見聞日記 五之巻

見聞日記 五之巻 [目録]


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<翻 刻>
 
管理番号七八
 
福岡郷土館史料番号一二七
 
1     画像(翻刻付)

 
  明和四丁亥年ヨリ
 
     見聞日記五
 
     正月吉日  後藤氏
卯 寅 丑 子 亥
辰 巳 午 未
 
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見聞日記目録
一 桧垣神主夏旦廻願之事 一 伊藤与惣右衛門殿郡方添被仰付候事
一 わら久保草山大火事之事 一 遠山源次郎様 相良家江御急
御養子被為入候事
一 殿様江戸御発足之事 一 江戸表やかましき事
一 番人煩ニ付村より米をくれ候事 一 日比野より御巣山ニりやうぶ 取ニ参候ニ付日比野
村へあいさつ之事
一 大霜ニ草山麦うたれ候事 一 赤坂銀蔵江戸ニ而欠落之事
一 赤坂と
 上かいとゝ
水論之事 一 若イ者共あやつり仕御しかり之事
一 尾州辺大かうすい之事 一 市左衛門忰宗門帳はづし之事


 
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一 西か洞 平助弟
類助
盗人ニあい候事 一 高山村郷御蔵普請之事


 
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   見聞日記第五
    亥年ヨリ 明和四丁亥正月十一日ヨリ
    次平見ならいとして内々支配
 
    ◯桧垣神主夏旦廻願之事紙面写
一 筆致啓上候寒気之節各様弥御堅勝ニ可被成御座珍重ニ奉存候
  当方神主無別条神務被致候如例其表御旦廻同役岩田
  好内罷越申候不相更懇情奉頼候誠ニ当夏ハ御無心之
  儀被申入候処預御出情我々ニおゐて大慶仕候然所又候哉
  御願被申入度被存候ハ来年より夏分御祓進入被致
  度此儀時節柄思召も如何候得共前以夏旦廻之格合茂
  有之候間何分ニ茂及御相談候様ニ神主被申付候此段
 
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   御執計 被下古来之通夏旦廻相勤させ候様ニ此上御神
   忠所希被存候右之趣拙者より御頼申進候様ニ被申付
   如此御座候委細孝内より可得御意候条御評儀之上宜御報
   相待被申候猶期後慶之時候恐惶謹言
               桧垣神主内
         十一月       小久保斧右衛門
  日比野西尾安左衛門様御組頭中様蛭川村林九郎右衛門様田口勘左衛門様御組
  頭中様高山後藤吉右衛門様御組頭中様福岡西尾仲右衛門様御組頭
  中様下野田口政右衛門様御組頭中様上野田口茂左衛門様御組頭中
  様坂下小池政二郎様町組御庄屋様下組御庄屋様三組御組頭
  中様小臨(縣)仙右衛門様川上原権兵衛様同吉右衛門様御組頭中様
  田瀬丹羽三左衛門様御組頭中様付知田口忠三郎様三尾小吉様
  同和兵衛様御組頭中様加子母伊藤政右衛門様脇坂利左衛門様
 
  番田御組頭中様角順(領)御組頭中様小郷御宿ハ弥平様御組頭中様
  順路次第不同御免可被下候 以上 明和四丁亥正月廿七日ニふくおかより
  廻状来り写ス日比野江送り申候以上
一 明和四丁亥夏桧垣神主おはらいくばり被申候当年初而也
   七左衛門方ニおはらい差置被申候七左衛門くはり被申候
 
 
明和四丁亥二月七日
一 伊藤与惣右衛門殿郡奉行所添役被仰付之候由東方為右衛門殿
  より御触被遊候明和四丁亥二月七日出之御触状九日八ツ時ニ者蛭川へ
  送り申候        亥ノ二月九日    東方為右衛門御印
 
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   ◯わら久保草山火事之事
 
一 明和四丁亥二月十三日わら久保平の上平吉屋敷上やすミ場
  より火出上ハ寺山の頭ゑなき迄やけ申候下の巾弐三丁程
  上ハ三四丁程長サ十六七丁程もやけ申候尤中の巾一丁程も
  有之所もあり此日ハ殊之外風吹見る内ニやけのほり及大火ニ
  申候而村中の手ニ不及程ニ見へ申候ニ付日比野村ふくおか村へも
  加勢之頼申遣御代官土屋与次兵衛様へ以作兵衛を御届ヶ申上候
  日比野村よりも大火と見へ候由ニ而人足被遣親方西尾安左衛門殿
  頭衆被参候ふくおかなけやけより由右衛門となり共ニ三人見へ申候
  御郡奉行衆も御代官衆もふか沢辺迄御出被成候所火も
  しめり候ニ付御帰り被成候由外村之衆火本迄不被参候内ニ村人足
  ニ而けし申候きへ候而口火本へ地村人足見へ申候草山火
  事と申せ共むかしより不覚大火ニ而大さわきニ而御座候
  右之御礼として与頭七左衛門を以御代官様并日比野庄屋まて
  礼ニ遣申候ふくおかへハ五人与頭金助礼ニ遣申候ふくおかへハかせい
  頼ミ人不参付内ニ火きへ申候ニ付不参候同日夕方ニ御代官様より
  御状被遣翌十四日朝与頭七左衛門を御代官江遣シ使御郡奉行
  衆ヘ御礼ニ遣相済申候右山主吉左衛門音衛門藤助善蔵是四人ハ
  休メ山之由甚衛門寺山曽兵衛右三人ハ取山也彦市山庄屋山も
  少々ツゝやけ申候当年ハ福岡ほそかや草山五度やけ申候大やけ
  也ゆいかはし向しは以上九ヶ所やけ申候蛭川切井道其外所々やけ
  苗木御たつちうば御城近所やけ申候瀬戸草山向期ニ而も大
  分やけ申候由正月より二月中三月初迄大日てりニて
  十一日が間ハ山火事毎日く二度有共一度ツゝなしといふ事なし
 
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  右やけ申候山寺より御願ニ付惣山之内ニ而ゑなぎに
  つけばつなつけ道北さかい也上ハ大もミ馬とめ道合之
  分七百取ほと右之分四月廿九日両頭[小左衛門 七左衛門]立合ニ而
  改ふミわけ寺江当壱ヶ年草山口明候より一日前御
  取被成候様ニ寺家来小助同道ニ而相渡し申候
一 長二郎儀ハ下切霜ニ草山うたれ申候者共不残うたれ
  壱わ取も無之候ニ付此者と一所ニ入相取候様ニと申渡ス
  尤帳未ニいさい記置申候
 
    ◯若殿遠山近江守様御舎弟源次郎様相
     良近江守様御急御養子ニ被為成候事
明和四丁亥三月
一 遠山源次郎様御儀豊後国相良之御城主相良近江守様
  御煩被成御太切ニ付急御養として明和四丁亥三月御引取
  則三月御遺領無相違被蒙仰之候之旨依之右
  御祝儀御触達次第庄屋計早々御台所江参上仕
  御祝儀申上候様ニと御触ニ付三月廿五日ニ登城仕候以上
  遠山佐渡守様御二男也 明和四丁亥三月廿二日
                 東方為右衛門
  同出羽守様御養子[同近江守様也 御弟同源次郎様]
 
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    ◯殿様江戸江御発駕之事
一 殿様遠山出羽守様明和四丁亥三月廿五日江戸江御下向
  之筈之処雨天ニ付廿四日暮七ツ時ニ落合江御越被遊
  落合宿ニ御止宿ニ而俄ニ御座候ニ付右人馬日比野瀬戸
  より人別ニ出候処坂下人足上地迄かけ付夫より落合江
  持送り申候由ニ候
 
    ◯江戸表やかましき事
一 明和四丁亥二月江戸表ニ而本願坊主あり土蔵でんじゆ
  とやら申事を初メ其宗門すゝめ土蔵之内へ人を□  
  ふしぎ成事共をおしへ門弟大分ニ及申候ニ付
 
  公儀江召被捕其数千何百人ニ及候由其子細ハ切
  利支丹宗門ニひとしき事之由御吟味有之処
  又山縣大二といふ者ととうをむすめ其子細昔シ
  油井正雪丸橋忠弥か族ニひとしき事を出来し
  是を住心の者有之ニ付召被捕上り屋へ被遣候而
  其訳おひたゝしき事也いさいわ別ニ一冊を
  書留メ置候頃ハ明和四丁亥二月廿九日ニあらハれ
  候よしニ候
 
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    ◯当地番人友七夫婦わつらいニ付
     村方よりふちをあつめとらセし事
一 番人夫婦之者明和四丁亥三月わつらいかつへに
  及申候友七儀去戌夏より相煩申候妻も三月頃
  相煩申候老母壱人あり子共なし両人ねつまり申候
  故老女を初両人之者かつめいニ及火たき候事も
  かないがたく候ゆへ苗木番人小八郎参願申候殊之外
  ふひん成事ゆへ村役人より村方へ下知いたし組々
  ニ而あつめくれ候様ニと申付候
  一 黒米三升きつミ沢 一 白米弐升弐合五勺作兵衛組 一 白米一升八合平六組
  一 白米弐升平助組 一 黒米弐升孫吉組 一 黒米一升八合金助組
  一 黒米一升八合平七組 一 白米一升八合新助組
  〆米壱斗三升
右之外ニ
  一 米三升 吉衛門よりくれ申候 一 [白 米]壱升 七左衛門よりくれ申候
  一 米壱升 小左衛門よりくれ申候
  合
右之通とらせすくい申候


