左衛門岩田善兵衛と申
両人被参被申聞候ハ只今迄参候野村庄内儀ニ付而御尋申度義
御座候庄内ニ不審懸り候ニ付去冬御附被下候奉加之義直ニ被遣
被下候哉高何程御付被下候哉委細承御書付申請度旨被 仰聞候
我等申候ハ此方義ハ去年旱魃ニ付直ニ金子上候事御断申上当秋
米ニ而進申筈ニ村中之帳面仕立少々間違有之跡へ成候ゆへ
此度伊勢便リニ遣候筈ニ而右帳面日々野村多蔵方ヘ差出し置
候間其帳面御受取被下候様ニと申談川水出候ニ付彦市方ニ一宿
被致翌四日ニ立被申候人足壱人相添ふくおか村ヘ送り申候蛭川
より人足相添参申候ニ付人そく遣申候
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宝暦十三癸未三月
一 宗門御奉行陶山次郎左衛門様御親父杢右衛門様御わつらいニ付
御かん病之御断被仰上当未ノ三月宗門御改御廻りニ者
御郡奉行小池定左衛門様為御代と三月八日御発足同十九日
御帰り被成候町日々野毛呂窪段々御廻り五ケ坂下ハ跡廻り申ニ候以上
○加藤幸吉殿家潰之事
一 加藤幸吉殿家ハ御普代にて古き家加藤七左衛門殿御家老ニ而
御死去被成間もなき内ニ家内三人懸ケ落被成候何之越度も
無之御首尾悪しき事なく御無難成しに何か成事ニ而
出本被成候哉と尋候ニ尾州名古屋之者之よしたゝミや茂
左衛門と申者御領内へはいくわいし此者甚不宜者ニ而二三ケ
年加藤之家ヘ出入仕御袋様へ取入事長し宝暦十二午
十二月中頃幸吉殿并御袋妹子家内三人をびき出し上地渡
御用人衆之にセ手形拵右茂左衛門同道仕舟人ニひき口言
渡り越下海道之方ヘ落行被申候尋申候得共行方相知レ
不申候右七左衛門殿御死去之後幸吉殿年若ゆへ家内
みたりニ付御家門加藤陸右衛門殿本家江引越被居候といへ共
此茂左衛門いづな之法を用ひ候ゆへか更に出本之節知ル
者なし御知行米代家内宜敷道具之金子持参有之候由
上江被 仰上候ニ付右不届ニ付一切被 召上家内道具ハ老
母江被下置陸右衛門殿并御一家御壱人右両人へいもん被 仰付其後
御免被成候家田地ハ小川政右衛門殿と申御家老願ニ付被下普請
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有之未ノ二月御もらへ被成候其後之咄ニ幸吉親ハ右持参之金子
を茂左衛門預り夫よりかけおちいたし行方相知不申候ニ付右三人
殊之外なんき之由及承候茂左衛門も天ばつニ而候哉とをり者
より合打殺金子をうばい取申候よし也
○長沼丈五郎殿家潰之事
一 宝暦十三癸午正月長沼丈五郎殿きじ鳥屋へ行候とて
御出夫より宿へ不被帰所々江人遣候処まこめ宿ニ居被申
つれもとり被申候段々不行跡有之由及候いさいの義ハ
不存候夫ニ付不届ニ被 思召奉書御かまひニ而御いとま被下
立退被申候御尤御目附御足軽衆付ゼうろく通り
上地渡りを御越被成候御老母有之是ハ福岡村長谷川
善左衛門殿息女二而長沼万右衛門殿御室也弐人ふち被下之
福岡村長谷川伊左衛門殿方江御預ケ被成候勿論家財共ニ
老母江被下候由跡つふれ申候
○雲林寺開山御法事の事
一 宝暦十三癸未三月十五日より十六日江雲林開山百年
忌此和尚たうぐ二而一秀大和尚といふ未ノ三月十五日前後十五日
程之間ハ殊之外にぎわしき事也右おセう木ぞう四両弐分ニて
出来候由京都江大沢はんりう寺迎江に御出被成候右御香典として
御上様より御米拾俵金壱両一分御使者としてはた頭小倉猪兵衛殿
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御馬ニ而御供廻り多御使者也御隠居様より[かんへう 金弐百疋]十把兵部様より
セんかう被進候由御家中御給人通りより金壱両御中小姓通りより
金三分御歩行通りより金弐分上り申候由御領内御寺方より木そう
代として金壱分かうてんとして金壱分〆[一寺 弐分ツヽ]より弐分宛上り申候よし
御法事之節他寺末寺御寄被成候
一 他寺[関ばいりやう寺より御使僧かぢ寺田りやうふく寺和尚釜戸御寺かう野村 しんかう寺使僧手金正源寺和尚付知そうとん寺和尚右セうかうハ]
ひじニハかまど和尚ときにハ手金セうげんじ和尚御セうかう被成候よし
御家中給人通りより御歩行通り迄三月十四日より十六日迄不残御ふるまい
有之候村方も地廻り五ヶ坂下蛭川迄庄屋与頭与頭頭百姓名有者計リ
町人不残御ふるまい有之候高山村より吉右衛門伜磯助新九郎両人
よばれ参申候御勝手それくニ御役割有り賑敷事ニ候
一両村中
一 御かうてん村方よりも村々不残上り申候金子壱両弐分[外ニてう さい添]蛭川村内 一分庄屋
壱分頭中
右之格合ニ候坂下三組二而とうふ百丁金三分之由田瀬よりハ薪上り申候由
日々野村も薪上り申候瀬戸薪之由高山村より薪七拾荷[三尺廻り弐足しょい 但しかな木也]
庄屋頭としてかんへう五わ上ヶ申候庄屋頭袴羽織二而十三日ニ御じぎに
参申候磯助新九郎として青銅弐十疋味淋酎一樽上ヶ申候参詣之者ハ
勝手次第ニ村方より参詣仕候参詣之者支度仕度者ハ御ふるまい被成候
御米六石ほと入申候由たうふなと五六百丁入申候由是ニ順し一切之物あ
つまり候事山のことし不残入申候由二而雲林寺初りて之大法事
只今迄聞不及と申事ニ候 御上御法事三月二日ニ御座候ニ付右
御道具不残寺へ御かり被成候由御上之御法事之通番所三所ニ立御上より
足軽中間付申候夜廻り火之廻り共ニ御上より御役人衆昼夜共ニ御廻り被成候
正岳院宿坊ニ而雲林寺御経相済申候へハ正岳院へ御引被成候和尚方ニ者
御足軽衆御案内ニ付被申候ふくおか弥七郎より雲林寺水引上ヶ被申候
岩松寺なとも三月十一日より雲林江詰被申候
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○殿様御発駕御延引之事
宝暦十三癸未三月
一 殿様遠山出羽守様御[隠居和泉守様 御長子兵部様御兄也]三月廿六日御発駕の筈ニ
被 仰出候所ニ上地川満水ニ付御延引ニ成同晦日ニ御発駕被仰出候
所ニ又水出御延引被遊候四月七日ニ又被 仰出候所又出水ニ付御延引
御馬壱疋四月六日瀧坂船為越候由被 仰出知原川人足出為越候様ニ
御代官藤田政七殿より高山庄屋吉右衛門方ヘ御触被遣候若知原難越候ハヽ
吉右衛門方よりふくおか[庄屋 仲右衛門]江早速申遣為越候様ニ申来候処知原川
水ほそく候ニ付馬ニかうしや成川達者共ゑり十人ニ伜共両人相添ヘ
差出別条なく川越申候御馬屋両人御中間弐人右見届ヶとして
御足軽高井兵右衛門殿被参瀧坂船を同日七ツ頃ニ越申候由
毛呂窪村庄屋平三郎方より両人御台所御目付衆へ遣候処出水
ニ付右届ヶ高山村より以矢文御届ヶ申上候夫より雨大降り二而大満
水ニ付四月九日ニ御発駕被 仰出無御別条上地御越被遊
恐悦仕候先年より江戸江御下り之節ケ様成出水ニ而御日限御延引
之義覚不申と皆人申候御供御老中ニ而小川政右衛門殿御給人ニ而
田辺傳治殿へ纐纈勘治殿其外御出被成候所上の村坂下村より之伝馬之
儀町吉のや新兵衛方ヘ渡し置候処刻限おそなわり御台へ之人足なと六人
懸りへ三人遣なと仕殊之外御家中御世話有之断折々申上候得共
江戸へ申遣江戸より済参不申候而ハ聞届ヶ不申由断相立不申候
高山ハ町善兵衛方ヘ渡置御立御延引之節ごとニ善兵衛方へ申遣
間違無之候様ニと度毎ニ念入申遣候ニ付殊之外首尾能相勤り申候
上の坂下庄屋中御代官へよハれ候得共申し分ヶ相立申候由
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○公儀より諸国銅山御触之事
御書附写し
諸国銅山是迄不相稼場所并前々出銅有之当時
休山ニ相成場所可有之候間御料ハ御代官所私領ハ領主
地頭より遂吟味相稼出銅有之様可取計候尤出銅
有無共吟味之趣御勘定所江書附可差出候右之趣
可被相触候
三月
覚
江戸表より別紙書付之通被 仰出候間可得其意候
其上銅山有無之書付支配之御代官所江可差出候
尤前度堀候而も不用立場所又ハ銅有之由二而堀候
得共出不申所ハ其趣可書出候順達留村より
可相戻者也 東方只右衛門
未四月廿二日 小池定左衛門
御領内中
村々庄屋/\
右ニ付村方より書付左ニ記ス
今度被 仰出候銅山之儀吟味仕候所
於当村出銅有之山一切無御座候右之趣
為可申上如此ニ御座候以上
高山村与頭
又兵衛
右同村与頭
未ノ四月廿六日 七左衛門
右同村庄屋
吉右衛門
藤田政七殿
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○京都大内清冷殿御普請御用木尋来森木望候事
宝暦十三未四月十六日ニ北かいと伊左衛門庄屋方ヘ参頼申候ハ京都
大内清冷殿御普請御用木之由所々相尋候得共無之ニ付ぎふ
者壱人兼山者壱人向郡東ノ村之者壱人毛呂窪村新平方江参
高山村之森二而ひの木八尺廻り長四間之木三本望ニ候間案内仕くれ
候様ニと相頼申候得共病心二而居申候間高山伊左衛門を頼相談仕候様ニ
と新平よりさしす仕越候由右三人之者相頼申候ニ付御願申上候由
伊左衛門申候ニ付庄屋吉右衛門申候ハ此相談之義相成申間敷候子細ハ
御地頭様より森木伐候儀堅く御停止殊ニ社しゆふく等の
用木さへ不被 仰付候又村方も前以森木伐候処段々悪病等も
はやりさいなん事も出来彼是こまり入夫ニ付御神
へわび事仕植木等仕候ニ付以後森木等望申者御座候共
御相談御止メ被下候様ニと村よりも以前願申候儀ニ候間相調
不申儀ニ候間相談得不仕候間其段右三人江申聞かへし
候様ニと申渡遣候
一 同十七日夕方ニ伊左衛門参申候ハ兼山之者申候ハ森木之義相談
相成不申段被 仰聞候夫ニ付一寸と御目ニ懸り申度よし
私ニ案内いたしくれ候様ニと頼申候間あれ迄同道仕ひかへさセ
置申候由申候ニ付吉右衛門申候ハとも御目ニ懸り申候而も相談
埒明申義二而も無之候殊ニ今ばん苗木より客人も有之夫ニ付
急成内用有之すんか無之候間得会申間敷候重而御縁を
以御目ニ懸り可申候得御目ニ懸り不申段無礼之義ハ□
伊左衛門より断くれ様ニと申かへし申候
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一 同十八日朝又伊左衛門参申候[兼山之者ノ由壱人参候 右之者]申候ハ森木相談之
儀此方御村方二而相談埒明不申候間苗木御役所表ヘ罷出
御願可申上迄とて支度被致候間私申候ハ苗木御役所江御出
被成候義ニ候ハヽ一寸と庄屋江御目ニ懸り其上之事ニ可被成候
夕へハ客来二而得御会不被成候得共今朝ハひまニも可有之間
御立被成候様と申候ニ付然者左様ニ可致由被申候故あれまて
同道いたし候と伊左衛門申候ニ付左様ならバあひ可申とて
よび入申候兼山之人申候ハ此度京都清冷殿御普請
御座候ニ付江戸表より御役人衆御のほり被成御普請御用木
国々大名衆へ被 仰付候得ば相調申候得共御大切成御普請
之義ニ候故けんへい之義御きらい被成候ニ付京町人御出入之
者へ被 仰付夫よりきふ表へ申遣所々ヘ尋ニ出申候京町人
家内五人ぎふニ而材木屋取持ニ而家壱軒かりきりニ而
すまい申候きふニい申候所々江尋出申候此方森ニハ御間ニ
合申物御座候間御相談申候得共村方ニ而埒明不申候由
被 仰聞候故苗木御役所表へ御願申上可申と出かけ候
所ニ伊左衛門殿御あいさつニより立寄申候段申候ニ付我等
あいさつニハ左候ハヽ村方惣百姓江申聞セ其上明ばん
まてニあいさつ可申候間左様ニ被心得候様ニとあいさついたし
遣申候夫より両頭[七左衛門 又兵衛]よひよセ相談いたし此者共まこと
の者共とハ相見ヘ不申候得共万一相違なき御用筋ニ候ハヽ
もきとを成申を申候ても[重而 御地頭様]御為ニも村方為ニも
如何可有之や先ツ右之段御代官様ヘ御内談申其上ノ
事ニ可致とて伜磯助ニ与頭又兵衛相添御代官様へ申上候
処御代官様より御郡御奉行衆ヘ被仰上又それより上江被 仰上
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御あいさつニハ森之義村方惣百姓早速あつめかたき
ニ付下役共よひよセ相談いたし候所御上より森木堅く
御停止其上社用木等迄御停止ニ候故堅キ被 仰付ニ候
故村方より取次相願申儀相成不申苗木表江御願之義
相調申間敷候間御無用ニ奉存候夫共留メ申ニ而ハ無之候間御
勝手次第ニ可成候とあいさつ申候様ニと御座候惣五人与頭
共八人磯助与頭苗木より帰り之頃あつめ置右之咄いたし遣候
一 同十九日ニ伊左衛門方ヘ定使幸助ニ申遣候ハ昨日之あいさつ可申候
間昨日之仁同道ニ而被罷出候様ニと申遣候ニ付ぎふ之者之
由壱人同道仕罷出申候ニ付庄屋吉右衛門あいさつニ者
此間之社木之義も村方百姓病中之者も有之又他出
之者も有之相揃不申故村方ヘハ得相談ニ及不申候
村方下役人よせ委細申聞セ候処御地頭様より堅く
御停止殊しゆふく用木等も相成不申筋ニ候得ば村
方より取次願申儀ハ得不致候申聞候 きん中様
公儀之儀ハ至極御大切儀恐入候儀ニ候又御地頭下ニ
相住居申者之義ハ地頭之下知ニ相背申儀相成不申候