 
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    ◯日比野村より御巣山へりやうふつミニ参候ニ付
     日比野庄屋へあいさつ之事
 
一 明和四丁亥四月廿四日彦惣参申候ハ日比野よりりやうぶつミニ
  参候由咄申候ニ付先年もつミニ参候処北かいとニ而きりくすし
  申候故夫より不通ニつミニ不参候今年又参候故日比野庄や
  西尾安左衛門方へ書状遣申候下書
    以使礼一筆致啓上候其後ハ不得御意御物遠ニ奉存候
    弥御家内御揃御堅勝ニ御暮被遊候半と奉珍重候且又
    此間此方御巣山へりやうぶつミ見へ申候先年も其辺より
    被入込候処高山ニ而おろさせ申候其後見へ不申又今年
 
    見へ申候ニ付村方より願申候重而入込不申候様ニ被仰渡
    不参候様ニ被成可被下候去秋なと栗ひろいニ被参候
    節も村よりかれこれ申候得共たまさか成木の実
    の事ニ候故其分ニ致置候ゆかセ故なとゝ村より申候
    故きのとくニ奉存候りやうふの儀ハ其所のかてニ候へ者
    外へ被取候而ハ其村之なんきニ成候殊ニ御大切成御山若
    不埒なと候てハ大事の事ニ候是より不通ニ不参候様ニ御
    申渡し可被下候御互ニ隣村ハ無事成様ニと奉存候ニ付御内々
    ニ而申遣候恐惶謹言           高山村
        卯月廿四日              吉右衛門
         日比野村 西尾安左衛門様    如此ニ申遣候
 
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  右之使ニ書状為持甚右衛門遣申候所日比野庄屋田ニ居被申候而
  あいさつニハ其元御山へりやうぶ取ニ此方之者参候由被仰下
  相心得申候村方ニ急度申付もはや遣間敷候御手紙之
  返事仕度候得共御らんの通りどろ足ニ候間宜敷申くれ候
  様ニと有之夫より壱人も不参候
 
 
     ◯大霜降り草山并麦霜打候事
一 明和四丁亥四月七日の夜の霜八日之朝殊之外当り
  [クマ 熊]の平中のたいらより殿かい通りより下切芝山不残うち
  青き物少も無之候尤先年も芝なとニ当り候事ハ有之
  候得共[ムギ 麦]なとニ当り候事ハ無之候当年ハ麦ニ当り
  麦三分ほとならでハ無之様子ニ相見へ申候下切ニ而も向知原
  まつは畑北かいとニ而も曽七向たんほ庄屋中田四斗蒔なとハ
  ほに出不申候一ノセ通りきつミ沢なと当り蛭川之内いしき
  なとほニ出不申草麦ニ而かり取馬のなニほし申候よし
  下切ハ桑の木ミづなと無之こがいくわセ物ニなんき仕候
  中も上ミ大上ミなとニてもらいくわ申候大こん種ニも当りなす
  苗なと先キはへハミなと打花畑などの草花類皆打
  もミちなとかれ申候比年ハ麦わセ麦ハ少当り候得共
  おそ麦之類こへひとなり申候麦ハ大麦小麦共ニ皆打
  ほに出不申候わセ作り申者ハたいかいニ御座候比年ハ
  セつふん正月六日明払也ひがん二月十八日八十八や四月六日尤閏
  月有九月閏也四月未五月初迄殊之外さむくわた入を着シ申候
 
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  右大霜ニ付下切草山不残霜打願申候ニ付惣山之内
  ニ而下ハ草山境西ハ半十畑上立さかい北ハゑなぎ道切
  上のさかい馬と免の道切此分千四五百取ほど霜ニ打
  候者へさかい立相渡シ惣山口明一日前ニ為取申候前日晩
  壱人ニ壱まいつゝ庄屋印形之札相渡し為取其晩札庄やへ
  受取申候其人数左ニ記ス当三月山をやかれ申候甚右衛門も
  是と同様ニ此所ニ而札渡し為取申候
                町
一 八十吉 又八    平四郎 作五郎分 儀平  政吉  平六 太次右衛門
一 長蔵分 庄六分   上山有 上山有  与十分 金兵衛 藤吉分是ハ作人おゆりニ渡ス
                     政吉
一 平七分 作右衛門分 甚右衛門是ハ山やかれ申候者
         メ五人
  メ十[五 六]人 但下切ニ而も上山ニ山持候者江ハ札出不申のけ申候
一 右大霜ニ而青麦うたれ申候者江ハ田植ふちとして御蔵米
  かり遣申候尤村役人見分之上ニ而麦すくなき分改帳面ニ相記
  拝借米割付相渡し申候石高之割ニ而ハ無之候すくなき麦
  高ニならし又其人数の見合取麦よけい有之者ニハ当りすくなし
  其人数左ニ記下切之内ニも多クうたれ不申者も有之候わセを
  作り候者ハ少うち申候まてニ而大なんぎも無之候
  人数  一 長兵衛  一 太次右衛門 一 長蔵分 一 平六 一 八十吉 一 又八郎
  平四郎 一 六右衛門 一 作右衛門分 一 平七 一 曽七  一 吉右衛門 与十分 政吉
  メ十三人外ニ儀平分ハ八十吉作り申候故八十吉分へ入下森弐軒彦市清五郎
  右四人ハ麦霜ニうたれ不申候故のき申候少ハうたれ候得共大ちかいなし
  右ニ付田植申ふち方無之候ニ付御蔵米八石御すくいニ当秋入かへニ
  被仰付被下候様ニと御願申上候いさいわ十番目下書帳ニ願方有り
 
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    高山赤坂伝六枠銀蔵江戸ニ而欠落之事
一 高山村赤坂伝六与申者忰銀蔵儀久々之間中原惣右衛門殿
  御そうり取仕苗木ニ居申手形受合之者幸助定吉御断
  申上もはや受合候義相成不申由申上候処惣右衛門殿方被差
  置度思召候得共受人無之ニ付御相談ニ付此方受人ニ世話不懸候
  何様之義御座候而もかまひ無之段銀蔵を差上候趣之証文仕
  上置申候然所ニ惣右衛門殿江戸江御引越ニ付被召連候処
  明和四丁亥春於江戸欠落仕候ニ付惣右衛門殿より岩井正助殿へ
  御状被遣候由正助殿より為御見被成候ニ付写し留右惣右衛門殿より之御状
  返上仕候左ニ写ス
尚々御内方様ニも宣敷奉頼候此方も御着以来殊之外にきわしく
一筆致啓達候追而長閑ニ相成申候御家内御揃弥御堅固可被
 
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  成御座と珍重之御事ニ候当方相替義無御座候長田隼太ニ
相成申候何角と殊之外取込故早々申入候以上
  も無恙御供ニ而着後無障御無事ニ御勤ニ而御座候間御安堵可被成候
  手前ニ而も何れも無為ニ罷有候間御心安思召可被下候
一 拙者草履取高山村より召抱被召連候銀蔵当年母登り
  候様ニ申越候間いとまくれ候様と小栗庄蔵を以相願申候尤之儀と
  存候間首尾能いとま出シ可申段申達置候然処先月十七日タ
  七ッ時半過片町迄無拠用事有之候間遣しくれ候様ニと相願
  申候ニ而遣申候所帰り不申候吟味致候処兼而欠落いたし候
  積りニて衣類皆々出候而一品も無之候夫より夜中所々為尋翌
  日も相尋候処相知レ不申候屋敷内ニ壱文も借金も無之候由
  御座候間不便ニ存候得共役所之義ニ候へ者致方無之候母不便成
  事ニ存候右之段高山村庄屋へも御咄ニ被成可被下候屋敷ニ而取
  逃ハ不致候間一両年も相立候者如何様共致屋敷へ出入成
  候様ニ致在所へ遣候様ニも可成候得共只今ニ而ハ其儀も不相
  成候芝近所ニ者居申候様ニ取沙汰いたし候右之趣高山村
  庄屋御咄し被成可被下候頼入存候恐惶謹言
   四月十日  岩井正助様  中原惣右衛門
  右之御状御家来ニ御為持被遣其状返し候様ニと申参候ニ付如此
  写し留右之御状ハ返上申候以上其翌日母ニいさい申聞置候
      明和四丁亥五月十日ニ出来
 