御地頭様より御下知之義ハ何ニよらす相背申儀相成り不
申候なとヽ咄いたし遣申候扨又申聞候ハ苗木役所ヘ御願
候共相済可申哉申間敷候哉ニ候間御無用ニも被成ニ而候
其内御無用ニ被成候と申ニ而ハ無之候御勝手次第ニ可被成候
旨申聞候ヘハぎふ者申候ハ成ほと御尤ニ奉存候兼山之仁
右之訳ニ付ぎふ表江遣申候今廿三日ニ帰り申筈ニ候ゆへ罷
帰り候ハヽ御あいさつ之段申聞相談いたし又々御苦労
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申儀も可有之由申候扨廿三日迄間も御座無候間私
東ノ村之者方ヘあそびニ参可申由咄し罷帰り申候
一 同廿四日ニ兼山之仁罷帰り庄屋方彼者壱人参兼山薬
屋与次衛門よりふくおか道的方ヘ薬種あつらへられ候由持参仕
高山より便りニ遣くれ候様ニとことづて之由申候扨彼仁申候ハ
此間御あいさつ被成被下候由御苦労ニ存候左様ニ候へハ御村方
埒明不申義ニ候間御地頭様可申儀ニ候しかし此間向郡
二而弐本出来もはや壱本ニ而御座候是もいつれ二而出□
能々出来不申候ハヽ又々苗木江直ニ御願可申候此状
なくてハ埒明不申候ハヽ此状もらい参候而御願可申候間
其節ハ御世話ニ被成被下候様ニと申罷帰り申候
私ニ向とも埒明不申訳とかつてん仕三人三度に
にけ去りたき申者と見へたり十八日兼山之者参候而
申候ハ御村方ニ而御相談相成不申候ヘハ苗木表へ直ニ御願申上
是ニ而も相済不申候へハ被 仰付候御方へ其旨御届申上
候へば私共役相立申候なとヽかさ成義申候得共村
役人得心不仕候実の者とハ相見へ不申候
[右伊左衛門 ニ聞申候]京都町人御出入之者江被 仰付家内五人之者きふ材木
屋取持ニ而家をかり住居仕い申候而所々江人出し相尋申候由
ぎふ之人と申ハ実ハ同国つぼ一チ柳と申所紋八と申者之由
兼山之人山口藤九郎甥二而忠兵衛と申者之由
向郡東の村浅右衛門と申者苗木新田金平殿御内方兄之由
右八尺廻り長四間之木四つ割ニして少しつヽ付川下ししてぎ
ふよりりうきう包ニしておか持二而参四寸五分之柱四方まさ
の柱ニ成申候由咄申候其後不通ニさたなし大方たはかり者となり申候
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○福岡より御奉行衆荷物次候訳之事
一 宝暦十三癸未五月廿三日白口藤五ケ坂下之分前々之通
蛭川村ニおゐて御改御座候ニ付御奉行衆桃井瀧右衛門殿
下御目付ニ曾我九郎次殿犬地村へ右御改ニ岩嶋九左衛門殿
下御目付ニ佐々木半内殿五月廿四日ニ御改被成候筈ニ付
廿三日御越可被成候由馬次御触日々野高山蛭川参申候
処雨天故知原川出水仕候人馬知原江差置置候処
川越不申其日ハ中々越申間敷旨ニ付黒瀬出舟
并ニ佐渡り小熊之白藤御渡し之日限相定り
い申儀ニ御座候ヘハ御急キ被成候ニ付右御奉行衆
ふくおかひろセヘ御廻り被成御荷物福岡人足ニ而高
山迄参申候先年より次不申事ニ御座候故次申間
敷と申事ニ候処御奉行衆被 仰候ハ尤之事ニ候
得共此度之義ハ御急御用ニ候間我等共頼ニ候間見申
候ヘハ知原へ馬も出い申候水さへ越候ヘハ知原ニ而次申
事ニ候へ共出水故無拠ふくおか臨時之人足ニ候間次キ
くれ候様ニと達而御頼被成候庄屋申上候ハ至極御尤之
儀ニ御さ候へ共重而之例ニも相成申物ニ御座候高山ニ御用
無之御衆之御荷物ハ次不申候様ニ先年御願申上
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願乃通ニ被 仰付高山役人共御礼迄申上相済い申候
事ニ御座候間得次不申段申上候ヘハ成ほと尤之事
承及い申候事ニ候しかしなから重而之例ニ相成
不申段ハ御役所表へも申上可置候殊ニ此藤之義ハ
高山よりも出候藤も有之事ニ候ヘハ高山之御用も懸り
い申事ニ候重而例ニハ堅く相成不申候様ニ御
役所江申上置可申候左候ヘハ重而之例ニハ相成
不申候間次くれ候様ニとの達而御頼ニ付日限相定
い申候事殊ニ此度之白口藤御大切之 公用之
義ニ御座候ゆへ無是ひ次申候重而例ニ相成不
申候様ニ御目附衆より急度被 仰上置被下候様ニと
堅く申上置候故重而之例ニハ相成不申事ニ候万一
福岡より重而其儀申候ハヽ御奉行衆よりも御あいさつ
被成被下候様ニと申上置候以上
○御役替之事
一 宝暦十三癸未八月廿二日宗門御奉行陶山次郎左衛門殿
跡(アト)役東左内殿江被 仰付之候御触通ル東新五左衛門殿御子息也
鉄炮役陶山次郎左衛門殿兼帯二而諸役安田造酒右衛門殿江
被 仰付之御触通ル次郎左衛門殿ハ御物頭役被 仰付
之候由御触通ル
未八月廿三日夜五ツ下刻受取之
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○未ノ九月朔日日しよくの事
一 宝暦十三癸未九月朔日朝六ッ九分頃より
五ッ頭迄日しよく五分余西南の間より
懸ル暦に者不出不書也暦師のふ
調法か又は天変なるべし
○福岡なつやけ樋木願之事
一 ふくおか村なつやけ樋木高山預り城か根山ニ而願候由ニ付
ふくおか庄屋仲右衛門より来状証文箱之内ヘ入置申候其
下書
一 筆致啓上候其後ハ御物遠ニ罷過候御家内弥御堅固ニ
可成御座珍重奉存候然ハ先頃ハ御念頭御使札忝奉
存候御代官様御げた当村ニ取落小使之者吟味仕候
処[宗門 御改]之後山方へ賄ニ参候而余奥深江取廻置早速
相見へ不申候其後為持遣御断申上候左様ニ思召可被下候
此段早速可申進候処御無沙汰仕候且又当村夏やけ
井水樋木損し申候ニ付其御村預り之城かね御山
之内二而奉願上候処被 仰付之追付御見分も可有之候
と奉存候依之御案内申上候兼而左様ニ思召可被下右申上
度如此ニ御座候恐惶謹言
宝暦十四甲申 西尾仲右衛門
三月廿五日
後藤吉右衛門様
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右之樋木宝暦十四甲申四月十三日御山奉行新田金平殿
御改ニ御出高山江御立寄与頭七左衛門御供いたし山江御出被成候
其節城かね山訳ヶ申上ふくおかより之御手紙御覧ニ入置申候
右御請書之事
御請書之事
一 松本木拾七本
目通二而三尺廻りより四尺廻り迄
右之通城か根御立山之内ニ而御木口印入夏焼
井水樋木尓御渡し被下候所相違無御座候以上
福岡村組頭願主
善左衛門印
申四月十三日 同村庄屋同断
仲右衛門印
高山村組頭
七左衛門印
同村庄屋
吉右衛門印
新田金平殿
右之通二而御座候以上
○中ノ方村中切百姓四十九人村どうし薪山之出入ニ付
御願申上候とて不残出かけ候を知原二而留戻し候事
一 宝暦十四甲申四月七日早天ニ中ノ方庄屋治右衛門より五人与頭を以申
越候ハ中ノ方中切百姓願之筋有之由ニ而不残苗木へ参候五ツ頃ニ宿ヲ
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出申候筈ニ候間御留メ被下候様ニと申越候ニ付七日九ツ時分ニ与頭又兵衛外ニ
伊左衛門曽七召つれ罷出い申候[七左衛門ハ 他出]処七ツ頃ニ蛭川庄屋九郎八与頭作兵衛
参被申候ハ中ノ方者通り候筈ニ候故留メくれ候様ニと中ノ方庄屋より
被申越候ニ付見合い申候処中切百姓おかさきへのほり被申候よし
承候故大方けろくほ通りて被参と存下道へ出かけ申候処通り仕廻
之所ニ出会いづれもいろくと申し留メ申候得共中々セういん不
仕候ニ付先達而参候由被申候又姫栗村庄屋幸助子息けろくほ村
与頭定右衛門[庄屋平三郎ハ 江戸米上のり参候由]右いつれも留メ申候得共中々聞届無之由ニ付
先へ立参候由被申候知原二而相談いたし此道を通り可申候水ふとく
御座候而はしも無之故三本松ハ越申候得共達者成者も有之候故
引まとい渡り川ニ而も仕候ハヽ越可申候間三本松へひめくり庄や
蛭川作兵衛高山又兵衛遣申候知原ニハ吉右衛門九郎八伊左衛門曽七
居申候処半(ママ)つ半頃ニ中ノ方者参申候処いろくと申留□□□
少もセういん不仕通り候ニ付日々野村庄屋西尾安左衛門より町庄屋仲右衛門
なミ松ニ被居候ニ付先達而人遣申候[尤日比野村庄屋早朝ニしらセ 町へも日比野より内々ニ而被申遣候]
右百姓川を越新道ひの木の元ニ留まりい申候ニ□□□
くも参いろく申候処へ中ノ方役人衆苗木より被参[中ノ方村 役人衆]
[先達而早天ニ 苗木被参候]吉右衛門申候ハとかくそれくも被帰候様ニ可被致候しさいわ
殿様御城着前之事ニ候御城着ハ上ニも御祝ひ被遊われくごと
きの者迄御祝儀申上候事ニ御座候殊他江聞へ候而者
御上之御くわいふんも不宜候願等之儀者弐三人参御願申上候
而御聞届ヶ有之事ニ候所道々之村々もさわがセ其上聞
届ヶ不申苗木江入込候而ハ殊之外とがにおち候事ニ候殊に
ととうかましき事一とうの御法度之事ニ候間御しかり
有之事今見ル様二候たとへ十分之利有之といふとも
利ハきへて御とかめのミ二而其元方之為ニハ甚不宜
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事ニ相成申候又是より被帰候へハ無拠知原迄参候共村々
庄屋共助言を聞届帰り候と相聞へハ 御上ニもしゆセう
ニも被思召事ニ候とり合セ之事ハ能様ニ可申上候間
我等共申ニしたかい被帰尤ニ候ヶ様ニ申候へハおかしき事ニ候へ共
其元方ハ遠方村之義ニ候へハ 公儀之訳ヶハ御存無之事ニ
此方之義ハ近辺ニ候故大がい訳ヶも存居申事ニ候ゆへ
ヶ様ニ留メ申候ヶ様ニ申も其元方之為を存ヶ様ニ申候事
ニ候と達而申候然処ニ日々野庄屋西尾安左衛門町庄屋作右衛門なミ松ニ
居被申候故先達而人遣候得ば此両人も見へ申候ニ付□□衆も
私申候通りニ被申聞候中ノ方役人も段々ととめられ候ニ付
中切百姓中被申候ハ各々様方被 仰御尤ニ奉存候しかし
大勢之者之義ニ候へば口々成者ニ御座候へハ少きぼ無之候てハ
帰るましく由申候間御了管被成御らん被下様と□□□
者申候時ニ道筋之庄屋中申候ハ成ほと左も候ハヽ
我等共儀ハ立被帰候儀ニきぼと申儀得致之不申□
其元方とたう之様子ニ相聞候てハ其元方の為に
不相成とかく御帰候方可然と存留メ申儀ニ而候併
其元方之願之義其御村之御役人中何分宜敷
取次御願被遣候様ニ可被成候中切之衆も存念之願致し
もらわれ候様ニと申候中ノ方役人中も成ほと取次
可申由被申候是をきぼとして被帰候様可被致候
御取合セ之事ハ宜敷取成し可申候此上何れも
得心ニ無之候へハ致方も無之候故勝手次第ニ被致候
様ニ申候へハ皆々得心二而向知原より帰り申候夫ニ付
町作右衛門日々野安左衛門蛭川九郎八姫栗庄屋けろくぼ
与頭定右衛門高山より与頭又兵衛井沢孫兵衛様并に
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藤田政七様曽我八郎様へ御届ヶ申上何れ帰り
被申候藤田氏ハ五ヶ坂下蛭川曽我氏ハ地廻り御代官也
井沢氏ハ中通り南方御代官故不残参夫より手前くの
御代官様へ届ヶ罷帰リ申候翌日礼として中ノ方庄屋
与頭衆苗木より帰かけに被立寄候蛭川けろくほ姫くりの
役人衆も翌日立寄被申候
一 申ノ四月十九日夕方中ノ方中切与頭喜兵衛庄屋より使として
被参被申候ハ兼而御世話ニ預り候一儀ニ付明早朝ニ召呼れ
候ニ付今日雨天ニ成候間水のほと無心元奉存候ニ付
今日向知原へ越申所へ苗木へ大勢之者今晩参候ハヽ
きのとくニ奉存候間宿被仰付被下候様ニと庄屋より申越候
ニ付七左衛門方へ定使遣七左衛門方又八方ニ泊り翌早朝ニ
苗木江被参候由ニ候苗木御城懸り二而御吟味被成
候由二而四月廿日早朝より中切之者とう取と見へ候者
五人を五度ニ御よひ被成残之者ハ三度ニわけ御聞被成候
よし上切下切之者も五人与頭并ニ百姓代一両人ツヽ
御よひ御聞被成候由ニ候 御役人様被 仰候ハ先庄屋
致置候を相守不申殊ニ百姓大勢参候儀上を不
軽不届千万之由とう取可有之旨申候様ニと堅く
御吟味有之中切百姓之内半十郎八十吉喜左衛門
圓八郎庄兵衛右五人之者大方とう取之様子ニ成候而
庄屋元よりへいもん申付候様ニと御代官より被 仰渡則
へもん仕居申候由併時分柄故番ハ付不申候由承候
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申四月十九日ニ向知原ニ泊り廿日ニ 御城江召呼れ廿一日ニも御召
廿二日夕方ニ皆々罷帰り申候由ニ候上切与頭八郎治高山へ
先日之礼とて立寄被申候
一 六月廿一日ニ中ノ方村へ御目付西尾圓右衛門殿御代官井沢
孫兵衛殿下目付服部孫右衛門殿山方新田金平殿
御足軽四人御中間三人御出百姓不残御よひ水
呑之者御しかり被成候百姓之山ハ有之候得共田地無之者
何れニ山有之候てくしを仕候哉不届千万と殊之外
御しかり被成候由其外之者御しかり其上[中切 五人与頭]
両人へいもん被 仰付とう取五人之者殊之外御にく
しミ懸り青竹十文字釘付之へもん被 仰付候
かしや仁右衛門いんきやうの身として願状等書候
段不届之由二而是もへいもん被 仰付候よし同廿二日ニ
苗木江御帰り被成候六月廿六日御下目付曽我九郎次殿
御中間壱人御出五人与頭両人へいもん御免被成候由也
一 申七月三日に御目付小栗佐市殿御代官ハ井沢孫兵衛殿御引被成候ニ付
御名代ニ岩井庄助殿下御目付服部孫右衛門殿御組之衆両人御中間両人御出
右へいもん御免之つもりニ被出被成候処右へいもん之者之内三人さかやきすり
申候ニ付三人之者ハ御免不被成苗木へ御うかゝい被成候処七月四日夕方ニ御下目
付曽我九郎次殿御組之衆両人御中間壱人御出被成候右月代仕候者三人
殊之外御しかり之上田地家迄御取上ヶ三人之者一代之間手前屋敷
の外人之方出入罷成不申由被仰付七月五日之朝三人之者共子共を
御召被成家田地子共江被下置御免被成候一埒キ七月五日四ツ半頃ニ
中ノ方村御立二而御上下十一人之衆中苗木江御帰り被成候以上
右月代そり候者三人八十吉喜左衛門圓八此三人也
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○殿様御縁組御願相済候事 并御城着之事
殿様御縁組之儀先達而 御願被 仰上候所ニ
去ル四月四日 御願之通首尾好被為蒙 仰之候旨
奉恐悦候依之時節柄ニ候間勝手次第御台所迄
罷出御祝儀可申上候以上 小池定左衛門
申四月廿五日 東方只右衛門
御領内村々江
右御祝儀申ノ四月廿九日ニ庄屋与頭御祝儀申上候上ヶ物なし
一 殿様江戸より 御城着申ノ四月廿九日八ツ半頃尓
御着被遊候天気能奉恐悦候右御祝儀として時節
柄ニ候間勝手次第御台所迄村々庄屋与頭御被官
長百姓神明神主参上仕候様ニと御座候献上物上ヶ
候ニ不及候由御触有之候御台所(たい所)御帳面ニ付罷帰り申候
御屋敷様へも相勤申候 小池定左衛門
申ノ四月[晦日 五月一日ニ着]之御触 東方只右衛門
高山村より五月二日ニ可参処出水ニ付三日ニ庄屋代儀助与頭又兵衛すおろし
政二郎知原文吉参上仕候
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一 中原惣右衛門殿今度於江戸御家老職被
仰付候旨御触有之候
御触 小池定左衛門
申ノ四月晦日 東方只右衛門
○年号改元之事
宝暦十四申六月改元
一 申六月十三日年号改元 明和元年与
被 仰出之江戸表より被 仰下候旨申六月廿日
御触状御差出被成高山村へ廿一日夕ニ着
申六月廿日 小池定左衛門
東方只右衛門
○南宮鳥居天神鳥居修覆之事
一 明和元年甲申八月南宮居垣の鳥居立直し申候大鳥居
ちご柱かへ上ぶき仕候天神社当春雨ニ朽木ころび居垣
社そんし申候ニ付社けた壱本かへむな樋かへ居垣直し鳥居
立直し申候御願申上南宮森二而ひの木目通り五尺弐寸
廻り之木壱本天神宮二而木目通り四尺弐寸廻り壱本四尺三寸廻り
壱本桧木本木三本御願相済候八月十一日山内傳右衛門殿御出
御見分相済御請書上ヶ申候八月十二日ニ為伐八月十三日手斧
初いたし申候右大工入札ニいたし高山作十郎落札三分九厘ニ
落申候飯米木引共ニ札之内也人足手間と釘村より出申候
木挽圓助大工兵左衛門作十頼テ入申候
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○日三ツ上ル事
一 明和元甲申前の十二月十五日朝五ッ半時より四ッの上刻迄日りん
三たい上ル西の方高し東ノ方下シ東ノ方の
日りん五ツ六分頃ニはけ侯ヘハ大わもはけ申候
又しはらく立又見ゆる大わ迄
見ゆる四ツ上刻頃ニ西東の
日りんきへ申侯きゆるニしたかい
赤し青しと見へ候ヘハ直二きへ
申侯此年閏十申候此年閏十二月有り去未ノ
九月一日暦に九月一日暦尓無之日しゆく有り
五分余懸ル 五分余進ル
一 明和元甲申前ノ十二月十七日勢州山田町三千軒ほとやけ申候
桧垣神久珠倉太夫を初メ御師達大方やけ申候由
一 小池定左衛門殿御郡奉行役勤方不宜候ニ付御免被 仰出候由
御触来ル明和元甲申十二月廿四日東方唯右衛門殿より之御触なり
宝暦十二午年六月十八日ニ郡御奉行役被仰付三年目ニ御免被成候
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○苗木町火事之事
一 明和元甲申閏十二月十七日夜[亥ノ刻 四つ頃]苗木町[なミや 作十郎]うらの
小家弐軒薪すミ藁等入候家也やけ申候風もなく少の風
西風ニ成本家へハうつり申候早速けし申候高山まとい
[てうちん幸八持 まとい清吾持]右出情早々かけ付申候ニ付一番ニ成御役人衆
御ほうひの御口上御座候郡奉行衆御代官衆御請被成候由
郡御奉行ハ東方唯右衛門様五ケ御代官藤田政七様町ハ曾我八郎様
南方中通井沢孫兵衛様北方岩井正助様高山庄屋吉衛門与頭[七左衛門 又兵衛]
此度ニ而苗木近所火事三度ニ及初セ戸うら壱軒やけ申候
当年迄三十四五年ニ成ル二度めニ新町市助うらの隠居や三度め北谷
水野甫てつ殿御屋敷四度め並松御屋敷やけ申候
巣おろし政二郎役御免跡役兵次勤候事
一 巣おろし政二郎病身ニ付山役相勤り不申候ニ付御断申上
候得ば跡役相定候様ニと有之村中入札ニ而兵次郎へ札落
申候ニ付山奉行衆ヘ申上相定申候酉正月十一日二札寄セ開キ
正月廿五日ニ申渡候同廿八日ニ為御目見ヘ山奉行[山内傳右衛門 殿新田金平殿]右
御両人江先役与助同道ニ而参申候山番大切ニ相勤候様ニ
申渡ス明和二乙酉正月廿五日
但先役与助宝暦二壬申四月十九日御断之願状上ケ申候前以御
断申上候処跡役定候様ニと有之四月十三日二村中入札ニ而落
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申候山奉行市岡新兵衛殿御壱人之節也御相役孫右衛門殿御役御免ニ而
跡役立不申候間之事ニ候与助先役も御断申上候ニ付何代ほと
勤候哉書上ケ候様ニと有之書上ケ申候元久右衛門と[申者より 子より]武平政二郎と
両家へわかれ武平五代政二郎六代ニ成申候いさいわ六印下書帳ニ
有之候 以上
○又作子共三人帳除之事
一 高山村勇吉組下茂八郎帳内[兄 権蔵][弟 仁九郎][妹 きく]右三人之者共
常々我まゝ者二而不宜事有之諸一門共より異見仕候得共相用ひ不申
あまづさへ左候ハヽ宗門帳はづ可被申なとゝ申もハヽ方へも久々
出入も不仕不通ニ相勤不申勿論諸役人之方へも相勤不申頭ノ
銭も不出久々年々茂八わまへ申候由去年迄奉公仕去年者
仁九郎苗木野村新吉方ニ奉公仕い申候処何之子細も無之ニ出本
いたし兄権蔵請合之由新吉より申被遣候共取やい不申候よしニ付庄屋へ
御状参候ニ付茂八郎へ申渡候処右権蔵ふくおか喜惣方ニ奉公仕い申候故
茂八郎参[いろ/\ 口上有之由]茂八申候ハ御同道いたし新吉殿方へ可参候よし
申候へハ成ほとひる時分ニ貴宅へ可参間まちくれ候様ニと申だまし
権蔵も出本いたし致方無之候ニ付茂八郎計り参いろく断
申候得共聞届無之故組中相談之上二而勇吉作十郎両度ツヽ
参断候得共聞届不被申候ニ付無是ひ戻り給分なと茂八わまへ
一門共よりも少々つゝ出しやうく埒明申候[いさいわ作十 勇能存候事也]右仁九郎人代に
きくを越候様ニとの事故此きく中津川きくやニい申候ニ付与助参候得共
是も埒明不申候[いさいわ 与助存候]由権蔵仁九郎常々申事も不用
あまつさへそうごん申事ニ候殊ニこんきうの茂八大分そん
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仕い申候殊ニ相尋申候得共相知不申いつ方ニ而何様之事仕出申も
不存候故とかく宗門御はづし被下候様と去年より段々願申候へ共
一門共も有之間とくと相談いたし一門共之内ニも帳面かし申者も
可有之候間相談之上願候様ニと申渡候ニ付一門共打寄相談仕
候得共たれ先ニ申候と申者も無之右三人祖父ふくおか惣八郎なと
有所聞届向辺ニ居申候由参候へいつれ共相談いたし見可申候
由と三人之方折々申遣候得共不通ニあいさつも不仕年礼等ニも
つら出し不仕あきれ申候由一門共一とうニ帳はづし及願申候
ニ付酉正月廿八日惣一門[九十大五郎忠六 惣八小左衛門茂八]右庄屋へよひよセ相尋申
候所常々不埒者二而一門共異見申候得共相用ひ不申候其上茂八
方不埒段々有之間一家共不残見限り果申候間宗門帳御は
づし被下候様ニと一たうニ願申候ニ付無拠宗門はつし申頼差上申候
一門共より一札取之置申候下書左ニ記
差出申一札之事
一 高山村勇吉組下茂八郎[帳内 ニ付出置申候]権蔵仁九郎きく右三人之者
共常々不埒者之義ニ御座候間諸一門共より異見段々仕候得共
相用ひ不申候ニ付見限り果申候其上頭懸り之出銭抔も
出不申[年々之帳元わまへ申候 去年迄]奉公仕居申候処何之子細無之ニ出本仕候二而
所々相尋申候得共有所相知不申候ニ付戻り給金等帳元より
わまへ甚貧者之茂八郎義ニ御座候故及迷惑申候右不
埒者之義ニ御座候間宗門帳御はづし被下候様ニ奉願上候
以上
高山村右三人帳元
願主茂八郎印
酉ノ正月 右同村右三人伯父
坂下村忠六郎印
右同村三人従弟
55 画像(翻刻付)
半四郎改
九十郎印
右三人従弟
忠五郎印
高山村
与頭 又兵衛殿 右三人祖父
福岡村惣八郎印
右三人従弟ちかい
同断 七左衛門殿 小左衛門印
庄屋 吉右衛門殿 右同村五人与頭
勇吉印
右此一札書付願状ニ差添差上申候願状下書左ニ記
奉願上候御事
一 高山村勇吉組下茂八郎帳内ニ付置申候権蔵仁九郎
きく右三人之者共常々不埒者ニ御座候ニ付諸一門共段々
異見仕候得共相用ひ不申候ニ付見限果申候依之宗門帳面
附はづし申度奉願上候右之通被
仰付被下置候ハヽ難有仕合ニ奉存候以上 高山村帳元
茂八郎
右同村五人組与頭
酉ノ二月朔日 勇吉
高山村与頭
又兵衛
右同村与頭
七左衛門
右同村庄屋
吉右衛門
藤田政七様
右之通一門共一札相添又与頭七左衛門為持差上申候
明和二乙酉二月二日記之
右之願願之通ニ被 仰付候由酉二月八日ニ御代官様より被 仰下候別御手
紙此内ニ有り諸一門より取候一札御戻し不被成候御上ニ有之候
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○小十郎相果申候ニ付判つぶし願ニ付帳内之者之事
一 太次右衛門組下小十郎相果申候ニ付外ニ判頭ニ立候者無之故
判潰ニ願申候ニ付右帳内たつ儀長藏母ニ候故長蔵帳内ニ
為付申候右帳内ニい申候浅二郎儀要八と申者之子ニて
半六為ニハおいニ而候故半六帳ニ付候様ニと申候得共不埒成
要八子ニ而山方へ懸りい申候得共出入も不仕常々不埒者
ニ御座候故得付不申由申候右半六家株ハ伊左衛門家
株ニ付伊左衛門も為付不申由六ケ敷申候五人与頭太次衛門尓
申付久須見村ニ母も有之候間是へ成共相頼付申様ニ
可致候後日ニうらミも申者ニ候と申徳右衛門参申候
処成ほと引取付可申候得共事急ニ候間当暮まて
高山ニ付置くれ候様ニと申ニ付伊左衛門より一札仕是ニ判さセ
参候様ニと徳右衛門を遣候へハ判おし遣申候[此一札伊左衛門□□あて 名役人半六伊左衛門也]
半六帳内ニ付可申候処又々半六ニ為付候事成不申よし
伊左衛門申候ニ付役人申候ハ他村より証文も取付可申と申
又付不申段とハ不得其意候証文之通当年中ニ久須見へ
引取候ハヽ其通り若当暮ニ至引取不申候ハヽ当暮ニ至
帳面はづし願候様ニ可致候夫迄ハ為付置申候様ニと申渡
為付置申候右久すミより之一札失ひ不申候様ニと伊左衛門に
預ケ置申候立合与頭七左衛門五人与頭太次衛門金兵衛彦市
明和二乙酉年二月二日
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右之義尤御代官様へ御内談得候而右之通ニ候以上
○利平次相果申候ニ付帳内之者之事
一 高山村太次衛門組下利平次相果申候ニ付右帳内之者共
女両人一門共之内ニ付置申候様ニと五人与頭太次右衛門ニ申渡し
候所いとこ金兵衛申候ハ私儀ハしも忰吉二郎儀無拠ニ付
前以付置申候処去未年高井五郎左衛門殿ニ吉二郎奉公仕い申候
私帳内之義ニ候故請合置申候処しくじり申候而段々御断申上
戻り給金差上可申候と断候得共御聞届無之無是ひ私
参相勤申候故宿之作方得ミけじ不仕夫故つぶれ
申候間吉二郎さへ御断申上私帳ニ付申事得不仕
存寄ニ御さ候故此度之儀御断申上候由断申候是ハ尤之事ニ候
故相談相手ニ拵らへ付申様ニとハ役人より得不申候申候
利平次むこ
彦市申候ハ私義妻をめとり候迄之一家ニ候得共きく義
蛭川へ奉公ニ遣置候なからへい申候ハヽ願等も可致と申置候得共
彼方差つかへ有之由ニ付願差のべくれ候様ニと申候間右
利平次姉しも成共妹きく成共壱人ハ付置可申候殊ニ私義
田地ふくおか弥七へうり渡し家かふも借りい申候仕合ニ候へハ明日
ニも作人かへ被申候へハ私共ニ付所無之候仕合ニ候へ共壱人ハ
付置可申由申候是以尤ニ候然ハ伊左衛門惣二郎付申候様
ニと申候へ共両人共ニ得付不申由どこ迄出候共申上け
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仕得付不申由伊左衛門申候左候へハ村ニ而ハ埒明不申と見へ申候