     ◯赤坂と野中上かい水論之事
一 明和四丁亥六月赤坂新五右衛門願出し候ハ先年より赤坂へ落込
  申候水宝暦十 午年右之水を野中上かいとへ新規ニ堀り
 
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  懸ヶ申候ニ付右之水ほりかけ申儀相成不申候如何ニ而ほり被申候
  哉之段申遣候処そこくのあいさつニ而夫よりついけ能水も入り
  不申候ニ付延々ニ成当亥六月かんはつニ付新五右衛門田地うわ
  り不申候ニ付右之水おとし申候故出入ニ成新五右衛門より五人与頭江届ケ
  夫より与頭小左衛門方へ届ケ申候ニ付小左衛門申候ハ五人与頭金助并組之者両人
  召つれ論所江参見分仕其上申出候様ニと申渡金助并善蔵
  金兵衛つれ見分ニ参候処おとし来候と申又おとし不申処也と
  論シ合申候処徳兵衛父喜右衛門申候ハ此水之義水音いたし候故
  ほり申候ハゝ水うかミ出可申与存段々ほり申候而如此ニいたし候
  よし申候由新五右衛門申候ハいかにも左様ニ可有之事ニ候此儀何
  れも能聞置くれ候様ニ念入置候由ニ候上かいとよりハ此水先年
  より井水有之井水の中へ石ころび込候故其石を出申候計ニ而
  新規ニハほり不申段申候新五右衛門申候ハ此水先年より赤坂へ
  落申水ニ而候処宝暦十二午年此水がうろ山ほり込候処ハ
  土山ニ而山ニ而い申候処を午夏ほりやぶり水を皆上かいとへほり
  かけ少もおとし不申候故赤坂田地日やけニ合申候新規に
  ほり候かむかしより井かたち有之候処かとなたも能御らん被下候様ニ
  と申候ニ付右金助善蔵金兵衛改見候処喜右衛門申候通此
  所ハ新規ニほり候様子ニ見へ申候取出有之候新しき石大
  分有之候其石ニ而ほり候所をうめ候而も石可残様ニ見へ申候
  然者新規ニほり候様ニ見へ申候由殊ニほり候ほり口古キ所新き
  所見合候ヘハ新規ニほり候様ニ見へ申候由ニ候新五右衛門願申候ハ上
  かいとへ先年なき水をほりかけ赤坂田地日にやけ御年貢
  等相勤り不申候間御見分被下候様ニと願申候由小左衛門より
 
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  庄屋元へ願取次申候ニ付両頭五人与頭よび見分いたし候様ニ
  申渡伜九平差添へ見分いたし候処前以三人之者見分
  いたし見改候にちがい無之ニ付上かいと又兵衛徳兵衛庄屋へ呼
  吟味いたし不将之由申候得共上かいとかつてん不仕御差図ニ
  候ても水ハ得遣不申由申候故左候ハゝ御上江可申上より外
  有間敷候しかし申上候も手間取候事ニ候ヘハ赤田地当時
  水無之上かいとハ少もはしやき不申候間埒明申迄赤坂ヘ水
  ほり出水之分不残かけ又上かいとはしやき候ハゝ又上かいへ水
  遣かたミニつけ候様ニ可仕候其水之義ハ其組之頭[作兵衛 金蔵]
  両人ニ而はしやぎ方見合水つけ申様ニと申渡候得ば上かい
  と両人申候ハ只今かしこまりハ得不仕候新蔵も井下之義
  ニ候間新蔵へも申聞明朝御あいさつ可申上段申候翌日
  参あいさつニハ御役人衆より水赤坂へかし候様ニとの御了簡
  ニ候間成ほとかし可申候上かいと水なく時ハ上かいとへ御つけ可被下候
  又早々埒明候様ニ被成可被下候旨申候村役人申候ハ申渡候を聞
  届候ハ尤ニ候しかし役人より水かしくれ候様ニと不申候赤坂ひに
  やけ其元田地ニハ当時水有之事ニ候故御為すくニ候間
  おとせよと申付候事ニ候間其旨可心得候成不申心底ニ
  候ハゝ其段可申候夫ニ付而ハ存寄も有之由申候ヘハかしこまり
  申候故其通ニいたし置候其節両所より口上書認出候様ニと
  申付置候其後御願被下候様ニと上かいと申候ニ付成ほと心得申候
  申渡置候口上書早々出候様ニと申渡候其後両方より口上書
  出申候処盆前ニ差懸り御上納金等きひしき御さいそくニ而
  取あつめ旁々御用多候故のばり申候盆中又若キ者共 
 
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  さわぎニ付御代官様より御吟味有之右御断申上候得共御免
  無之月未迄かゝりやうく月中ニ相済申候故のはり申候
  いさい両所より之口上書留置口上書共ニ証文箱之内へ入置申候
 
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     ◯村方若イ者共さわきニ付御吟味之事
 
一 明和四丁亥七月十四日より若イ者共あやつり仕同十五日ニハ雨天
  ニ而知原川出水仕十五日一日夜ルまて雨ふり十六日之夜さわき
  申候ニ付十五日水前ニ苗木者家中家来等水ニきられ
  十七日ニ帰り申候ニ付家来等しくじり仕主人より世話有之
  候ニ付きこへ殊之外やかましく夫ニ付御代官土屋与次兵衛殿
  より高山村庄屋へ御状参十六日ニ参候得共水こし不申候ニ付
  十七日ニ届キ申候尤別ニ与頭七左衛門方へも御状参着水出候ハゝ
  七左衛門参候様ニと被仰下候得共七左衛門義本郷政五郎方ニい申候
  故得拝見不仕其御状十七日ニ一所ニ参申候村役人罷越候
  様ニと被仰下候則其御状此内ニ有り右ニ付与頭七左衛門御代官へ
  遣申候処御法度ハ相背申間敷候得共人寄セ仕候段不埒千万ニ
  候如何之筋ニ而人よセ仕候哉能吟味仕あいさつ仕候様ニと
  被仰下候あいさつからニより御上江可申候と被仰下候ニ付
  忰九平ニ又七左衛門相添[其日又 遣申]候処殊之外御しかり有之
  又々能吟味仕申上候様ニと被仰下候ニ付同十八日ニ吉右衛門
  小左衛門同道ニ而参上仕候処申上候ハ若イ者共盆おとり仕候而
  いつも盆ニは冷ミながら此辺之衆も見へ申候又町方其外奉公人
  共西方よりい申候者共ざいしよへたいとぼしニ参或ハはか参等ニ
  参候者共水ニきられとうりう仕い申候故其者共も踊場へ
  立寄村之人の外ニ他村立寄申候故ハ人寄り仕候尓て候
 
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  故人寄せ不仕と申申分ケ無御座候しゼん酒なと呑候ハゝ
  さいとりニ而もさし候哉不存候儀御法度之筋ハ相背不申候
  得共人寄セ仕候段ハ重々不調法千万申分ケも無御座候
  以後ハ盆ニもたいじたる盆等ハ為仕間敷候間御免被下候様ニ
  申上候得共中々御承引無之不埒千万くろはし共
  あらすに場中ニ木やなとかけ候段村役人も不存候と
  申分ケ立申間敷候且又村方之者共も子共さわき候段
  不存候と申候てハ相済不申候急度吟味いたしきぼ立候様ニ
  可申上候あいさつからニより御上江可申上由被仰付候
  ニ付立帰り又々村方吟味いたし候得ば村方申候ハ今度之
  義不調法申分ケも無之候此以後急度相慎不埒無之様ニ
  子共等へも堅申付相慎セ可申候間ともかくも達而御断申上
  被下候様ニと申候ニ付村方より村中惣印形ニ而書付取之
  御断申上候左ニ記ス
     差出申一札之事
一 当村若イ者共盆踊仕人寄仕候ニ付 御代官様より御吟味
  之段至極御尤奉恐入候村御役人衆よりも月々堅く被仰渡候
  所ニ不埒之義仕可申上様も無御座不調法千万ニ奉存候此以後
  左様之義急度相慎可申候間此度之義御内分ニ而御免被下
  置候様ニ達而御断被 仰上被下候ハゝ難有奉存候猶又以後御
  法度之筋諸事被 仰渡相背申間敷候以上
    明和四丁亥七月廿日    村中壱人不残
     与頭 小左衛門殿     惣印形仕候
     同断 七左衛門殿     并五人与頭印
     庄屋 吉右衛門殿  次判五人与頭之判
 