ニ付酉二月朔日ニ与頭七左衛門を以御代官様へ申上候処彦市
金兵衛ハ尤之事ニ候伊左衛門惣二郎右両人之者之内ニ為付
申候様ニと有之候ニ付二月二日ニ五人与頭太次衛門金兵衛彦市
伊左衛門と七左衛門立会ニ而よび両人之内ニ而付申候様ニと申渡候処
伊左衛門申候ハ是ハ彦市被付尤ニ候利平次前申候ハ金子等も
彦市方へ預ケ置候利平次家財(さい)等も彦市方へ取込置候扨
利平次義ニ付以前相談も無之きく有村之節も相談無之
又いかたなともとい米皆彦市方へかきあつめ被申候よし
旁以前ニ毛頭相談と申事無之今と成不宜事計を
私へ取懸ケ候義ニ候故付申事相成不申候由申候ニ付
役人申候ハ彦市方へ利平次家財取込候哉と相尋申候処
左様ニ而ハ無之候金兵衛方ニも預り候品(シナ)々有之候私方へたまり樽
壱つ預り置申候まつたく家財取込不申候金子取入置候哉と
相尋申候処成ほと金子壱両三分預り置申候是ハ預ケ申度
由申候ニ付預り置申候いかたもとい米私世話ニ不仕候へハ世話ニ
仕者無之ニ付無拠せわいたし申候いかたまつたく私望ニ
無之事ニ候間いつれ成共し遣被下候様ニと申候然時ニハ家財
も取込不申金子も頼ニ付預り置いかたも無拠事ニ候へ者
彦市方へ取込申ニ而も無之候よしそれハそれ宗門之
事ニ外事ハ入不申事ニ候近親之事ニ候へハ伊左衛門方へ
付置候様ニ可致候夫共成不申候ハヽ成不申と可申候夫ニ付而
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其あいさつ御代官所へ可申上候旁不念之事ニ候由申候
伊左衛門申候ハ左候ハヽきくを一人付可申候間当壱ヶ年付可申由
伊左衛門申候役人申候ハ蛭川村差支相済申迄付置可申候
当暮ニ至て一ヶ年切ニ候なとゝ申候而ハ又六ケ敷候間差支
埒明申迄付置申候様ニと申付落着申候尤御代官様へ
ハ内談之上ニ而右之人数よひ申渡候御代官様被仰候ハ伊左衛門
付申利合ニ相定り候事ニ候しかし人ハさし遣不申候若
得付不申と申候ハヽ早々此方へ可申越候急度可申付候由
二月一日ニ与頭七左衛門ニ申来候以上
明和二乙酉二月二日
○福岡村松嶋橋大木高山村城ケ根山ニ而被下置
御見分之事
一 明和二乙酉三月ふくおか村松嶋橋大木高山村御預り
城か根山ニ而奉願上候由ニ付三月十五日山御奉行山内
傳右衛門様御出御改被成元木弐本御渡被成候高山村より
与頭又兵衛遣申候夫より御奉行様高山知原桴木を
奉願上やふれこやと申所ニ而椹本木七本御渡被下候
則此下書ハ下書帳十印之帳ニ有り右橋木下書
橋大木請書之事
60 画像(翻刻付)
一松四尺五寸廻り 元木弐本
但し六間
右ハ福岡村松嶋橋大木城か根御立山之内ニ而御口印
入御渡シ被下候所相違無御座候以
福岡村組頭願主
明和二乙酉年三月十五日 善左衛門印
右同村庄屋同断
仲右衛門印
高山村与頭
又兵衛 印
同村庄屋
吉右衛門印
山内傳右衛門殿
但宝暦十四申三月ふくおかなつやけとい木願之節ふくおか庄や
仲右衛門方より高山庄屋へ案内之手紙ニ其御村御預り城かね
山ニ而とい木申請候間御立合被下候様ニと申越候則此手紙証文
かわごの内ニ包上書して入置候則仲右衛門手ニ而書被遣候以上
御山之内のた場ニ而ひば皮はぎ申候事
一 明和二乙酉三月十五日之夜ひは皮五十本はき申候而十六日巣おろし
兵次より夕方ニ届ケ申候ニ付役人寄合相談仕とやかく申内ニ夜
ニ入申候ニ付十七日ニ与頭七左衛門巣おろし兵次両人を御届ケ遣申候
あわや江内々ニ而相談仕申上方共ニ相定山奉行衆御代官様へ
申上候所木数能々相改其上以書付御届ケ之書付上候様ニ
61 画像(翻刻付)
被 仰下候ニ付与頭又兵衛巣おろし兵次山へ差遣相改よセ申候
一弐尺廻り壱本 | 一壱尺廻り壱本 | 一壱尺七寸廻壱本 | 一壱尺弐寸廻一本 |
一壱尺五寸廻壱本 | 一弐尺六寸廻壱本 | 一壱尺五寸廻一本 | |
一壱尺廻壱本 | 一壱尺四寸廻壱本 | 一壱尺弐寸廻弐本 | 一壱尺廻壱本 |
一三尺廻壱本 | 一壱尺五寸廻壱本 | 一壱尺壱寸廻壱本 | 一弐尺廻一本 |
一壱尺五寸廻壱本 | 一壱尺五寸廻壱本 | 一壱尺六寸廻壱本 | 一弐尺五寸廻壱本 |
一壱尺廻壱本 | 一壱尺五寸廻壱本 | 一壱尺廻壱本 | 一一尺五寸廻壱本 |
一壱尺七寸廻壱本 | 一壱尺五寸廻壱本 | 一壱尺三寸廻三本 | 一七寸廻壱本 |
一壱尺三寸廻壱本 | 一壱尺三寸廻壱本 | 一壱尺八寸廻壱本 | 一弐尺三寸廻壱本 |
一壱尺四寸廻弐本 | 一壱尺七寸廻壱本 | 一壱尺九寸壱本 | 一壱尺五寸廻弐本 |
一壱尺五寸廻壱本 | 一壱尺七寸廻壱本 | 一壱尺四寸弐本 | 一壱尺五寸廻壱本 |
一壱尺七寸廻壱本 | 一壱尺三寸廻三本 | 一壱尺廻壱本 | 一壱尺弐寸廻壱本 |
一壱尺五寸廻壱本 | 一壱尺廻壱本 |
〆五十四本酉三月十七日ニ改よセ書上ケ申候書上ニハいさいニ
ハ書上不申候下書左ニ記
御届ケ申上候御事
一 桧葉 弐尺廻位より七寸廻位迄之木 数五拾四本
右ハ高山村御預り御山之内のた場と申所ニ而三月
十五日之夜ひば皮はぎ取申候ニ付相改御届ケ
申上候以上 高山村与頭
又兵衛
酉三月十七日 右同村与頭
七左衛門
右同村庄屋
吉右衛門
新田金平殿
山内傳右衛門殿
62 画像(翻刻付)
右之書付与頭七左衛門へ為持傳右衛門様へ上ケ申候酉三月十八日ニ村中
人別ニ呼寄壱人/\ニ口上書記帳面一冊拵又兵衛ニもたせ御代官様并
山奉行衆へ懸御目当村吟味如此ニ仕候間此趣被 仰上被下候様ニと申遣候
一 右ひは皮之義久々御さた無之酉六月十八日ニ御代官様より御状来り
明十九日与頭壱人差越候様ニと被仰下十九日ニ与頭又兵衛遣申候処右之
ひかわ吟味仕書付上候様ニと被仰付又々吟味仕候いさいわ
帳末ニ書記置候
[弥平 太郎右衛門]借金出入之事
一 高山村神田百姓太郎右衛門と申者田地相求わづかの年数之内ニ
借金五拾三両負明和元申暮ひしと行詰り跡へも先江も
不働体ニ罷成つふれ申候右太郎右衛門田地ハ十五両ニ而福岡三郎右衛門
求置候をもらい買主小林忠四郎ニ而売斯証文宛名忠四郎ニ而境杭
なとも忠四郎名ニして打置太郎右衛門ニ預ケ置長面太郎右衛門
名分ニ而相済申候右地代金十五両之内四両相済十一両福岡
弥七方ニ而忠四郎かり入置申候其外ニ金弐両与頭又兵衛受合ニ而
山内民助殿よりかり入申候右田地役人加判と申ハ是計ニ而御さ候
尤地ひち等ニ而かり入候も有之由ニ候得共役人加判ニ而ハ無之候
一 右之内ニ申ノ冬あきない金として忠四郎取次請合ニて
63 画像(翻刻付)
福岡村弥七方ニ而金八両借用内四両ハ家内諸道具ひち入ニ而
太郎右衛門かり四両ハ弥平地壱斗蒔書入ニ而野中ノ弥平かり申候
此金子之義出入ニ相成申候太郎右衛門義ハ手ニ及不申大借之事ニ
候故外なミ之事ニ候得共弥平儀ハ太郎右衛門なミニハ相成不申
候間取可申旨金主弥七より忠四郎を以さいそく有之候処
弥平申候ハ尤私ひち入仕加判仕候得共金子を手ニ取不申候
故ハ返進可申与も得不申候由弥七方江申遣候由折々
忠四郎を弥七より被遣仁左衛門なとも折々被遣候得共右之
あいさつニ而金子返進可申様ニハ不申候ニ付弥七より 公辺ニも
可仕旨高山役人方へ内々として仁左衛門被遣候ニ付役人寄合
相談之上年ふニ成共断出候而尤ニ候段与頭又兵衛ハ近親
之義ニ候故又兵衛方へよび又兵衛心得候様ニゐけん仕候様ニと
又兵衛ニ申ふくめ候ニ付其通りニいけん仕候得共中々
承引不仕由ニ候又ふくおかより仁左衛門ニ弥七より被申越候ハと
かく公辺ニ仕候而も私義ニ候へハきのとくニ奉存候間忠四郎弥平
太郎衛門兄之彦三郎右三人ニ而出候様ニ御取あつかい可被下候夫ニも
承引不仕候ハヽ是ひニ及不申候間 公辺ニ可仕候よし被申越候
兼而役人中内相談も取あつかい見可申と存い申候処ニ候へハ
四月九日ニ弥平忠四郎をよひ庄屋与頭立合之上
吟味仕口上承申候弥平申候ハ私義去秋太郎右衛門参申候ハ
去年もあきない金○もやいニふくおかニ而借り申候当年もかり申候而木紙かい
申間敷哉と申候私申候ハ当年之義ハわた打たセ旁ニ而入可申候
も不存候由申候処太郎衛門申候ハやくそく仕置候へハ入用之節間ニ
合申候間かり申候へと申候ニ付しかれハ世話ニいたしくれ候様ニと
頼置候処忠四郎を太郎衛門頼金子かり出被申候其節
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忠四郎金子私方へ持参被申候金子受取参候間受取申候様ニ
被申候故私申候ハ其金子入可申も入申間敷も相知不申候
木紙も段々下り口ニ候故若かり申義ニ候ハヽ太郎衛門よりかり可申候
間太郎衛門方へ相渡置可被成候と申候而金子少も受取不申候
右金子太郎衛門へハ頼申候得共忠四郎へハ相頼不申候尤私ハ
田地ひち入ニ仕手形ハ仕候得共金子ハ壱分も手ニ取不申候ゆへ
公辺ニ相成いか様ニ成候而も出申事得不仕候由申候夫ニ付
役人中取あつかいハ
一 忠四郎事請合殊ニ金子取次之身として先様より金子受取
参借り主弥平ニ相渡不申事不埒ニ候尤金子持参仕弥平
へ相渡可申と申候へ共其金子入可申も入間敷も不存候間太郎衛門
渡候様ニと申候由左候へハ左様ニけんじやく成金子取次申候事
不埒候金子主方へかへし申筈候且又弥平より忠四郎へ相頼
不申由申候借り主頼不申候金子世話仕候段も不埒之至候
右手ぬかし有之事故ケ様ニ相成申候取次請合之身として
金主より取出し借り主へ不渡候段致方尤無之候是ニよつて
役人共取あつかいニ候間右四両之金子元金ニ而四年ふニ壱両つゝ
三分一わまへ申候様ニと申渡候其夜ハ請不申候へ共翌十日朝
忠四郎参申候ハ夕へ御取あつかい之義御役人衆へ御了簡
相背不申畏申候併請人之わまへ出候事例ニも成申間敷
哉其段申上候様ニと与助作十申候と申候役人あいさつニわ
成ほと常体之請合之義ニ而たとへ取次金金主より受取借り主へ
渡候へハ請人ニハ懸り不申候へ共大切成金子先様より取出借り主
の手へ不渡候事ニ候殊ニけんじやく成事借り主申候をすて置候義
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殊之外成不調法有之候故常体之取次請合とハちかい此類
之義者いつニ而も此ふり合ニ候へハ不苦候由申候
一 弥平へ申渡候ハ大切成親より伝来之田地をひち入ニ仕大切成ル
印形仕手形入置候而たとへ金子手ニ取不申候而も先様より金子ハ
手形ニかへ金子出候上ハ其儀相立不申候殊ニ忠四郎金子を持
参いたし候入不申義ニ候ハヽ大切成ひち入仕置候ゆへハ其金子
当分入用ニも無之候間金子方へ返しくれられ候様ニと成共忠四郎
方ニ預り置くれ候様ニと成共可申筈之処太郎衛門へ渡置くれ候様ニと
申義手ニ受取候も同前之事ニ候其節手ぬけ候共其後
ニ成共金子方へか取次方へか私大切成ひち入いたし置候得共
金子ハかり不申候間其旨心得被居候様ニ成共可申筈之処
すて置ケ様之節ニ至て仰出不申とハ不埒之義と申候
是ニよつて取あつかい申候三分一を出し申候様ニ可致候由了簡
仕候弥平申候ハ今ばんニ而ハ得畏不申候ふんべつ仕追御あいさつ
可申由申其夜ハ罷帰り申候其後さた無之ニ付定使甚右衛門□□(ムシ)
度あいさつ可仕候様ニと申遣候処四月十五日夕方ニ弥平壱人参申候ハ早速
御あいさつ可申処延引仕懸御苦労申候御世話ニ被成候被下候義ニ候間
出し可申候間年ふ長くも出候様ニ奉頼上候と申候ニ付両頭中へも
あいさつ申候様ニと申渡候
一 彦三郎此者義三州之山方ニい申候故よひよセ十日ニ山より参申候ニ付
申渡候ハ忠四郎より弥平太郎衛門へ取次申候金子六ケ敷相成申候ニ付
此間弥平忠四郎よひ取あつかいいまた弥平よりハあいさつ無之候得共
ケ様ニ了簡いたし候其元之義太郎衛門と兄弟之義ニ候太郎衛門
外之人之かりぶん迄取金子つかい申義さりとハ不埒言悟同
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断之義候是等 公辺ニも相成候へハ太郎衛門何様之御とがニ成可申候
も不存候其兄弟ニ候へハ其元へもとばしり懸り可申も不存
太郎衛門とがニおち候ハヽふびん之事ニ候間彼是申わけの種
ニも成可申候間右四両四年ふ之三分一出申候而後日申分ケ
ニも仕候而可然候由申候へハ御役人衆御了簡之義ニ候故私
今日ニ至て至極なんき之私ニ候得共畏申候由申候ニ付然ハ両頭
衆之方へも参右之請之義申候様ニと申渡遣候
酉五月洪水之事
一 明和二酉五月七日より雨降り同十九日迄雨降十六日満水付知山ぬけ
川木流通り申候近年大水ニ而知原かやの木の本の麦田へ水押込申候
河合村なと木曽川満水ニ付下河合流申候百姓十三人田地流申候
流田地籾壱石七升蒔すな入之田地弐斗九升蒔〆壱石三斗六升蒔外ニ畑大
麦七升蒔右之通流申候ニ付御届ニ河合与頭平次郎参候処川越不申是より
矢文遣申候河合村百姓政助文左衛門浅衛門孫八甚蔵いへ宇右衛門傳助
義右衛門平三郎七三郎孫六新蔵右十三人也此傳助と申者麦はさ并田
畑不残流申候而時分より殊之外なんぎの由ニ候右流田地稲三百四十
弐束苅すな入地稲百三十八束苅之由御見分御願有之候右御見
分として御目付ニ桃井瀧右衛門様御勘定頭石原岡右衛門様平勘定ニ而
宮地新太郎様御代官井沢孫兵衛様御下目付ニ曽我九郎次殿高井兵右衛門殿
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御出被成候五月廿三日ニ御出廿六日頃迄被成御座候扨又白川辺江御出之衆
御目付ニ岩嶋九左衛門様御勘定ニ青山新五様地方ニ山内傳右衛門殿同日ニ御出被成候
一 右洪水ニ而黒瀬舟人町十七軒流舟十三船なかれ申候由近代之大
水之由申候右之水ニ而上地舟人屋水入かべ皆落申候 上地御殿の
縁下かべ皆おち 御殿江舟ニ而通ひ申候上地御門先田地入江ニ成大橋之
きぼうし少出い申候由 御城江御注進ニ養作もとより舟ニのり御門まて
参申候由知原川なとも近代ニ覚不申大水ニ而候しかし此辺ハ少も田地
なかれ不申候又おくど惣助と申者田畑四分之一残り其外なかれ
申候得共元来御年貢少分之所ゆへ御見分も御願不申上候由
蛭川ニ而十一軒畑少々つゝなかし申候者有之候得共願ハ不仕候よし
一 右大水之後いまた川越不申候内ニ五月廿日昼時分善光寺参り
乞食躰之者三人苗木之方より参若男壱人老人弐人川向ニ而
はたかニ成川渡り可申様子ニ相見へ馬の渡り上り平ばん有之所より
渡り懸り申候ニ付政吉太次衛門見付候而其川を渡り候へハ必流申候
間やめよ/\と大音上ケよばり申候得共少も聞不入若男
老人を手を引渡り懸り三分一ほと渡り懸り両人共ニころび申候
所若男ハなかれ老人両人ハほう/\ニ而上り申候近所ニ居合候者共
川両方付さくり見申候へ共死かい無之候右両人何方へ参候哉跡へもと
り申候よし下こぶち川原ニかさかゝりい申候処書付改申候へ共
国所無之同行四人と計り有之由ニ而右両人之者ニ向知原之者相尋
申候へ共三人ハ三所之者ニ而道中ニ而道つれニ候と計国ハかくし候而
はなし不申候よし
一 大田辺水入ニ成候由惣而尾州御領三万石ほと水入申候由ニ候木曽道
嶽沢と申所近所ぬけ通り人しはらく留り申候由ニ候
一 酉四月廿七日朝四つ頃計りニ福地村郷中江山より山の犬鹿を追
出子をつれ候鹿とり申候親を取り子も取り申候由此小鹿まへ足
四本有まへ足の付ねより頭弐つニわかれ頭弐つ有之鹿之由あと
足ハ常之通りあし弐本ニ而御座候由鹿弐つ共ニ犬取りくらい申候よし
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其外洪水信州辺高遠領弐千石流申候由すわ領弐万石
水そん仕候由すわ之池水さらへ大分水入成三里ほとさらへ申候
由池下池のどてきれ夫より下川かけきれ八重十文字ニ流入
大そんしのよし
○御山の内のたばひは皮はき御吟味之事
但し後御吟味也
一 明和二酉ノ三月十五日之夜御山之内のたばと申所ニ而ひば皮五十四本
はき申候ニ付相改吟味之上御届ケ申上はき候木数共書上ケ
申候所其後御さた無之処酉六月十八日御代官藤田政七様より
御状来り明十九日与頭壱人差越候様ニと申来ル[則御状此内ニ 入置申候]
十九日与頭又兵衛遣申候処当三月ひはかわはき候ニ付其節
念入吟味いたし書付等見セ候ニ付御上江申上候所又今度
御吟味被 仰付候随分念入とくと吟味仕候様ニ吟味致方
之義ハ不申渡候間村役人共工風(夫)仕残方なき様ニ吟味仕書付
を以申上候様ニと被 仰付候ニ付翌日村中十五才より六十才迄
之者庄屋元へよひよセ其留主江役人相廻り家内念人屋
さかし仕其上残り候女や子共をとらへいろ/\とい申候へ共
相知レ不申侯庄屋元ニ而ハ五人与頭庄屋吉右衛門立合当三月
之口上書ニ村方口上引合セ吟味仕候得共口上も無相違
相知レ不申候又其上其夜より翌日へ五人与頭方右之人数よセ
聞かすり見かすり等も無之候哉村方ニ不埒者有之候而ハ本人ハ不及
69 画像(翻刻付)
申達儀有之候間明十九日
与頭壱人可被差出候以上
藤田政七 印
酉
六月十八日
高山村
吉右衛門殿
70 画像(翻刻付)
口上之覚
今度木積沢一儀ニ付
其村役人中始段々
御肝いり之所昨日事
過半おちつき令安堵候
如何敷候得共酒二樽鯣十枚
遣之候近比軽少相届申
ましく候得とも此間
骨おり之面々末々まて
宜敷様に御振舞頼入候
以上
卯月十六日
なきより之御書付被遣候但し樽ニ添へ
71 画像(翻刻付)
申ニ一組中之難儀ニ可成候間無遠慮不包申上候様ニと段々両日
之吟味ニ候得共相知不申候ニ付吟味致方書上申候右家
さかし四組ニして弐人つゝ出村方庄屋元ニい申候内ニかへり申候、
大上より上かいと屋下くりや元東かいとはゞだ迄[与頭又兵衛 五人頭新助]野中セきやそとつぼあか
坂もゝくぼミやゝふより下切不残おこしまて[磯助 五人与儀左衛門]西がほらより八本木西切不残
神田迄[新九郎 五人与定吉]木つミ沢[与頭七左衛門代ニ八十 吉五人与頭太次衛門]右四組ニ仕さがし申候
口上之覚
酉三月十五日之夜御立山之内のた場と申所ニ而桧義等
皮はぎ取申御山番之者早速見出し直ニ御注進
之仕村中悉吟味仕候得共何方より仕候哉相知レ
不申候 今度 御吟味被為 仰付奉畏村
中十五才より六十歳迄之者共庄屋元江呼集村役人共
跡江相廻り面々之宿々一々吟味仕候得共まきらわしき
儀一切無御座候猶又女共子共江其頃家内之男共
其日ハ何を仕居申候哉惣而ひかわ之義ニ付及見
及聞候事有之候ハヽ不包申上候様ニときひしく相
尋申候得共及見及聞候儀曽而無御座候旨申候
又其上一組/\に集置申渡候ハ若外より相知候ハヽ
一組中の難儀ニ可相成候間無遠慮不包まきらわしき
72 画像(翻刻付)
儀及見及聞候事御座候ハヽ申上候様ニと堅く
友吟味ニ為仕候得共及見及聞候儀無御座候
由申候右之通随分念入吟味仕候処相違
無御座候以上 高山村与頭
又兵衛
酉六月廿一日 右同村同断
七左衛門
右同村庄屋
吉右衛門
藤田政七様
右之通書付御代官様へ上ル使儀助七左衛門今度ハ山奉行衆よりハ御さた
無之候得共右之書付傳右衛門殿へ懸御目いさい御咄申上置候
一 六月廿三日ニ御代官様より御状到来明廿四日朝五ツ時ニ
庄屋組頭壱人五人与頭壱人百性代壱人山はん壱人罷出
御城懸り江参候様ニと被仰下則庄屋代ニ儀助与頭又兵衛
五人与頭儀左衛門百姓代ニ定吉山ばん与助右五人罷出候
則御代官より之御状此内ニ入置候六月廿四日ニ 御城江被召
寄山中藤馬様東方只右衛門様御代官様下目付曽我九郎次右高山五人之
者江以書付被仰渡候趣 御書付写し左ニ相記ス
高山村庄屋与頭共江
其村預り御立山のた場ニ而三月十五日夜桧葉皮はき
候由夜中はき取候段相訴江候得共分明ニも不相聞
候畢竟平日申付方麁末故右体之儀出来
候哉ニ相聞候依之吟味之上急度可被
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仰付候得共今度御祝儀先キ之儀ニ付一統
御免被 仰出之候以来随分念入可申者也
酉六月
高山村百姓共江
其村預り御立山のた場ニ而三月十五日夜桧葉皮
はき候由相訴候夜中はき取候段申出候得共
証拠も無之畢竟廻り方麁末ニ付右躰之事も
出来候哉ニ相聞へ候依之吟味之上急度可被
仰付候得共今度御祝儀先キニ付一統御免
被 仰付之候以後急度相守可申候右はき
候桧葉致元伐知原渡場迄持出可申者也
酉六月
右之通御書ニ而被 仰付相済申候右伐取候木数五十四本
村ニ而伐渡場迄持出し山奉行衆へ相渡し其後御普請
方より小頭次平受取ニ被参相渡し遣申候此類之木ハ御普
請ニハ御つかい不被成候道なとの土留メ或ハはしの類ニ御遣ひ
被成候事ニ候由
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覚
庄屋
与頭壱人
百姓代壱人
山番壱人
右者御用之儀有之候間
明廿四日五つ時頃
御城掛へ可被罷出候以上
藤田政七 印
酉 六月廿三日
高山村
吉右衛門殿
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高山村音右衛門帳内さつ宗門帳はづし願之事
一 音右衛門帳内さつと申女ハ先年彼が母ハ苗木新町角平と申者之娘ニ而
今の平三郎姉也童女之節音右衛門親儀右衛門と申者子無之故やし
ない置毛呂窪村大工清九郎と申者之妻ニ遣其娘両人男子壱人有り
姉ハ市左衛門帳ニ付置後ニ曽兵衛妻ニくれ申候其妹音右衛門帳ニ付置申候其
弟ハ苗木町平三郎帳ニ付置申候此男子源八もやくニ不立ニ而何方へ参候哉
相知不申候由右之妹娘さつ儀音右衛門方ニい申候而ひまもらい木曽辺へ
参奉公仕所々しくじり申候ニ付去申ノ暮よひよセとかく此方ニ而奉公
仕候様ニ他領ニ而しくじり等有之ニ而ハ帳元一門へもなんきかゝり申候間□へ
此方居候へと一門共共ニいろ/\畢(異)見申候得共不用又々向辺へ罷帰り申候而当
春より大くての者之由男を拵方々かけ廻り母親中津川ニい申候故是ニ
しはらくい申候而是もしくじり夫より高山音衛門娘ニて候なとゝ申方々
さわたり申候而福地なと六郎右衛門と申者方よりも付届ケ有之
此男なんか者ニ而大くてとハ申候而も何方何者と相知不申者之由
ニ而人柄も不宜者之由此上何様之儀出来候茂不相知いろ/\いけん
申候而も相用ひ不申ニ付不及是ひ御断申上宗門はつし申候
夫ニ付諸一門共より一礼之口上書差出願状ニ相添御代官所へ上申候
下書左ニ記
差出申口上書之事
高山村市左衛門組下音右衛門帳内さつと申女常々不埒者ニ而
御座候故帳元并一門共段々畢(異)見仕候得共不通ニ相用ひ不申
其上帳元一類共方へ寄り附不申我がまゝ成者ニ而御座候
得ば以後何様成儀仕出可申も難計奉存候故諸
一家共不残見限申候間宗門帳面はづし申度奉存候
右之通御願被成可被下候以上 高山村さつ帳元
願主音右衛門
明和二酉六月
76 画像(翻刻付)
右此壱通御代官様御覧之上庄加元へ御かへし被成候前方 同村さつ姉むこ 曽兵衛
之一家口書ハ御かへし不被成候得共是計り御かへし被成候故 苗木町さつ伯父 平三郎
証文箱へ入置預り申候 同所さついとこ 新兵衛
高山村五人与頭 市左衛門
与頭
又兵衛殿
同断
七左衛門殿
庄屋
吉右衛門殿
奉願上候御事
一 高山村市左衛門組下音右衛門帳内さつと申女常々不埒
者ニ而御座候ニ付帳元并諸一門共段々畢(異)見仕候得共相
用ひ不申其上一家方江寄り付不申我がまゝ者ニ而
御座候故何様成儀仕出可申も難計諸一門共見限り
申候ニ付宗門帳面はづし申度奉願上候右之
通被為 仰付被下置候ハヽ難有仕合ニ奉存候以上
高山村願主帳元 音右衛門
酉六月 右同村さつ姉むこ 同断曽兵衛
右同村五人与頭 市左衛門
右同村与頭 又兵衛
右同村与頭 七左衛門
右同村庄屋 吉右衛門
藤田政七様
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上ケ綿之義ニ付御しかり之事
一 明和二酉七月廿二日綿上ケ定日被 仰付候村方いつとても七月十六日尓
相改村方より受取申候当年面々上之外請上ケ之分町八十助わた恒八より
上ケ坂下村商人わた伊左衛門より上ケ蛭川牧右衛門わた政八より上ケ候筈ニ役人之前政八
受合申候処折々世話やき申候得共油断仕其わた間ニ合不申候ニ付政八
同道ニ而町へ参さいかく仕候得共出来不申其日七左衛門より御断申上得上ケ不申候ニ付
殊之外御しかり有之候尤蛭川村牧右衛門請合候わた百廿匁不足之由申上候由
七左衛門罷帰其通り申候ニ付御断ニ庄屋可参処庄屋ハ風気ニ而罷有忰
蛭川へ見舞ニ参宿ニい不申候与頭又兵衛ハ用事有之よそへ参宿ニ居不申ニ付無
是ひしかられ参候七左衛門を又々御断ニ遣申候得共御聞不被成候ニ付吉右衛門
おして罷出申候廿四日明八ツニ宿を出御登城前ニ御金奉行熊沢条右衛門様市岡
柳右衛門様藤田文五郎様并ニ御代官藤田政七郎様へ右御断ニ罷出いろ/\と
御わひ申上御代官様御頼申上やう/\御城御わた蔵ニ而御断相立相済申候
被 仰渡候趣只今迄庄屋も立合相改不申候様ニ被成候不埒千万成事[ ](ヤブレ)
重而ハ庄屋方ニ而庄屋立合之上随分吟味仕[赤河わた上中 御見セ被成候]此通り成わた相改
上納可申候様ニと又はゞ少ちいさく候共ちうよきわたを上ケ可申候由被仰付候
中通り南方上ケ日之事ニ候へハ皆い申候蛭川庄屋九郎八高山吉右衛門参上仕候
右御断相済申候ニ付右之衆中様御代官様へ御礼相勤罷帰り申候両人一所ニ廻ル
上ケわたハ明廿四日北方受取候尻へ付受取可申候由被仰付候
一 七月廿四日 北方相済候て蛭川高山分[蛭川清兵へ 高山七左衛門]御受取被成候蛭川わた不残
数右衛門請合上候由清兵へニ御とい成ニ付申上候所一々中迄御改被成中へ悪敷
わた入有り候とて数右衛門致方殊之外不届ニ候由被仰此わた上候ハヽたとへ廿二日
ニ上候而も受取不申候左候へハ断申より外無之候此間日のみちかいニ付断申候故
もはやかへしも成不申候間受取可申候来年より数右衛門わた一はも受取