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七月廿一日ニ苗木へ
  右之通書付取之庄屋与頭不残五人与平助百姓代金兵衛召つれ参候而
  日比野庄屋西尾安左衛門頼御内意ニ御代官へ頼遣候処中々今日ニ而者
  相済不申候まだ四五日も過不申ぶんニ而相済不申様子ニ候よし承候
  左有時ニハ此人数不残参村方書付迄差出相済不申候へば
  外村役人ニ而も頼断候より外無之候此のび候義ハ外村ニ而も左
  様之筋もできかゝりい申候故其村へ之訳ケニ付早速相済し不被成候
  様子ニ相聞へ候故先ッ今日ハ与頭計壱人遣村方今日も寄セ候而
  吟味仕い申候おそなわり候而も能候段被仰候得共間御座候故
  ちよと御うかゝい御断迄ニ如此ニ御座候旨申渡し与頭七左衛門計遣
  夫より不残日ゝ野庄やより罷帰り申候夫七月廿四日ニ与頭[小左衛門 七左衛門]庄屋吉右衛門
  五人与金助百姓代政吉御代官様へ罷出御断申上右書付も懸御目ニ
  申候五人与頭百姓代江殊之外御世話有之右両人より此段役人立合
  村方へ申渡候様ニと有之候故惣五人江申渡五人与頭ニ而組下よせ
  堅く申渡候以後急度相慎申候様ニと今日相済申候 以上
  七月十七日より同廿四日ニ相済八日之間相済不申候七月廿五日ニ与頭
  [小左衛門 七左衛門]五人与頭作兵衛百姓代六右衛門右御礼申上候日ゝ野庄屋ニ而四人ツゝ三日
  セ話ニ成めし酒なとふるまわれ其上庄屋殿御代官様へ四五度も頼
  遣申候故右御礼として蔵紙壱束酒弐升さかなつと一つ遣申候
  御代官様へ御礼ニ参候節右日ゝ野へも御礼済申候御代官ヘハ不持候以上
 
    ◯尾州辺大洪水之事
一 明和四丁亥七月十五日大雨ニ而尾州大水入ニ而人馬何万人
  相果申候共相知不申候由道等くさく候而通れ不申候由
 
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  三州岡崎辺も大そんしニ而矢はぎの橋なとそんし申候
  よし此辺御領内ニ而も白川筋黒川辺井水田地等
  そんし候而御代官様岩井正助様御目付衆御勘定方下役衆白川へ
  御通り被成候坂下福岡辺江も御代官様土屋与次兵衛様御目付衆下
  役御勘定衆御出被成候由八月朔日之便りニ而承候処尾州御堀江
  水入其あまりはゞ下へ水入はゞ下よりひわ嶋へ舟ニ而かよひ
  申候由七月廿日迄御帳面ニ付候死人弐千七百人付申候由其外
  不知候川筋他領より流来候死人数を不知おひたゝ敷事之由
  川はたニ有之分ハ川へ打込流し申候田所へおし上候てハ其所尓
  うつミ申候候百五十年以前尾州様きよ須越之節之水
  是よりちいさく前代不覚大水之由三州ころも御屋敷半分
  こげ申候由町屋ハ壱軒も不残皆なかれ人皆相果申候
  よし数ハ相知不申由前代未聞之事之よし 以上
 
    ◯高山村勘十郎宗門帳面はづし願之事
一 高山村勘十郎ハ同村市左衛門実子二男ニ而生れ落シ頃より[同村 善蔵]
  方養ひ取則善蔵実子と自役帳ニ書上置申候願ニ付如此ニ候
  市左衛門母と善蔵父と兄弟故也市左衛門改名して孫蔵という
  勘十郎生長ニしたかい我かまゝ者ニ而善蔵手ニあまり申候
  ニ付市左衛門方へかへし子なき故又勘十郎兄をもらい引かへ申候
  市左衛門方へ引取候而もわかまゝ成者ニ而善蔵方ニい申候内より同村
  助蔵と申者娘ニちなミ宿へ入可申と忰ハ申候得共親元至極
  得心なく殊やかましく成勘十郎仕事等も不仕親を
  ふミ付候ニ付勘当も仕度親共申候得共有事ハ若キ者之
 
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  有習ニ而候ゆへこらしめ之た免中津川辺追出し置申候□
  明和三戌ノ年之事ニ而戌年より亥ノ七月迄中津川ニ居申候て
  いノ七月盆前ニ市左衛門方へ参右女おもひ切候様ニ可仕候間盆
  をさセくれ候様ニと申候ニ付ふびんニ存女ニひまさへくれ候へハとて留置
  候所皆うそニ而其上何角ニ付世話や食等もくわせ申間敷
  などゝ申候ヘハ大おこりニ而ひつ又ハやき物等にわへなげくだき
  申候故もはや市左衛門かんにん不致役人方へ追捨之義願申
  候て上江も御願申上候諸一門共折々異見仕候得共不通ニ
  不用大不埒者ニ付御願申上候一門共より口上書
 
        差出申一札之事
一 高山村金助組下善蔵忰勘十儀常々不届者ニ御座候故親兄弟
  ハ勿論諸一門共段々異見仕候得共中々相用ひ不申候諸一門共も
  見限り果申候ニ付宗門帳面はづし追捨申度奉願上候間右
  願ノ通被 仰付被下候様ニ御願被成可被下候以上
                 高山村勘十郎親
                        善蔵印
     明和四丁亥八月四日   右同村善蔵妹むこ
                        孫蔵印
                      右同村善蔵弟
                        定吉印
                      右同村孫蔵弟
                        作兵衛印
         同村与頭 小左衛門殿   右同村五人与頭
         同村与頭           金助印
              七左衛門殿
         同村庄屋
              吉右衛門殿
  右之届相認村役人へ差出候ニ付御願申上候願状左ニ記右一家より之證文
  御代官より受取證文かわこの内
             奉願上候御事
一 高山村金助組下善蔵忰勘十郎儀常々不届者ニ御座候ニ付
  親兄弟ハ不及申諸一門共度々異見仕候得共相用ひ不申候故宗門 ニ見限果申候
  帳面はづし追捨申度奉願上右願之通被 仰付被下置候ハゝ
  難有奉存候以上            高山村勘十郎親□
                          善蔵
 
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    明和四丁亥八月四日     右同村善蔵妹むこ
                         孫蔵
                  右同村善蔵弟
                         定吉
                  右同村孫蔵弟
                         作兵衛
                  右同村五人与頭
                         金助
                  右同村与頭
                        小左衛門
                  右同村同断 七左衛門
                  右同村庄屋 吉右衛門
    土屋与次兵衛殿
  右之願八月八日ニ被 仰付出水故十日之朝着申候願相済申候段願主共へ同日
  申渡候村方惣五人与頭へヶ様ニ被仰付候間以後村方ニよセ付不申候様申渡ス
  則御代官様より之御書付此内ニ入置候
 
    ◯西か洞類助方盗人之事
一 明和四丁亥七月十四日ニ類助方へ盗人入込家財不残取申候由
  所々相尋申候処八月ニ至て手懸り出来候ニ付村役人江
  願出申候苗木町名見屋作兵衛方へ高山定吉忰長太郎
  被頼はたぎ壱まいひちニ入申候由ニ御座候間御吟味被下候様ニ
  願出申候ニ付定吉忰長太郎よひよセ吟味仕候所勘十郎
  ニ被頼ひちニ置其銭酒くるミをかい残銭共七月廿二日ニ勘十へ
  相渡申候由ニ而夫より善蔵孫蔵よひ吟味仕候処勘十郎
  前方不埒御座候ニ付追出申候故何方へ参候哉相知不申候
  由ニ付善蔵孫蔵尋ニ罷出とらへ参川入候様ニ申渡ス
  定吉儀忰被頼候と申候てもセうこ無之候得ばうたがい
  懸り申候間罷出尋出し申分ヶ立候様ニ仕候得と申渡
  三人共ニ八月七日ニ尋ニ出申候処勘十郎并忠二郎忰常八
 
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  両人蛭川わた徳十郎[高山より参 い申候者也 藤助弟]方江立寄切井ノ方参候由ニ付
  [定吉 孫蔵]切井へ尋参候[善蔵ハ 中津川辺尋申候]処赤河犬地迄尋ニ参承候ヘハいづ
  ミ村さいれいニ参候とて罷帰中ノ方へ出申候由承中ノ方へ尋
  参夫より蛭川徳十方へ又立帰り候所徳十郎尋ニ参候
  咄仕候得ばあわてかけ出申候由夫よりいつ方へ参候哉相
  知不申殊ニ夜五ツ頃過ニ成候故宿へ帰候由ニ而翌九日朝右
  両人届ヶ参候ニ付又追かへし尋ニ出申候知原川七日より越
  不申候ニ付瀧坂口か黒川より飛州辺へ参候より外道無之候ニ付
  孫蔵定吉ハ黒川より付知かしもヘ出聞合飛州辺尋申候様ニ
  と申渡遣候又忠二郎も同日罷帰申候ニ付おしかへし尋ニ
  遣申候是ハ八ふせ通り田瀬通りを尋右両人ニ合次第ニ尋
  候様ニと申渡遣候忠二郎瀧坂越不申候ニ付ひめくり川合まて参候へ共
  通り不申由ニ付罷帰り申候ニ付おしかへし八ふセ通り両人ニ合次第ニ
  参候様ニと申付遣申候右三人之者得尋当り不申十一日ニ罷帰り申候
  右勘十郎儀追捨之願申上置候処八月八日ニ願之通被 仰付候
  処知原川満水ニ付十日ニ御触状到着申候ニ付其日善蔵
  孫蔵呼右之段申渡ニ付もはや尋させ不申候おいすて候義
  両人之子ニ而無之村之者ニ而無之候ゆへ也其翌日十一日ニ惣五人与頭
  [平六平助孫吉金助 作兵衛平七新助]右七人ニ村江寄付不申候段急度申渡候
 
一 八月十二日ニ平助を呼村役人三人立合ニ而[与頭小左衛門 七左衛門 庄屋吉右衛門]申渡候ハ此度之盗人尋ニ
  出申候処得尋当り不申段ニ候得共夫ニ而ハ相済不申候間又々尋ニ出
  候様ニと申渡し尋ニ出申候得共風をくらい逃のび申候故手ニ入不申候
  由ニ而罷帰り申候善蔵孫蔵儀ハ追捨之願相済手前之子ニ而無之候故
  尋申間敷候定吉儀忰盗物ひち之使仕候得共是も子共之義
 
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  ニ候得共うたがい懸り申候故尋ニ出候得共其方達願申候ハ盗人
  両人と見へ申候由願申候処忠二郎忰勘十郎と同道仕村を出候より
  行帰りはなれ不申候故ハ両人と相見へ申候左候ヘハ弐人の都合も
  合ひ殊七月十四日ニ盗取候夜ハ定吉親子之者若イ者右わきの
  場ニ朝迄い申候由ニ候得ば此うたかいもはれ候様ニ見へ申候忠二郎義も
  子追捨之願も申度由申候いまた願出ハ不仕候得共内願申候兼々
  忠二郎願不申とても其ぶんニハ相済不申忠二郎子追捨候へば
  吟味も相済申候間左様ニ心得候様ニと申付候ヘハ成ほと左様ニ而候ヘ共
  弟申候ニハ定吉子取次を仕候義心外ニ存い申候故申聞セ追而御あい
  さつ可申上候由申候役人申候ハ役人之吟味方ヶ様より外無之様ニ見へ
  申候外ニ承候義ニも存付候義ニ而も心得かたき事候ハゝ可申出候
  有無之返事追而申候様ニと申渡し帰し申候
 
一 八月十七日類助罷出申候ハ大方御吟味も落着候間差置候
  而可然様ニ被 仰候得共長太郎をとらへ御吟味申上候事ニ御座候勘十
  豊八ニハかまい無之候長太郎方御吟味被成うセ物出候様ニと被成
  被下候へと願申候ニ付大方吟味もつミ様ニ見へ申候故とられ候
  品不残定吉わまへ之様ニとハ得不申候間あいたいニ可致由七左衛門
  申渡候頼申候ハ先年御寺様方ニ而盗取候節諸一門共より出候事ニ
  候へハ例も有之候と申候ニ付七左衛門申候ハ夫ニハわけも有之殊ニ御寺ノ
  儀ニ候故其通りニ成候それと其元と同様ニハ不参候事ニ候よし申候
一 八月十七日定吉をよひ右忰不埒成取次物仕候ニ付右くわたいニ
  不届過料として銭四百文明朝迄ニ持参候様ニ申渡候ヘハ畏候而
  被帰り申候
一 八月十九日ニ忠二郎をよひ申渡候ハ忰豊八郎義盗人勘十郎ニ初終
  つきしたがいぬすミ取候品之代をくい付廻り候義不届千万
 
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  同ざい之者ニ候殊ニ盗人弐人と平助願出候上ハ豊八郎のかれなき盗人
  ニ御座候間早々宗門帳はづし追捨候様ニと申渡候若延引ニ
  及候ハゝ親ニもなんだい懸り可申候明早朝ニも願出候様ニと申渡候へバ
  畏入申候明朝願出可申候由畏帰り申候忠二郎ニ申渡候ハ若延引ニ及候ハゝ
  役人役筋ニ候故役人より申上候而ハ其方なんきも懸り可申候間
  早々願候様ニと申渡ス同廿日ニ五人与頭孫吉を以願出申候ニ付忠二郎
  より証文取之願状ニ相添願上申候下書
      差出申一札之事
一 高山村忠二郎忰豊八郎義常々不埒者ニ御座候ニ付親并諸一門共
  度々異見仕候得共中々相用ひ不申候ニ付宗門帳面はづし追捨
  申度奉願上候間御取次御願被成可被下候親一門共見限果
  申候ニ付如此御座候以上
                          高山村豊八郎親
       明和四丁亥八月廿日              忠二郎 印
                          右同村忠二郎又いとこ
                             藤助  印
                          右同村五人与頭
                             孫吉  印
         同村与頭 小左衛門殿
         同村与頭 七左衛門殿
         同村庄屋 吉右衛門殿
  右之証文取之願上状ニ相添上ヶ申候願下書
        奉願上候御事
    一 高山村孫吉組下忠二郎忰豊八郎儀常々不埒者ニ御座候故
      宗門帳面はづし追捨申度奉願上候右願之通被 仰付
      被下置候ハゝ難有仕合ニ奉存候以上    高山村豊八親
            亥八月廿一日           忠二郎  印
                          右同村忠二郎又いとこ
                             藤助   印
                          右同村五人与頭
                             孫吉   印
                          右同村与頭
                             小左衛門 印
                          右同村与頭
                             七左衛門 印
                          右同村庄屋
                             吉左衛門 印
       土屋与次兵衛殿
 
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   右願之通八月廿三日ニ被仰付候ニ付本人ニ申渡ス同村惣五人与頭不残
   呼よセよセ付不申一宿之宿も仕間敷旨急度申渡候則御代官より之
   書付此内へ入置申候
  右之通ニ而相済申候いさい之儀ハ見聞日記ニハ記不申あら
  ましの事仕申候初終つぶさ成書付ハ証文かわごの中へ入置申候
  以上
      明和四丁亥八月廿一日
  御郡方[東方為右衛門殿 伊藤与惣右衛門殿]御代官土屋与次兵衛様庄屋吉右衛門与頭[小左衛門 七左衛門]也
 
     ◯高山村郷倉普請之事
一 古蔵今年迄ニ百五年ニ成[延宝元年丑ノ 八月古蔵立申候]右蔵作り方常家作之通
  之作方殊ニ古井戸ノ上の田ニ有之候蔵を中田へ引申候古木ニ而作り申候
  ゆへ殊之外損じ久々こらへ申候所もはやこらへられ不申候ニ付此度新タニ
  新材木を以作り申候古蔵ハ屋根裏板なしかべ半かべ也戸口壱つひさしゑん也
一 明和弐酉ノ冬より願入置同[三丙戌二月 酉頃]春願状上ヶ申候[願状ハ下書帳十印 之帳ニ有之候]
  木数九十三本上ヶ林之内ニ而被下置候様ニ奉願上候処木数あまり
  多く候由へらし願上候様ニと被仰付戌ノ五月木数へらし六十四本奉願上候
  尤吟味之上古柱等ねつぎ仕上道具も何何本くとなのり願候様ニと
  被仰付候尤御見分之上可被仰付候よしニ御座候
一 右古蔵御見分被仰付候ニ付古柱上道具等御改御覧被成候ニ付請書
  仕上ヶ申候亥七月九日下御目付曽我九郎治殿佐々木半内殿御出
  御改被成候其後願之通ニ被仰付御礼申上置候
一 右材木願木明和四丁亥二月四日御山奉行[新田金平殿先役 佐々木次兵衛殿]御出被成
  本木数六十弐本御改被成御渡し被下候所ハ西か洞上ヶ林中屋上ヶ林すか沼
  上ヶ林神田上ヶ林右四ヶ所林ニ而不残被仰付候のひの能キ三玉余もとれ候
  木林中の大木計申請候故沢山ニ木道具御座候
右是迄之下書ハ十印下書帳ニいさい有之候
 
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一 杣取之義札入ニ仕候亥四月三日四ッ時そろいニ而札開申候落札高山弥平
  札ニ落弥平へ杣取申付候札数九まい 一 三分拾五匁高山弥平 一 壱両三匁高山新助
一 壱両三分壱匁五分高山太次右衛門 一 壱両弐分七匁八分高山曽七 一 壱両三分五匁福岡甚七
一 壱両三分七匁五分高山茂兵衛 一 壱両三分六匁高山曽兵衛 一 壱両弐分三匁高山喜助 一 壱両
  壱分八匁下野村まんば銀之右衛門メ九まい也木の取方いさいに先達而注文仕置書付
  弥平ニ相渡し申候亥四月九日吉日ニ付杣入仕候右こば廻りニ五人与頭廻り番
  ニ而遣候与頭衆両人も見舞申候うら木打出し之義ハ不残庄屋吉右衛門方取申候
  兼而入札之節申渡し置候新助組作兵衛組両組ニ而作り出し出シ金のさしくわへニ仕候
 