不申候間上さセ候事無用ニ候差上候ハヽ役人之不埒ニ候来年より坂下わた
とゝのへ上可申候かわち村之わた能候間是をとゝのへニケ村ほと申合かいニ
遣候ハヽ銭も多ハたちん入申間敷候間左様ニ可仕候諸事念入申候
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高山村七左衛門ニ被仰候ハ蛭川数右衛門わた出候様ニと有之ニ付[百廿匁 出申]候ヘハ御らん
被成扨々悪敷わたニ候手前わた之内ニ而おぞわたより悪敷御座候扨又数右衛門
申候ハ高山之わた請合不申由申候得共受合申候へハこそわたを数右衛門より
上ケ申候受合不申とハ数右衛門いつわりニ而重々不届者ニ御座候重而
数右衛門ニ一わも上さセ申間敷候万一かくし上候へハ役人不埒ニ候由被仰坂下
わた御らん被成是こそわたニ而候重而ハ坂下わたかい上ケ可申候かわち村わた
もやいかいニ遣上ケ可申候其外御念被入被仰渡相済申候
右之通相済申候重而よりハ庄屋元ニ而役人立合相改其日ニ一切相済候
様ニ取計ひ七月さし入より儀定申渡し受取日ニ相滞不申候様ニ
急度吟味仕只今迄之様ニぢたらく成義無之候様ニ可仕候様ニ
被仰渡候以上
明和二酉七月廿三日記 高山庄屋吉右衛門与頭七左衛門又兵衛
御郡奉行東方只右衛門様御壱人也 定文甚右衛門五人与頭義左衛門政二郎新助
定吉孫吉市左衛門太次右衛門
犬に病付候事御領内中犬御停止ニ成候事
一 明和二乙酉夏頃より犬ニ病付河上村ニ而山の犬ニ病付男女四人くらい
付申候犬ハ打殺申候くわれ候者不残相果申候黒川ニ而山の犬ニ
病イ付ばゝ壱人くらい申候是も犬ハ打殺申候中津川ニ而山の犬ニ
病付七人ニくらい付馬も三疋くらい申候人馬共ニ不残相果申候
坂下村ニ而山の犬ニ病付中付之商人ニ取てかゝり此者かうりき者ニ而
犬を組ふセ殺申候信州其外所々ニ而病犬有之人多なやミ
申候くわれ申候者ハ相果申候くわれ候きす早々いへ候て後
五十六十日過候てねつ病わつらい一年も立候而ねつ病相わつらい
犬のまねなと仕くるい死申候下海道辺ニ而も其通りニ候
後々ハ不珍はなしも無之ニ付相知レ不申候酉之秋ニ成候而里犬ニ
病ひ付高山ニ而も知原橋ニ而畑尻庄八と申商人中津川へ
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参候とて日々野村犬ニ出合くわれ申候而水野甫しゆん殿りやう
治請申候其日なしくほ常七と申者つと辺りニくい付申候
ニ付人数あつめおいかけ申候鉄砲池迄おいかけそれより山へはいり
成道寺へ帰り申候高山之者追参候処日々野者も大勢出合
かり立申候得共手ニ入不申候夫より苗木町おけや小三郎御足軽服部
小兵へ殿雲林之馬正岳院の家来雲林寺之なつ所其外
七八人ニもくらい付申候ニ付御上より御下知ニ而御足軽衆御中間
衆不残御出し町日々野百姓不残出三五日もかり立飼犬共不残
ころし申候 御隠居様御犬雲林寺犬迄不残殺申候
八月廿三日御領内中飼犬不残殺申候様ニと之御触左ニ記
覚
一 当年ハ犬病ニ付諸人及難儀候ニ付村々飼犬之義ハ不及申ニ
主無之犬ニ而も見合次第打殺可申候
一 猟師共持犬ニ而も打殺可申候
右之通急度被 仰付候間早々打殺候様ニと可被申渡候
以上
酉八月廿三日 廿四日ニ着 藤田政七
坂下村より蛭川村迄
右之通井沢孫兵衛殿岩井正助殿曽我八郎殿ハ手前共へ御触
有之候
又鉄砲御奉行安田造酒右衛門殿より之御触
村次覚
一 此間病犬発行之由相聞候依之先達而遣置候鉄炮除日
ニ而も不苦候間右犬見かけ次第ニ打殺可申候此旨猟師共ニ
可申渡候此段可被得其意者也
安田造酒右衛門
酉八月廿三日
町日々野坂下上の福岡高山右村々庄屋中
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右此村々江前度鉄砲除日被 仰付置候ニ付如此候
又八月廿五日ニ御領内中へ犬の分かけ次第ニ出情打殺候様ニと被
仰付御触通り申候
右ニ付高山村五人与頭きつミ沢迄八人并犬主共八月廿四日夕呼寄
早々打殺申候様ニと申渡ス犬無之者へもすて犬并他より出込候犬共
組々能てくはり致置申合気を付居候而若犬見かけ申候ハヽ早々出合
をこい可申候てあい聞候ハヽ早々はセあつまり打殺申候様ニと申渡候
犬も当春迄廿余高山ニ有之候得共やまい付相果当有之犬ハ
吉左衛門ニ一疋曽七ニ一疋小左衛門ニ一疋宗十ニ一疋宇兵へニ壱疋作十ニ壱疋
きつミ沢忠助ニ弐疋善六ニ一疋〆九疋不残打候様ニと申渡殺さセ申候
其外村々犬狩有之候由ニ候明和三丙戌三月四日川上ニ而馬六疋犬
くい六日知原を通若山ニ而日々野庄屋ニ飛懸り夫よりこたまニ而下沢傳十娘ニくい付
おひたゝ敷くい申候ニ付相果申候
主馬殿事 覚
一 鈴木徳右衛門殿依願御隠居被 仰付之候旨御触来
一 中村藤八殿不行跡ニ付御城下御領内御構御暇被下置候一夜宿も
仕間敷旨御触来ル右御触箱弍つニ入一所ニ通り申候
酉十二月三日ニ触出ル六日夜ニ入来ル 東方唯右衛門
明和二年乙酉十二月十五日夜九ツ半頃
月如此ニしバらく見え申候而はや
きへもとの月ニ成る
右の大キサからかさほとあり
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一 安田造酒右衛門御用人役被 仰付宗門役所ハ
曽我万右衛門江被 仰付候旨御触有之候
明和三戌正月十一日 東方唯右衛門
飛州御代官様御代りニ付布施弥市飛騨より
江戸江御引越ニ付福岡村へ助人足之事
一 先年飛州御代官上倉彦左衛門様飛騨より江戸江御引越之
節御代官吉村与次右衛門様より高山村江人足三十人被 仰付候ニ付
先年長谷川庄五郎様御引越之節も夫より前伊奈半左衛門様
御行之節も夫より前ニも人足差出候儀無之ニ付与次右衛門様
御中勘定之節ニ而坂下村町組庄屋彦右衛門方ニ被成御座候ニ付当村
組頭傳吉を差遣先年より福岡村へ助人足差出候事無之候
間差出候事御免被下候様ニ先年より日々野人足福岡人足ニ而
間合候事ニ御座候殊ニ高山之義ハ御役しげき所ニ候間御免被
成外村より御差出被下候様ニと達而御断申上候得共与次右衛門様被
仰候ハ 公用之義ニ候御間合不申節ハ隣村ニかきらす御領内中
いつれ村ニも御よひ御間被合候事ニ候此度村へ我等罷出候事殊ニ差掛り
申候御用ニ候間先ツ此度ハ人足差出候へ又重而ハ坂下辺ニ而もよひ
可申候得共差懸り候儀ニ候間差出申候様と有之殊ニ 公用之儀ニ而
御間合不申候節ハ 御地頭様へも懸ヶ申義候なとゝて御世話も有之候
ニ付三十人差出候処人足大分あまり高山人足も半分過残り
申候以上
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一 明和三丙戌二月廿七日夜福岡村御泊りニ而布施弥市様
飛騨御代官御代り御通り被成候ニ付福岡村より書参申候人足
先格之通弐十人差出くれ候様ニと申越候ニ付御代官藤田
政七様江与頭[傳吉事 七左衛門]遣申上候ハ前度上倉彦左衛門様之節ニ
いさい申上候処 [御代官被仰候ハ 此間]福岡村より願申候ハ飛騨御代官御通り被成候
先年も上倉様御通り之節人足間合不申候ニ付助人足御願
申上候処被 仰付候今度も御間合兼申候間助人足被下候
様ニと申参候ニ付我等申候ハ先格も可有之候間先格之通ニ
可致候由申候へハ先年より日々野村高山村より出候事ニ御座候旨
申候ニ付左候ハヽ前々之義我等不存事ニ候間先格之通可致
旨申遣候所其元申候ハ先年ハ人足出不申上倉様之
節初而出候由左候へハ先格ニ而無之候間ふくおか不埒之事ニ候
先格ニ而無之段ふくおかへ申遣先格ニ而ハ無之此度間合不申故
相頼申筋ニ候ハヽ 公用之義ニ候間人足差可申候と被 仰之
七左衛門申上候ハ左様ニ而候御大切之御通りニ候へハ御
付候義ニ候へハ相背ハ不仕たとへ上より被仰付候へハ遠方へ人足
遣候様ニと被 仰付候而もいつれの村ニ而も違背ハ無之義ニ候得共
高山之義ハ小村殊ニ御役しげき所候間外村より御出被下候様ニ奉願候
福岡村庄屋仲右衛門方より申越候を人足差出候而ハ先格ニ相成可申候
間御断申上候段申上候且又差出不申ニハ相叶不申義ニ候ハヽ
御手前様より庄屋へ人足之御触書被遣被下候様ニ奉願上候後日先
格ニ相成申候而ハきのとくニ奉存候其御触状セうこニ致置候由
申上候へハ尤之事ニ候成ほと追日書遣可申候由被 仰候
一 福岡村へ伊左衛門を二月廿六日朝遣候申遣候儀ハ昨日ハ御手紙被下候此度
飛州御代官様御代りニ付人足二十人遣候様ニと被 仰下候ニ付
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御代官様へ御うかゝい申上候人足差出候儀先格と被 仰遣候得共
先年より人足差出不来候上倉様御通り之節御代官吉村与次右衛門様
より人足三十人被 仰付候ニ付御断申上候処今度ハ差懸り候儀ニ
候間差出可申旨殊ニ村方ニ被成御座候へハ割賦被成かたく殊ニ差懸り
候間先つ今度ハ差出申様ニとの事ニ候故[初而 差出申候]又此度も
廿人差出候様ニと其元より御申被遣候御大切之公用之義候故人足
差出申儀相成不申と申事ニ而ハ無御座候得共重而先格ニ被成候而ハ
きのとくニ奉存候殊ニ高山村小村役しけき村ニ候故外村ニ而助人足
御願可被成候勿論先年より差出不申事ニ候間先格ニ而ハ無之候
間左様ニ御心得可被成候由申遣候へハ福岡村庄屋仲右衛門被申候ハ
私新役之義ニ而上倉様より此かたより前之義不存候上倉様之節人足
御差出被成候故此度も御願申上人足申遣候まつたく先格ニ者
不仕候事ニ候由被申候ニ付伊左衛門申候ハ左様ニ而候上倉様之節之
儀被仰候へハ先格を御引被成候と申物ニ御座候先格ニ成候而ハ時之
役人之不調法ニ後々成候故此段申越必重而先格ニハ相成り
不申候儀之由申候へハまつたく重而先格ニハ仕間敷候間此度ハ
人足御出被下候ハヽ忝奉存候併先格ニ無之故得御出し不被成候而茂申
ぶん無之候由被申候左候ハヽ御代官様より御触等ニ而も有之候ハヽ
人足出可申候由申置伊左衛門罷帰り申候
一 日々野村庄屋西尾安左衛門七左衛門ニ咄ニ人馬御触通り申候馬八疋人足四十人
之御触ニ候処人足百人馬十疋とふくおかより割賦被致候大分よけい
之人当テ被申候心得其意由はなし被申候由ニ候
一 ふくおか庄屋仲衛門より之書状此内ニ入置申候
一 上倉彦左衛門様宝暦六丙子閏十一月御通りニ付一切之書付ハ
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証文かわごの内へ入置申候袋なしニ打込置申候諸事書付一切
有り御代官吉村与次右衛門様より之御状此内へ入置申候布施弥市様
御代り大原彦二郎様木曽桑野通り飛州へ御入り成候戌五月
御越被成候由ニ候
かねゐの事
そうとん寺
一 付知村かねい寛延三未(ママ)三月有り初にハかねりうすなきゆへ尓い直ス雨降ル
一 茄子川かねい宝暦十三未ノ三月かねい有り雨降ル木曽川満水
正法寺
一 黒川村かねい明和三丙戌ノ三月十三日かねい有り天気能候
夕方より雨降り
満水出翌日
一日雨降り申候
右之外岩村ニも柿野にも有之候得共其日夕方より翌日ハ雨降り申候
坂下合郷組ニ而川木盗人之事
明和二酉秋頃坂下村合郷組 と申者尾州御材木御
川下之節川江盗木ニ罷出とらへられ其村江御預ヶ被成候
御断傍埒明不申内ニ又同村之者苗木ニ而たぎば近所へ
盗木ニ罷出とらへられ殊之外六ヶ敷候而其村江御預被成候
是ハ酉ノ冬盗木出とらへられ両人共ニ御預ニ而其村殊之外
めいわく仕候いろく断ニ而先キ壱人之断相済候ニ付
御地頭様より御追払被 仰付候得共跡壱人之断相済不申苗木
町庄屋[曽七 作衛門]并中津川役人相頼戌ノ春三月末頃ニ尾州御断
相済四月初頃ニ 御地頭様より御追払ニ被 仰付相済申候
村方より合郷へ見舞ニ人遣候礼ニ四月三日ニ人参申候一昨日埒明申候由申候以上
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一 宮地多門殿御死去ニ付鳴物三日之穏便之被 仰付候普請ハ御構
無之候御郡奉行東方只右衛門殿御親類ニ付御忌有之御触状者
御代官衆四人より之御触也 明和三丙戌ノ三月廿八日之御触也
曽我八郎殿井沢孫兵衛殿藤田政七殿岩井正助殿右四人より被仰付候
○舟大工荷物之事
一 明和三戌三月廿五日舟大工苗木へ御用ニ而参申候ニ付右荷物を
高山より馬弐疋出し大工親子両人上地迄付通し申候此子細ハ
三月廿五日ハ日々野村山の口明申候筈故廿二日ニ日々野村儀左衛門と
申者ニ同村庄屋西尾安左衛門より被申越候ハ廿五日ニ舟大工参筈ニ候
所廿五日ニハ芝山の口明申候間何とそ右荷物上地迄御付通
被下間敷候哉大工帰り之節日々野より蛭川へ付通し可申候間
何とそ上地へ御通し被下候ハヽ忝奉存候若左様ニ難成候ハヽ
日々野より上地辺へ之だちん出可申候由達而頼ニ付吉右衛門あい
さつニハ成ほと御尤ニ候ケ様之節ハ相互之事ニ候間成ほと
上地へ付通し可申候大工帰り之節ハ其元より蛭川へ御付通し
可被成候然ハ人足かへしニ而相済申候間左様ニ御心得可成候
由申遣同廿五日馬弐疋高山より上地へ付通し申候其後
右大工帰り之節日々野より馬出し蛭川へ付通し被申候以上
尤知原川出水ニ付ちわら守助を頼たちん百文払申候被頼候ニ付定使与平
取計ひ申候由与平咄ニ承候
一 伊藤清左衛門殿御家老職ニ被仰付之候由御触廻申候
明和三年 戌ノ六月三日 御触状 東方只右衛門殿より
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明和三丙戌七月三日被仰付候
一 御代官替り[藤田政七殿御病気殊ニ御眼病重り候ニ付御役御断 ニ付御免跡御役土屋与次兵衛殿御勤被成候]
右土屋与次兵衛殿下御台所米方之御役より御立身則御代官役
被 仰付候七月三日御郡奉行東方只右衛門殿より御触壱通 政七殿并
与次兵衛殿より御触弐通廻ル但五ヶ坂下蛭川之御代官也此時ニ
御役替陶山金兵衛殿御普請奉行吉村与次右衛門殿御ふち渡しニ被仰付候
○御料下野村堤普請之事
明和三丙戌八月
一 御料下野村かうじんの森の下の堤修覆川辺江願候由川辺より
御代官御手代衆御出御見分被成[苗木よりも御奉行衆田代迄御出御差ひかえ 御足軽衆被遣御聞合之由ニ承候御立合無之由]
右御手代衆御見立五千人余と承候[苗へ付候残地弐軒計りへ此水懸り 高四石目計之処残地少々有之ニ付残地不残]
[の高を上野村より書出候由夫故 苗木へ当高余慶之様子ニ承候]右五千人余之内苗木分割合千八百六拾
人当り右苗木ニ而御代官土屋与次兵衛様より御割村々左ノ通り弐百九十六人蛭川百五拾壱人高山村
弐百六十九人福岡百十四人田瀬参百五十四人上野百七十六人合郷弐百六十七人町組弐百三十
三人下組合千八百六十人也八月五日頃より初り候由上野村役人へ対談之上人足出候様ニと有之候
右之通土屋与次兵衛様より御触状廻り申候戌ノ八月三日御触写し此内入置候
其後八月四日ニ上野村へ蛭川より亀之助高山より平兵衛遣申候処いまた相知不申候
上野村庄屋被申候ハ下野村江引合申候処右人足出方高割ニ而日々出候様ニとの由
候得共先ツ苗木領より千八百六十人之人足不残つかい相残分下野村ニ而勝手
次第ニ出 出来仕候様ニ可致候此方之人足ニハ御かまいなく其方当リ人足不残御
出候へと申中々高ノ割合日々出可申と不申候ニ付右之段御代官へ御はなしニ今日
庄屋茂左衛門与頭両人罷出候故いさい相知不申由ニ付両村より遣人帰申候
但[上野庄屋のはなしニ苗木より被仰候ハ三十俵ニ而下野者請候ハヽ可相渡義ニ付引合申候 処それニ而ハ得請不申候金十弐両ニ而ならば請可申由被申候埒明不申候由御咄承帰候]
上野庄屋茂左衛門より触写
一先達而御代官様より御触御廻し被遊候通御領下野村相合之御普請人足之義御割賦
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被 仰付候間人足支配其外之義者私共より申遂候様ニ被 仰付候弥々普請之義
八月十日より取懸り可申候依之人足割賦之義追々申遣候間乍御苦労左様ニ思召
可被下候
一もつこ之義割合ニ而申遂候間乍御苦労左之通御出可被下候もつこ三ツ田瀬八ツ福岡
五ツ高山九ツ蛭川十一上野五ツ合郷八ツ町組七ツ下組〆五十六右之通もつこ之義ハ下野村
中嶋喜右衛門方ヘ八月十日朝迄ニ被遣可被下候右為御案内如斯ニ御座候以上上野村庄や
茂左衛門
高山よりもつこ五ツ八月九日夜拵十日之朝兵左衛門ニ為持下のへ遣し受取書取置申候兵左衛門方ニ有
蛭川村よりもつこ出来不申候ニ付断ニ遣被申候庄屋茂左衛門咄ニ坂下村へ人足割賦遣候処夕へ
御代官様より被 仰下候ハ先ツ外村割賦人足出候義ハ相待上野人足計ニ而取懸り候様ニと
御座候ニ付坂下へ人足止メ触遣候故とふ共相知不申候由咄有之候
一人足弐十四人八月廿五日ニ高山より遣候様ニと申来[蛭川三十弐人八月廿四日 福岡三十人八月廿六日]
右高山人足八月廿五日ニ雨ふり申候ニ付廿六日遣申候与頭ひま入有之ニ付与頭代ニ
五人与頭平助支配人ニ遣申候支配人共ニ廿四人遣申候三ケ村江之触上のより来ル
一人足九人九月三日ニ高山より遣申候支配人ハ外ニ与頭差添候様ニと上の村より
申来ル[支配人与頭七左衛門遣申候 高山へ]之状此内ニ有り
一人足十一人十月十三日支配人与頭小左衛門遣惣合四十四人勤申候
一戌十月廿一日与頭壱人つゝ村々より相談有之候間上野村庄屋へ罷出候様ニと
上野庄屋茂左衛門より申参候ニ付高山より与頭小左衛門差遣申候右之
わけハ下ノ村ょり此方人足出不申節二日人足出申候此儀下ノより申越候ハ下ノ村分
人足堤人足ニ出其外何かにつかい此方人足皆つかい申候間堤其元方分
人足ニ而こしらへ申と成共おくと成共御勝手次第可被成候と申越とかく
手の付不申むり計り申候夫ニ付御代官様へも申上 御上よりも五百人計
ニ而 請申候ハヽ下の村へ渡し候へと御座候間相談申かけ侯ハ相応ニ壱人四十文
くらいニ而高四百人として請被申候へと内々相談仕候ニ付大方落着申候
各々方御得心ニ候ハヽ左様ニ取計ひ下ノ村より証文取御代官所へ上かまい無之
様ニ可仕候との相談ニ候故何れの村も可然由請申候ニ付請帰右金子
十月廿五日ニ為持披遣候様との事ニ候故其通りニ成申候高山村右之割合
人足三十七人之由壱人四十文つゝと書付上ノ村より参申候書付則此内へ入置候
○一銭壱〆五百四文人足三十七人分壱人四十文つゝ 高山村分
但此銭村入用方へ入入用方ニ而かり出申候入用へ入割申筈候
十月廿五日使九兵衛ニ而金壱分六百為持遣申候八十八文のこり参候ニ付定使与平ニ渡
則受取参申候
88 画像(翻刻付)
○御用矢箟竹之事
一明和三丙戌九月御用矢箟竹御用候間有合セ候村々ハ伐上ヶ
候様ニと被 仰付一寸壱分廻りより一寸弐分廻り之竹伐上ヶ候様と五ヶ村坂下
蛭川江御代官土屋与次兵衛殿より御触廻り申候有之候ハヽ東方只右衛門殿
御宅江為持上候様ニとの御触二而高山村より廿本新九郎ニ為伐二わまきニ
為持上ヶ申候三年竹伐上ヶ申候何年竹と申儀外ニ存候者無之候ニ付
新九郎ニ為伐上ヶ申候御陣矢ニ成申候由ニ候以上
明和三丙戌九月十三日触新田金平殿より触
一山御奉行山内傳右衛門殿下御目ニ御役替跡御山奉行佐々木次兵衛殿勤
被申候相役先役新田金平殿也
○殿様奥渡御仏参之事
一明和三丙戌年九月晦日可申達事有之候間蛭川高山より与頭壱人ツヽ
御代官所江参上仕候様ニと御代官土屋与次兵衛様より被 仰下候間
九月晦日ニ高山より与頭七左衛門遣候処御用筋之儀ハ十月四日ニ
殿様奥渡江御忍ひニ而御仏参有之候道橋少々取つくい可申候
知原橋ニあをりを付候様と被 仰付候ニ付十月朔日ニ新助組作兵衛組
両組高松より道作ル奉行与頭小左衛門也金助組孫吉組弐組ハ日比野境より
両所合次第ニ道作候様ニと申渡与頭七左衛門ハ日比野さかいより雨天ゆへ
大水ニ而日比野さかいハ二日ニ七左衛門知原御殿并川うらたむかいニ両頭
懸りい申候故与頭代ニ音右衛門を奉行ニ付金助組孫吉組両組作り懸ヶ
立いわよりちわら大かいとへ之入口まて作り申候翌日夫より日比野さかい迄
作り申候定吉組太次衛門組平助組三組ハ 御休所并川こした向
橋のあをりニ懸ヶ申候橋あおりハ橋の上平ニ手木を八本ゆい但
はこゆいニ仕堅クゆいちわら下弐軒之やぶニ而大竹八本伐よせ
打ちくい手木ニ堅クゆい付申候ちやへ上ル小坂石かけをつミ道なぞ
へ仕拵申候橋へ川原より取付ハ両方いしうけニ仕中へ小石を入申候
89 画像(翻刻付)
いかだ新敷縄ニ而舟人ニ申付かき直させいかだ人足六人
夫より一間ほと上水きり人足八人立ならべいかた水ニ付中持ニして
こし申候朝御越被遊様候節ハ吉右衛門伜九平はかまはおりニ而川の御案
内仕候御もとりニハ川案内なし御休所ハ北かい上ヶ林よりくい伐よセ
四本立三尺ニ六尺ニ仕ひの木のはニ而後ハ惣がこい川方の一方中垣ニ
仕おを竹をわりひしニゆいきれいニ拵やねもひの木の葉ニ而仕
新敷板ニ而縁をはり新敷へり取弐まいかい候而一まい 御殿の内ニ
敷一まいハいかたの上に戸を敷其上にへり壱枚敷置申候
御殿の前竹ニ而ふちを仕あら砂を敷かたわらひき候所に
御雪隠御小用場是もひの木かこいニ仕きれいニ仕申候小便場
かなとをしのますのことく成物新敷板ニ而拵申候御雪隠の
おとし一寸五分計のこたつのセぎのことく成物拵内ニ弐三寸
有之板を四まい打付縁竹すのこきれいニ拵右二品之物を
きりくわセ置申候にわにわ砂をまきおとしの下ニハひの木
の葉を敷小便箱之内杉の葉を三つたはねうらをそろへきり
箱之内へ入置申候うりや前より御殿下迄道ニすなをまかせ申候
御殿の前ニハもりすな二所ニ仕候犬地御出之格ハ別ニ帳面有之候
奥渡へ御出之節九平小左衛門両人道御案内仕候高松迄参候処高
松へ蛭川役人出合不申候ニ付一ノセ迄此方より御案内申候御代官より申
参高松ニ両村より御休所仕候蛭川より十弐三人出ル高山より無人ニ付六人出遣申候
此与配人ニ五人与頭平助遣申候蛭川より与頭清兵衛出申候御代官より高山江
申来高山よりさしす蛭川へ申遣候御代官より之御書状数数此内ニ有
十月四日天気能御出之事
殿様黒色の御いしやう黒ちりめんの御もゝ引御わらしかけ二而
御供廻り[上下 五十人]計り御供頭河内左仲殿御供目付小町理喜右衛門殿
其外[御なんど役 伊藤]清二郎殿瀧沢宮五郎殿山田金作殿伊東新平殿小池定左衛門殿
90 画像(翻刻付)
明和三丙戌九月廿八日御代官様より之触写シ
覚
可被申達義有之候間来晦日朝与頭
壱人可被差越候以上
土屋与次兵衛
御判
戌ノ九月廿八日
高山村 蛭川村
右此触蛭川へ送ル 右庄屋中
口上之覚
此間七左衛門江申談遣候通
弥四日奥渡へ御出有之候
橋場辺之儀弥申遣候通
可被相心得候御忍御出之
格ニ候間献上物等之儀篤与
不仕候様被 仰付候御休所之
儀御半途ニ有之可然旨ニ候間
蛭川へ申遣候道筋之儀
両村申合宜取計可被下候
道御案内等之儀ニ及申間
敷候右之趣御承知可有之候
以上
土屋与次兵衛
戌十月二日
高山村
吉衛門殿
此時之蛭川村庄屋九郎八方へ一通被遣候
戌十月三日御代官様より御触写シ
明四日朝七つ半時御供揃彼地江
被為成候右為知如此ニ候以上
土屋与次兵衛
戌ノ十月三日 御判
高山 蛭川
右村役人中
右此御触蛭川へ通り申候
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長田早太殿山田団右衛門殿高柴嘉平次殿御いしや水野とうりん殿
其外之衆不存方も有之存候衆も取込故覚不申候御忍ひ御セつしやう
なからと之御義ニ而御供番御足軽両人御鉄炮弐丁持申候朝六つ半ニ
知原御越被遊奥渡江御参詣被遊候而御帰り高松ニ而御弁当被遊
日の入ニ知原御越被遊候両度共ニ御殿ニ而御休被遊候朝川御越被遊ニ
候節川越之者共江 御意ニ而御酒五升被下置御供目付衆より銭
三百文受取申候壱升ニ付五十八文つゝ壱弐升代可申請由申上候得共五升代
出申候間頂戴仕候様ニと御座候則人足共ニのまセ申候外ニ酒四五升
取よセ置御このミの方江茶ニつぎ茶だいニすへ上ケ申候此通り
前々之先格也村方より拜見之者大勢出申候ひき候所ニおき申候
男などハ別而下よりひき候所ニ置慮外無之候様ニ堅く申渡置候
川越之者かミさかゆきよくして白じばんニひとへおび仕其上に
常の通いるい着居申新九郎うりやの内ニかくし置候而いかたニ而
御越被遊候哉川むかいニ而御供目付へ御うかゝいいかたニ御めし可被遊候
との御意ニ付それと申やいなや手そろいニ御出申候故手廻しの程
御かんしん被遊候由御供頭御供目付衆より御ほうびの御言御座候
川越人足弥吉常助新九郎喜兵衛長兵衛平兵へ清五郎新兵衛吉兵へ政五郎
只八半右衛門清二郎平助〆十四人六人いかだ役八人なミきり人足也うりやニ而大キ
成茶釜ニ而茶セんし茶折敷を十ヲかい置茶酒くミ役人儀左衛門新八両人弐軒之うりや
ニ置申候
一朝ちわらを御越被遊候御届ケニ御代官へ金兵衛遣申候夕ニ川御機嫌能御越
之御届ケニ与頭七左衛門遣申候高山村道橋御殿両所川越之仕方
至極ていねい成取計ひ 上ニも殊之外成御満足之段御供頭御供目
付衆より度々之御あいさつニ而奉恐悦候御代官様ニも御よろこび
被遊候以上
一御道具御鑓壱筋立笠御挟箱一荷御鉄炮弐丁御茶弁当
壱荷御長持弍棹竹馬四荷御馬弐疋朝知原川向より御もとし
八つ頃ニ高松迄御むかいニ参申候御むかいニ参候節ハ川越之者越申候
92 画像(翻刻付)
此日御通り過候節苗木薪ひろい馬通り
御殿前人通し不申筈ニ候つなはり置候処
馬通り申候しかり申候又もとり御通り
先ニ候故御殿前之道くいニ而かこ置候処馬引かけ
通り可申と申候故御通り只今ニ候間此
方通り候様ニ達而頼申候へ共橋馬越候
事得不致御殿前通り可申とて殊之外
不埒者ニ而かこいも取すて馬四つぼうじやく
ぶじんニ通り申候ニ付御内々ニ而御代官へ申上候
得ハ御忍び之御出之義ニ候故此度ハ其ぶん
ニして差置可申候此段我等承居申候間
御はなしも申上置可申候重而ハゆるし
不申候と御座候故其まゝさし置申候
至極不埒成仕方ニ候へ共此方手を出し不申候