一 右材木出方亥六月廿日より出し懸り一日ニ弐組つゝ出其五人与頭奉行仕
  出さセ申候与頭衆ちよこく見舞申候古蔵の前後へ持届ヶ申候
 
一 大工入札ニ仕候蔵さしす板こしらへ作方一切極之書付壱通仕大工衆江
  入札之節相見セ札入さセ申候さしす板作り方一切之書付ハ証文かわこの内ニ有
                         杣取一切証文書付共右同断、
  落札苗木町大工惣十郎也銘々札左ニ記 一 五両三分拾匁福岡長二郎 一 六両三分
  十四匁五分下野村まんば百助 一 五両三分苗木町惣十郎 一 七両十弐匁九平次
一 六両三分十三匁五分福岡弥惣 一 六両弐分九匁七分田瀬甚左衛門 一 六両七匁九分
  九厘高山作十郎 一 六両丸匁九分五厘高山円助メ八まい也[明和四丁亥年 七月朔日札開]
  右人数五人与頭七人[平六平助金助作兵衛 新助平七孫吉]組[小左衛門 七左衛門]庄屋吉右衛門御代官
  土屋与次兵衛殿御郡方[東方為右衛門殿 伊藤与惣右衛門殿]也右札開之節大工衆ニ一汁三
  さい之食ふるまい酒ふるまい申候
 
                    手斧して直ニ被帰七月十七日ニ来ル
一 御蔵手斧初七月六日也大工[惣十郎 長二郎]被参吸物ニ付食ニ而酒ふるまい申候
                                       廿二日廿三日まてい申候
  七月十七日より取懸り大工[宗十郎弟子文七 ふくおか長二郎 高山作十郎]同八月廿日ニ立申候廿一日ニうら板打土あけ申候
 
  村方より大工振舞八月十三日一汁三さい吸物酒さかな五品セうばん両頭衆八月
  廿日蔵立申候日いわいとして茶めしふるまい申候一汁三さいニしてセうばん
  両頭五人与頭七人吸物酒さかな三種也大工衆人足懸り七月十七日より八月廿二日迄
  工数百十五人ほと懸ル
 
一 同廿四日より村人足計ニ而へい下地仕へいぬり申候八月廿□迄ニぬり終り申候
 
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一 御蔵板栗の木うふすな宮かし烏ふちニねこき見事成大木壱本出来申候
  ニ付御蔵挽板ニひかセ申候木挽円助引申候壱寸板百九十一まい八分板六十
  四まい外ニ大割有惣板メ弐百五十五枚外ニとうす木六十八丁ひかセ置申候
  御金壱両三分十五匁八分七厘両ニ六十五通り尺廻し百弐十七通り八分七厘之代也
  円助より目録書付取置之候宝十一巳四月八日書付取代払申候右之代金ハ
  同暮村より割賦ニ而出し申候木挽ヘハかり候て相渡し申候当い迄七年目板つか
  い申候此板ニ古板たしつかいたり不申又此度松板円助ニひかセ申候処円助不埒有之
  ニ付六尺弐寸板廿一間ひき候計ニ而円助ニ者ひかセ不申候木挽ハふくおか八ふセ小市郎ニ
  ひかセ申候いノ閏九月十一日より廿日迄ニ長板九尺五寸板九間并六尺弐寸板板子壱まいひ
  かセ申候日数九日半也
 
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     ◯高山村木挽円助御蔵普請引板ニ付不届之事
 明和四丁亥九月
一 御蔵普請御座候ニ付宗十郎ニ被頼御蔵ニ而木挽仕い申候かべ板敷板ハ
  前度引置候板有之其たし板為持大工江相渡し申筈ニ候ニ付右
  円助五人与頭平助を以願候ハ外なミのちん銭ニ而挽可申候間私ニ
  為挽被下候様ニと願申候尤当春庄屋大かいとふしん板引申候八ふセ
  小市と申木挽も願申候ハ為挽被下候様ニと願申候此小市ちん銭ハ
  分ニ十六日かへニ而払申候此者も願候へ共村之木挽ニ候間ひかセ可申と
  申惣五人組頭両頭江相談いたし十日ニ壱匁ニ壱升ふちニ而渡し切ニ可仕
  とて其旨円助江申渡候ニ付挽申候其後円助庄屋へ参
  申候ハ私義もまだ三五年も達者ニ而木挽可仕候か苗木辺ニ而ハ
  各別之ちんも取申候所ニ一日ニ壱匁壱升ふちと申候訳相聞候而ハ
  私セうばい之じやまニも成候間ちんハどふても能御座候へ共
  只今之訳御座候間間引ニ成共又ハ通り引ニ成共御相談
  被成被下候様ニと願申候庄屋申候ハ至極尤之義ニ御座候定
  之高ハ定りい申候間何れ共相談仕其元之セうばい之
  しやまニ成不申候様ニいたし相談いたし可申候と申渡置候得共
  折節殊之外御用取込殊ニ八月勘定ニ取懸り取込い申候
  早速も相談得不仕候夫より段々引ミじか板引しまい候而庄やへ
  参円助申候ハ先達而願申候儀御相談被成被下候哉と相尋
  申候ニ付庄屋申候ハ殊之外セわ敷いまた相談も不申候
  今廿八日ニハ惣五人与頭月寄合ニ参候間両頭共まねき相談
  可申候相定候高ハ相知い申候間出情いたし引可申候間ニ何間
  引と相極候而も情出引候へハ其元為ニも成候何分
  出情挽可申候様ニと申渡候所円助畏帰り申候而夫より其翌
 
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  翌日定使与平ニ申越候ハ私も見じか板之分ハ引申候組勘定ニ
  ひまも入申候間もはや今日切ニて御いとまもらい申候間外之人江
  御相談被成被下候様ニと申越候若あい不申筋者又八相談
  なくて得引不申筋ニ候ハゝ其段願見申候て願聞届ヶ
  不申義ニ候ハゝ今日切ニ而いともらい申度外江相談致セふと
  申義も候半が相談いたし可申と申候所ニあまり不埒成
  申方ニ候故九月廿二日ニ惣五人与頭両組頭よセ円助よひ寄セ
  吟味いたし候所いちくまけ事なと申候申たる事も不申と
  申又不申儀も申候なとゝまけ事申候其上私ニひかセ被下候
  様ニと五人与頭平助を頼不申候なとゝ申又定使与平ニ左様
  成事ハ不申上なとゝいつわりを申候ニ付五人与頭平助定使与平
あいたいさセ
  引合セ吟味いたし候所与平平助ハセうこ人も有之申分ヶ
  仕いよく五人与頭へ願候も与平ニ申越候も慥成事ニ而円助
  不埒ニ相見へ申候得共中々まけ事なと申候ニ付惣役人
  相談之上左様ニ而ハ御蔵普請差支御納所も成申間敷候間
  右之段御代官様へ申上候筈ニ相定り組々ニ而も惣百姓老
  寄も聞候へ右之段もしらセ候様ニと惣五人与頭ヘ申渡し候弥又平助
  組之者之義ニ候間組下へも能申渡円助へもしらセ置候様ニと申渡
  弥申上候ニ相定り候惣五人与頭よりあいさつ有之候ハ円助甚不埒ニ候
  間被 仰上可被下候段あいさつ有之弥可申上ニ相定り候所平助
  組より音右衛門長兵衛平助三人罷出申候ハ円助義甚不埒成義申
  至極不調千万ニ御座候依之達而御断申上くれ候様ニと円助
  殊之外きのとくかり申候由断候得共あまり不埒者ニ候故早速
  あいさつも得不致候平助方惣五人与頭大頭衆方へ断申見候
  而惣役人方了簡も可有之事と申請付不申候ニ付
 
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  平助方へ断相立惣五人与頭へ断相立両頭衆方へ断申候由ニ付
  惣五人与頭両頭衆庄屋へ罷出断被申候ニ付惣役人相談之上ニ而
  円助義まげ事多ク申仁候間証文之上ニ而相済シ申筈ニ成
  証文壱通取之候尤此方より案文も出シ申候其上惣役人之前へ
  円助よひよセしかり申候此以後不埒有之候而ハもはやゆるし
  不申候此以後一組中ニ相背不申組寄合等ニ出急度何事も
  相慎候様ニと申付七左衛門より申渡候ハ板之義引候板切ニて
  もはや跡板ハ引申ニ不及候外之者ニひかセ可申候其元ニハ
  ひかセ不申候由申渡候相済シ申候円助ニひかセ不申わけハ
  吟味いたしいろくセんき仕候上ハ円助廿二日ニよひ候節申候
  通りニ而ハミしか板一日ニ壱間ひきとして壱匁壱升ふち通り引
  なれバ両八十通りより安くてハ得引不申と申候前以一日ニ
 
  壱匁壱升と請置一日ニ壱間びきとハあまり高直成申出ニ候
  外之木挽一日ニ弐間ツゝハ当春も庄屋ふしんニ而もひき申候処
  一ばいの違ニ候然時ニハ此不埒吟味いたし候上ハまけよと
  申候ハゝまげ事申円助ニ候へハちんをまけさセ可申びんほうニ
  いため申候なとゝ可申ものニ候又申通りニ而ハあまり高直ニ候
  故とかく円助ニひかセ候事成申間敷と申相談ニ而ひかセ
  不申段申渡候殊ニいまたなまべいの蔵ニ候へハまづへい計ニ而当年ハ
  米つミ重而板打候様ニ仕候而も不苦候事ニ候故ちん安ニ而挽候
  木挽有之候ハゝひかセちん高く候ハゝのべ可申と申相談候
  明和四丁亥九月廿四日惣五人与頭ハ平六平助孫吉金助作之
  新助平七両組頭小左衛門七左衛門庄屋吉右衛門御郡方
 そへ役[東方為右衛門様 伊藤与惣右衛様]御代官土屋与次兵衛様也
 