たくミ有之事と存若者腹立申候へ共とめ
手を出さセ不申候其段御代官へ申上置候
一番ニ通ル馬鈴木金蔵殿馬弐番ニ宮地藤兵へ殿
馬三番ニ町こんや次兵衛馬四番ニ東方只衛門殿
馬〆四疋也此金蔵殿馬のまごわか者之由
戌ノ十四日八つ過頃
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もとりニハ河内佐中殿御のりこし被成候川越之者こし
しまいニ而川向より参候節あばけこしニ仕候を
殿様新道坂ニ而御らん被為遊殊之外御わらい御よろ
こび被遊候前後之首尾殊之外大上首尾ニ而御座候
蛭川役人皆奥渡へ参道筋ニい不申候故御供目付衆
御世話も有之候得共御供頭河内左中殿御あいさつ
能御座候ゆへ子細無之候
一御郡奉行東方只右衛門殿御時代御目付高井儀兵衛殿菅川七右衛門殿
棚橋弥市殿山中藤馬殿大まかない岡本雲平殿御時代也
御代官北方岩井正助殿[中通り 南方]井沢孫兵衛殿地廻曽我八郎殿五ケ坂下
土屋与次兵衛殿也
○公儀より諸勧化御触写シ
諸国寺社修覆為助成相対勧化巡行之節自今□□(ヤブレ)し
寺社奉行一判之印状持参御料私領寺社領在町可致巡行候
公儀御免之勧化ニハ無之候相対次第之事ニ候之間御免勧化与
不紛様ニ可致旨御領者御代官私領ハ領主地頭より兼而可申聞
置候 戌ノ八月
右之趣被 仰出候間可其旨存候以上
戌九月
別紙御書之通江戸表より被 仰出之候間村々承知之可仕候
順達留村より可被相戻者也戌十月十八日 東方唯右衛門
明和三丙戌十月二十一日着御領内中村々庄屋々々
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○稲盗人入札之事
一明和三丙戌秋世の中悪敷故か小嶋たんぼニ而稲盗申候[孫吉組ゟ書付を取 廿八束七わ]
内七束五わくわばらそよ三束七わ紋六四束恵七六束五わ兵左衛門弐束金二郎
四束五わ孫吉右之通ニ候其内稲数覚違も可有候哉金二郎なとしかと
とられ候共不被取共相知不申候由内々ニ而ハ為八咄申候由外ざたより承候
右ニ付去年なとも稲盗人中かミ組ニ而追出し追うしない申候よし
当年ハ殊之外多取申候ニ付七組五人与頭をよび十月十三日ニ申渡候ハ小嶋
たんぼニ而いね多取申候由孫吉組より吟味之願有之候問組下之
面々をよび見かすり聞及び等ニ而も無之候哉見かすり聞及ひ等
有之候ハヽ内々ニ而相知らセ申様ニかくし置候義堅無用ニ候此趣
申渡しとくと吟味仕見申候様ニと申渡十月十四日ニあいさつ
仕候様ニと申渡候ニ付十月十四日五人与頭中より申候ハ組下念人吟味
仕見申候得共見かすり聞及び等少も無之由申候ニ付左候ハヽ
以後の為ニ候間入札ニ可致候組々ニ而竹の筒を拵組下之札を
入さセ十月十六日ニ庄屋元へ持参候様ニと申渡此札御代官所へ差上
御上ニ而開キもらい可申候御上より被 仰付ニも案内ニ及不申候間ケ様之義
有之ハ入札ニ仕御代官所へ差上候様ニと被 仰付置候義ニ候間其通ニ
可致と申渡シ十月十六日ニ札受取申候十七十八十九日ハ小成納所ニ候間
廿日ニ札上ケ可申と申渡置候所十月十九日村方隠居之者老人
共より少御願筋有之候間廿日ニ入御上ケ被成候義今暫御差延へ
被下候様ニと以五人与頭を申候ニ付左候ハヽ少差延可申と申置候
処十月十九日老人共七人[六右衛門金兵衛与市弥惣 新五衛門武平与助右七人]罷出願候ハ此度稲盗候
ニ付入札被 仰付入札廿日ニ御上ケ可被成候由不届者入札之義ニ候故御尤ニ
奉存候しかし右之札下より 御上江御苦労申上盗人相知申候ヘハ能
御座候得共万一白札計りニ而候ハヽ村方首尾も如何ニ御座候得ば
札之義老人共へ御預ケ被下来年もケ様之不埒御座候ハヽ其節当
年之札御開キ被下侯様ニ御願可申候間当年之義ハ私共ニ御預ケ被下候様ニと
達而願申候得共聞届ケ不申相成不申由申渡候処又廿一日ニ老人
95 画像(翻刻付)
罷出又右之通達而願申候ニ付与頭両人五人与頭七人[太次衛門平助孫吉金助 作兵へ新助定吉右七人]
相談之上右之札老人共七人[音右衛門弥惣新五右衛門武平 与助六右衛門金兵へ右七人]江札相渡こも包ニして
封印させ右七人方へ預り御蔵江入置申候右ニ付七組より一組より壱通つゝ
証文取之又組下より五人与頭老人共当名ニして壱通つゝ取置申候よし
差出申一札之事
一此度孫吉組ニ而はざ稲を盗取候ニ付村中御吟味被成候得共相知不申候故
入札ニ被仰付候所村方隠居老人共罷出右之入札此度ハ私共へ御預ケ被下
来年不埒御座候ハヽ其節右之札御開被下候様ニ日のへ之御願申上候
所左様之義ハ難被成由ニ候得共又々罷出達而御断申上候処御聞届ケ
被下候然上ハ此以後稲ハ別而もや薪盗取候か夏草等かり盗取之
候者有之候ハヽ手前々々ニ而無之候共みのかしに仕間敷候万一
みのかし候者を外より見申候ハヽ早速五人与頭へ届ケ可申候万一不埒
成儀見のかし候ハヽ其者ハ不及申ニ一組中の越度可被 仰付候
勿論其もより之者申分ケ難立候為後日仍而如件
明和三丙戌年十月廿一日 高山村
七組之名不残
印形取
同村五人与頭
印形
与頭 小左衛門殿
同断 七左衛門殿
庄屋 吉右衛門殿
右之通七組より一組ニ而証文壱通つゝ取之証文ハこの内へ入置申候
右之通ニ而当年ハ其ふんニ相済札開のへ置右之入札御蔵へ入置申候
以上
○日比野村團治熊にかゝれ候事
明和三丙戌十月十三日夕方大キ成熊ゼうとうしへ出夫より御神明林へはいり申候
由庄屋へ村方より届ケ申候ニ付庄屋西尾安左衛門同所團治と申者右両人鉄砲を
持出庄屋ハ森之方團治ハ林西ノ方よりかり申候所圓治木のうらを気を付
尋候所熊ハ木の根元ニねてい申候処何心なく行懸り申候処團治ニ熊とつて
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かかり候得共足元ニい申候熊ニ候得ばにぐる間なく大分かゝれ申候
頭より顔大分かきやふりうでなとかミ申候而水野甫しゆん老御りやう治被成候
すでに命もあやうく見へ申候得たすかり申候夫より熊並松へ出牛かふち
すなばニあしあと有之候へ共川越不申候哉川向ニハあとも見へ不申候よし
日々野庄屋より知セ有之ニ付高山ニ而も猟師小三郎惣十郎ニ申付からセ申候へ共
行方すきと相知不申候其後熊見申候も行方も相知不申候
右今ノ珍事也
○江戸廻し紙荷蛭川ニ而ぬらし御吟味之事
明和三丙戌十月廿六日御紙荷御差出し廿九荷蛭川村へ送り候処内一
個ニ差札無之由蛭川より以手紙申被越候ニ付其旨日々野村へ申遣候
日々野より申来候ハ昨日之役の者吟味仕其上御うかゝい可申進候よし
被申越候而其後さた無之候右紙荷蛭川より中ノ方へ被送候処わた
川の手前ニ而土橋を馬ふミぬき馬ころびみぞへ御荷物打込
少々ぬらし申候ニ付東方唯右衛門様へ申上候由其ぬれ荷物御城江蛭
川より持届ケ御入かへ被遣候御大切之杉原并半切紙の入候荷物之由ニ候
右荷さいりやうニ下沢兵助と申五人与頭を付遣候処唯右衛門様御尋
被成候ヘハ馬ニ付遣候処馬土橋をふミぬきころひ申候由申上候処御大
切之紙荷人足ニ而送り申筈ニ而人足触差出候処馬附ケ候ハ不埒
之由御世話御座候処兵助申候ハ庄屋申付ニ而も無之定使之さし
すニ而も無之高山より馬ニ附参候故蛭川ニ而も馬ニ附申候由申候ニ付
高山へも其御さた御座候而廿五日ニ与頭御よひ御世話御座候与頭七左衛門ヲ以
申上候ハ高山之義ハ弐軒持之者共四五人も御座候而此者人足弐人つゝ請合
置候処朝ニ成俄ニ当時之人相煩近所人やとい見申候得共山かセ
ぎニ出宿ニい不申候故無拠馬を引出申候とやかく申候内ニ荷物お
くれ候而ハ御間合不申候故馬引出申候と人足之者申候故無是
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ひ附ケさセ申候馬ニ而送候様ニとハ庄屋より不申渡候旨申上候其日断
相立不申候而翌廿六日九平并与頭七左衛門を以御代官様へ立寄夫より唯右衛門様へ
御断申上候得共相立不申候帰りニ御代官様へ御断被下候様ニと御頼申上
候ヘハ成ほと承合セ御断申上触遣可申候間其節早速両村共ニ罷出
候様ニと有之罷帰り申候私ニ曰[蛭川より申候ハ高山より馬ニ附参候故蛭川ニ而も 馬ニ付申候由申候ニ付高山へも懸り申候事ニ候]
是ハ先年より東正右衛門殿御時代ヨリも馬付送り申候殊ニ此度日々野村よりハ馬六疋
三固つゝ附参申候然共御吟味之節ニ候ヘハ先年より馬ニ附来候段ハ難申上候故右之
通りニ申上候日々野より馬六疋附参候儀も申上候而ハ日々野村なんぎニ成此方の御しかり
かるむニ而も無之候故日々野村より馬参候義ハ不申上候ケ様ニ高山わうやうに仕侯故蛭川
より申上候儀庄屋不埒之由御代官様姪川へ御世話御座候
一御代官様より御触可被下候旨被 仰候所廿六日ニも御さた無之候ニ付廿七日
早朝ニ弥吉を以御うかゝい申上候処いまた御さたも無之候どふ
して間も可有之由被 仰下もはや人遣ニ不及候此方より可申遣
由被 仰候其後高山蛭川庄屋与頭罷出候様ニと御代官様より申来
候ニ付蛭川庄屋九郎八与頭壱人高山より名代ニ九平与頭壱人御代官様へ差遣候
処御代官被仰候ハ兼而之義此度ハ御免被成候以後急度相慎候様
人足計ニ而持送り候様ニ万一馬ニ付候共人足ニ而送り可申候旨あじ成
聞へおかしき被 仰付ニ而夫より唯右衛門様へ御礼ニ参上仕相済申候
以上
○御料下野村柏原山伐あらし候ニ付御触之事
一十年計以前下野村江苗木より御未進金御城金其外拝借
物等其外不埒之事共有之ニ付苗木御代官吉村与次右衛門様より
御触ニ者下野村不埒ニ候条互ニうりかい并縁組等ニ至まて
堅く無用ニ仕候様ニと被 仰付候而相止申候夫より下野村どふ
やら不宣様子ニ相見へ申候ニ付永徳平兵衛あわや曽七郎
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中へ立何角御免被成候様ニ与次右衛門様へ御断申上相済
い申候処又々今年ニ至て柏原山ニ而板を取角をげづり
苗木辺江持出しうり申候ニ付山殊之外あれ申候柏原
道筋作り出しの角等も有之めいわくニ及候由ニ付福岡
庄屋仲右衛門より御山奉行[新田金平殿 佐々木次兵衛殿]江其旨御注進申上
御代官土屋与次兵衛様へも申上候ニ付而戌十一月廿三日御郡奉行
東方唯右衛門様より之御触如此ニ候覚御料下野村より柏原山ニ而
青木類伐出候由相聞候之間右村より持出候木品一切
相調申間敷候此旨端々迄江も急度可相守旨可申渡候
尤順達留村より可相戻者也[戌十一月廿三日 廿五日着]東方唯右衛門地廻坂下
五ケ村右村々庄屋々々右之通之御触ニ候高山より唯右衛門様へ相戻し申候
以明和三丙戌十一月廿三日
右柏原山殊之外あらし角なと作り置申候ニ付山奉行衆下御目付
衆御出被成候処右作置候角しよい参候ゆへおろさセ被成候処翌日
三十人ほと参昨日預ケ置候角取ニ参候由ニ而持参仕候故御とめ被成□(候)
得共殊之外ぞうごんなと申持出し候故手も付不申処へふくおか
宇右衛門参いろいろたまし申候ニ付おろし置罷帰り申候よし
其後御セんきニ及重而柏原山ニ而わるさ仕間敷由下野村
よりふくおかへ証文取之御上江上ケ相済申候材木之義ハ下野村へ
被下候由ニ承申候 以上
○御家老小川政右衛門殿御役御免之事
明和三丙戌十二月十一日
一一ノ御家老小川政右衛門殿御役儀御免被仰付平ニ御成
セきハ御はた大将小倉伊兵衛殿なミニ被仰付候由尤願ニ付御役
御免とハ御触有之候得共御年若之儀とふやら御不首尾
成儀如何之義とも相知レ不申候以上
99 画像(翻刻付)
○江戸廻米ニ付不埒之事
一江戸廻米村々御改相済黒瀬江出シ候ニ付蛭川毛呂窪姫栗
河合馬方かち荷六十俵ぬき候而持参福地ニ而右之俵ニ拵候
処かゝりふとう有之故わけ候米右之俵へはいり不申むりニ打込
候も有り又はいりかね馬なとニくわセ候も有之差札之通りニ
貫合不申黒瀬へ御出候御奉行高井四郎兵衛殿へふくち村より
右之段届ケ申候ニ付御吟味有之六ケ敷御中勘定前ニ相済
不申六ケ敷相成やう/\其後相済申候御上江ハ不被仰上候而
御奉行四郎兵衛殿御代官井沢孫兵衛殿切下さたニ而相済申候よし、
先年江戸廻米赤河村之者ぬき替りニ土なと入候義相知
打首ニあい申候事も有之候大切之事也
明和三丙戌十一月中旬
○東方唯右衛門殿御名御改号之事
一東方唯右衛門殿御名為右衛門殿と御改号被遊候
明和三丙戌ノ十二月廿三日御触有之候御郡奉行役也
○北国白山勧化之事
一北国白山為御修覆十一ケ国勧化御免候ニ付来ル
亥正月より巡行仕度候依之印鑑差出申候
御領分江御配可被下候以上
別当越前国
平泉寺 役儀
華玉院
越前国白山別当平泉寺
玄成院
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加賀 能登 越中 越前 若狭 近江 美濃 飛騨 尾張
三河 遠江右十一ケ国也明和三丙戌年より寅ノ年迄
五ケ年之間御免其上疱瘡雷札賦候願相済候由
被仰出之候
明和三丙戌十二月廿三日 東方為右衛門
庄屋
後藤吉右衛門
宅矩書
右之通早々こゝへ書記置
申候