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    右円助より証文証文かわごの内十番之印之袋ニ有り証文之末ニも
    不埒成訳委ク書付置申候
 
     ◯諸くわんじんものもらい一切御領分へ入不申様ニ被仰付之事
 
一 明和四丁亥閏九月十八日ニ被 仰出候ハ当領内江諸くわんじんものもらい
  之類一切入申間敷候若あやしき者有之ハ村次ニおくり出し可申候
  右之趣寛保年中被 仰出候由猶又急度相守可申旨被 仰付候
  先年従 上御渡し被成候札見江不申様成村も有之候ハゝ役所江
  可被相届候右通被 仰付候間可被得其意候以上
                   土屋与次兵衛
      亥閏九月十八日
          蛭川より坂下下組迄右村々庄屋中
  右之通被 仰出候ニ付村中呼水のミ非役之者迄此以後諸くわんじん物
  もらいニ一切くれ申間敷旨堅く申付候閏九月十九日
  寛保二壬戌ノ九月村々江 御上より御札一枚ツゝ御渡し被成候ニ付制札
  と一所ニ打置申候其文左ニ記
       覚
  当領内江諸くわんしんものもらいの類一切入申ましく候
  若あやしき者有之ハ村次ニおくり出し可申事
    戌ノ九月  如此ニ御書御渡し候被成候以上
 
    ◯中ノ方村つりかねいなをし之事
一 中ノ方笠木山大権現神前之かね此先キ之かねハ貞享四丁卯
  年ニ而当明和四丁亥年迄八十一年ニ成由当いノ夏八月廿二日頃ノ
  夜ル何者か打くたき盗取候由からめ取可差出うたかわしき風
  聞有之候ハゝ早々可申出旨郡奉行所東方為右衛門殿より御触有之
  候所中之方蛭川笠木近辺之村々江被 仰付相尋候所山之内ニ打
 
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  くたき置候を見出し注進申上候いろく御吟味有之候得共
  盗人相知レ不申候かね貫目書付きり付有之候所貫めたり
  不申候由ニ候右之かね明和五年之春いなをし申度旨ニ付
  御上江御願申上中ノ方より勧化ニ一組三人ツゝ相廻り申候御領分ハ不
  及申ニ他領へも八組奉加ニ出申候由御領内へも四組出申候由
  高山村へ亥九月廿日夕方ニ来廻り宿ニとめ申候三人三宿ニ泊ルちわら
  弐軒[八十三 政五郎]下切ニ而一宿泊り申候翌日より村壱軒くニ奉加仕候
 
     ○蛭川村庄八立帰候ニ付御吟味御仕置之事
一 明和五戊子年七月十八日罷帰り直ニ御代官土屋与次兵衛様
  罷越段去辰ノ年之次第を噺申上候所不存事
  ニ候間蛭川村役人江手紙遣可申候間是ヲ持寄
  参候と被仰候而たまかし被遣夫より七月廿日取手
  衆下目付高井四郎兵衛被遣手しやうヲおろし成候
  而同廿四日ニ御呼寄被成候人数庄屋組頭五人与勘十
  茂兵衛作二郎甚左衛門[勘左衛門 表人]数ニ而庄八ヲつれ参候
  番之者四人高山村より平助庄屋与頭五人与代定右衛門
  右四人其日御役人衆中ニハ東方為右衛門様伊藤与曽
  右衛門様御同棚橋弥市様曽我勘平様西尾団右衛門様
  小栗左市様御遊筆青山左次郎様御代官土屋与次
  兵衛様下目付山内伝右衛門殿小頭衆三人足かる
  八人中間四人庄八ヲ御尋被成夫より茂兵衛作二郎
  段々高山平助を御尋被成候庄八ハ切候者へ少々
  金子出候而蛭川之百姓ニ成申度と願申候一家ハ
  百姓ニ被成事御断申上候礼切レ申候節ハ行方
  相知不申候故是非なく存居申候得共此度帰
 
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  ニ而貌を見候得者かんにん成不申候由何れも申上候
  又庄八御呼出候而其方が願相成不申候何れもへ
  御尋被成候所其義ハ相成不申候と申故願之筋
  相成不申候と仰渡シ手しやうおろしかへ被成候而御帰し
  被遊候故同道仕帰申候所知原川はたニ休い
  申候所役人其所へ参申候得者直ニ庄八者立
  夫より大かいとてわ迄番之者つれ参候所ようもん
  ニおり申度と申候ニ付相待居申所道下
  江入山ニ而はしく成候間相待候得者川之方へ
  いさんニはしり申道よりおつかけ申候得者
  川へとひ申候故よはり両川へたを下り
  申候而下こふちニ而引上申候けがもなく
  其日暮ニ而蛭川へつれ帰り申候蛭川人足
  おそく故当村より金助喜兵衛常助三人
  加勢ニ遣申候こたまより帰り申候
一 同廿五日又蛭川村召呼被成候而庄八甚左衛門家ニ
  火付候事御尋御せめ被成候由承及候
一 同八月四日蛭川御呼被成候ニ付平助御用
  之由御代官様より三日朝御手紙参申候平助
  与頭壱人御呼被成候前度御尋候ニ違ひ無之由
 
  同月十三日御せいはい被 仰付御役人衆ニハ
  御目付西尾円右衛門殿御代官土屋与次兵衛殿下目付
  山内伝右衛門足軽西尾茂助幸纈文右衛門楠藤蔵
  申取曽我林七中間三人メ十人前日ニ雨天ニ付
 
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  高山村迄御越御泊り翌十三日蛭川村へ御越庄八郎打首ニ被仰付候所ハへぼ
  かいとゝ申所也其外一家中ニたゝりなし
     ○水論[上かいと弐軒 あかさか一軒]出入御さばき之事
一 高山村赤坂上かいと井論ニ付子八月廿五日御役人衆
  御出被成候 御目付西尾円右衛門殿御勘定
  藤田次郎兵衛殿御代官土屋与次兵衛殿下目付
  佐々木半内佐々木市兵衛右五人御見分被遊候
  同九月廿五日井下三人五人与頭弐人庄屋与頭共ニ
  伊藤与曽右衛門宅江被召候而御奉行様御代官
  市兵衛殿半内殿五人御立合ニ而被 仰渡候ハ右論
  所堀出し候石土之分うめ申候様ニ水ハ何れ江
  落申候共其者ミゝたふ次第候間明日役人
  被遣可申候間井下五人与庄屋与頭立会うめ申
  候由被仰付候同廿七日佐々木半内殿御出右石
  ほり出候所江あか土入其上江石ヲ入元之通り
  御うめ被成候而其上ニ植木被 仰付杉桧六本
  御植被成候御請書仕井下五人与与頭庄屋形印
  致差上申候以上
 
     ◯佐見上り地江御出之衆御尋ニ付申上候事
一 享保十七壬子年 佐兵衛様御分知上ヶ地ニ被 仰付候其後
  明和五子年御郡奉行衆より御尋ハ先年佐見上り地之節
  御出之方々どなた様御出其節となたハかごとなたハ馬并年号
  ト月日共ニ触状写ニ可有之候間申上候様ニと日比野村庄や西尾安左衛門
  御尋ニ付 吟味仕候得共日比野ニ而も相知不申候よし申上候所ニ郡奉行
 
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     覚
一 東方為右衛門殿    駕籠
一 熊沢条右衛門殿    馬壱疋
一 棚橋弥市  殿    同壱疋
一 山中重蔵  殿    同壱疋
一 桃井瀧右衛門殿    同壱疋
一 青山新吾  殿    同壱疋
一 御台所江人足     壱人
一 服部孫右衛門     壱人
一 佐々木治兵衛     壱人
一 御奉行   くつかこ 壱人
        挟箱   壱人
 
  メ     馬五疋
        人足九人
  以後六日朝六ツ過御出被成候
    子十一月五日
 
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  衆被 仰候ハ其元ニ而相知不申候ハゝ高山村庄屋吉右衛門方へ相尋可申候
  高山ニ而ハ相知可申旨被仰候由日々野村庄屋西尾安左衛門より以人其旨
  申越候ニ付吟味いたし候所享保十七壬子九月御出被成候義見聞
  日記二ノ印の帳面にいさい有之候ニ付書付遣申候下書左ニ記
  御分地五百石佐見郷[吉田寺前大野小野右四ヶ村也 後ニ新田御返し其代りニ下野村上り申候]
  享保十七壬子九月御出之方々
  陶山丈左衛門様御かこ一丁  中原幸右衛様[御馬 一疋]藤田守助様[御馬 一疋]小木
  曽藤右衛門様[御馬 一疋]大嶋源左衛門様[御馬 一疋]子九月六日苗木ニ御帰り被遊候
  右之通ニ御座候ニ付書付仕差上申候 以上
 
 右之通ニ御座候故写し遣申候間御差上ヶ可被下候 以上
                       高山村 九平
    明和五子十月廿八日
       日比野村
           西尾安左衛門様
    明和六己丑七月朔日蛭川村事
 
一 七月朔日蛭川村ニおゐておこし甚右衛門西方田之向ニ
  平石之こしニ女ヲ切ころし有之由ニ付御届有之
  苗木御役人衆御けんしニ同日御出被成候人数
  御目付山中藤磨殿岩井正助殿御代官土屋与次兵衛殿
  下目付勝部孫右衛門殿足軽三人中間弐人そうり
  取壱人都合十人御越被遊同三日朝御帰り
  候所知原川水出候故当村ニ一宿被成翌四日
  早朝御越被成候右之女ハ桃井文兆殿下女ニ而
  中津川宿之者名ハおか祢と申候切候者ハ
  蛭川村甚右衛門二男苗木町吉野屋新兵へ
 
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  方□下男之由ニ相見申候此者同日欠落仕候ニ付新兵へ江
  被 仰付相尋申候様急度御申付同二日はん人ヲ
  つれ尋ニ罷出候由承候同国郡上ニ而手入候ヲすい共
  取にかし申候而帰申候所殊之外御しかり被成夫より
  又罷出申候所同所ニ而とらへ七月十五日ニつれ罷帰り申候
  所知原川水出仕ニ付当村ニ一宿仕候宿与頭
  七左衛門ニとめ申候吉野屋新兵へ番太三人ニ而と満り
  申候村方番之人十五人与頭弐人五人与二人蛭川村より
  番二人都合二十弐人ニ而番仕翌朝川越申候
  日出ニ越申候其日御尋被成候所ありていニ申上
  らし者仕候蛭川村よりめしくわせ候計ニ被仰候
  付之善助義同八月廿三日たき場ニ而打首ニ相成申候
  右之女桃井文兆様ニ下女中津川之者ニ而尾州様江
  被 仰遣候所ニ死かい中津川江引取申様ニ被 仰付中津川
  より下問屋長右衛門年寄土屋与市右衛門人数五十人
  計り参蛭川村ニ而土ヲもらい取置罷帰り申候
  御代官土屋与次兵衛下目付曽我九郎次蛭川江
  御出被成候右中津川之者土もらい之願状差出し
  申候由証文等も仕候由承候善助父兄弟ニもよるひる
  三人ツゝ番付居申候得共何之御かまい無相済
  申候
 
一 飛州御代官様御代り被遊明和六己丑八月
  廿日福岡村御通り被遊候筈之所上地川満水
  ニ付廿二日脇通り被成候ニ付助人馬高山村ハ
 
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  弐拾五人ト馬弐疋申遣ニ付先格ニ無之候間得
  勤不申候段御代官様江小左衛門ヲ以申上候所ニ
  福岡村より先格ニ候間相頼申候由申来候先格候得者
  此方より申付ルニ及不申候其元より申遣様ニと申遣候
  何れニ而も先格ニ可致候其内此度も急成事ニ候得者
  達而頼上申事ならば相勤可申候様ニと御申
  被成候ニ付右之人馬相勤申候翌日九平罷越右之段
  申上候所只今迄三度も相勤め申候得者先格ニ相成
  申候其時御代官所より此度計りと申候共書付成共
  取置候ハゝ可然候其義も無てハよろしからす候
  其内福岡村江状通ニ而此度ハ御頼ニ付相勤させ
  候得共此後ハ一切相成不申候間左様相心得可被成候
  与申遣手紙之返事取置可申候由御申被成候
  右之通り福岡村江手紙ニ而申遣候此使直七返事
  遣候所御挌ニ無之候得共前度も御助被下候ニ付申
  近々重而ハ何れニ而成共御上様江願申候而相願申候との
  返事ニ候四月廿八日与頭七左衛門ヲ以御代官様江
  右遣候手紙下書ト福岡より返事と御目掛申候
  所是ニ而先格ハきへ申候間随分能取廻し可申候
  由御申し付被成候御代官様被 仰候者福岡村
  庄屋仲右衛門与頭善左衛門両人参候而申候者高山江
  申遣置候高山村之義北方西筋江御地頭様御用
  多入申候之節ハ私共村方より助遣可申候間申被遣候
  様ニと申候事候由申候間多入申候節ハ頼可申候
  様ニ御申ニ被成候尤高山より遣候返事ニハ先格
  ニも無之由計りニ而相互ニ可仕候とハ無之候得共
 
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     乍恐口上之覚
一 高山村定八郎事村役人共親類共
  存念ニ不叶候ニ付宗門帳面除之
  願仕帳除申候前度
  御前様御家敷ニも御差置被下候
     右之段
  ニ付御届ヶ申上候以上
               高山村
     寅
       七月九日       庄屋
                  与頭
   高五郎左衛門様
 
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  御代官様ニ者右之通申被上候由土屋与次兵衛様七左衛門
  江御申ニ付被遊候以上右之返事下書共証文箱江
  小袋ニ仕入置申候以上
 
一 次左衛門与下定八郎母明和六年己丑八月より段々近所
  田畑之作いろミ申候者ほこき申候ニ付一組中之者共
  気を付候所九月朔日ニはんとらへ申候而定八苗木ニ居
  申候ニ付よひ寄申聞候所母義ハ津戸之一家共江預ヶ父ハ
  私かいほう仕向後御世話懸り不申候様ニ可仕候間内々ニ而
  御済被下候様ニ浅右衛門孫蔵ヲ頼断申候得共一組之者
  右立合両人之請判ニ而証文被差候ハゝ相済可申候由
  申候得共両人加印仕事得不仕候と申候ニ付相済不申候
  与頭七左衛門江申出候同三日庄屋元江出申候右者一義定八
  叔父村方ニ居不申候得者事相済候様成物ニハ有之間敷候
  申上候而帳面はすし村方ニ居不申候様ニ可仕計り之事ニ候間
  其通ニ可仕候由申渡し乍併家中一段七左衛門左様之事
  申聞候得共得心不仕候由其後又々右両人之者共断ニ罷出候
  ニ付此間申上候一義内々ニ而相済候様ニ致度由申越候左
  候得者与頭申聞セ候義ヲハ相もちい不申候段甚尤ニ
  不存候乍併内分ニ而相済候事殊ニ壱人之者うかび
  候事ニ候得者内分相済可申候左候得ハ与中より一札ヲ
  差出可申候定八よりも一札取父子加印取可申様ニ申付
  則証文二通役所ニ預り置申候有所ハ証文御くらニ入
  置申候以上
 
一 近年諸浪人諸勧化ものもらい類多困窮之時候
  節村なんき仕候ニ付右浪人わり銭三文程ニ御極メ
  之御張紙願申度由御代官様へ御頼申候所同役中
  共相談可仕候由御申頼候所壱ヶ村計之願ニ而ハ何れ
  共ニ相済不申候間左も存候ハゝ御領内中申合相願申
  候様ニと之御事ニ付西方へハ蛭川村庄屋申遣候奥筋
  へハ福岡村庄屋申遣地廻へハ日比の村へ申遣候所町方
 
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  より廻状相廻シ申候而あわや利右衛門方江寄合五ヶ坂下蛭川へ
  地廻不残寄合仕願書差上申候而左相成下書仕候
  蛭川村よりはしめ下組より差上申候右下書証文箱ニ
  あり右願之通り被仰付御張紙被下置候是共
  一所仕り置候
 
一 次左衛門与下定八郎母両人共人柄不宜ニ付組中より帳面除之
  願有之母義ハ津戸哥知浅右衛門殿長右衛門壱家ニ付母壱人ハ帳面
  書付置可被成候様ニ長右衛門方迄組より五十人を遣候所此方ニ而も相談
  仕候所得受不申候段申遣候夫より願状差上可申筈ニ御代官様へ
  御内申上参又々念ニ候間津戸江申遣候様ニ被 仰付候ニ付五人与
  善治両人遣長右衛門江御尋可被成由申遣夫共得御付不被成候ハゝ其段
  書付ニ致被遣候由申遣候所是ハ得不仕候と之挨拶ニ御さし之
  由申上候様ニ左様なら者其分ニ差置願書差出可申と之
  仰付ニ付願状四月二日上江参同四日被 仰付候定八一組中呼
  寄其段申渡シ候一組中口書取有之候以上
  明和七庚寅ノ四月三日
一 蛭川村日かけ平蔵ト申者近年十五六年茂きとう又ハ
  ましない等致シかきやうニ致居申候苗木御家中江別し而
  入込殊之外てうわい被成候所東定右衛門殿下女ニきつ祢ニ
  付申候而仏光寺御きとう被成候由下女申候ハ蛭川村
  平蔵が付申候と申ニ付平蔵呼寄仏光寺様被仰候ハ
  其元付候由下女申候ハ弥左様候哉有体ニ申候と御尋被成候ニ付
  弥左様候由申にけ候を追懸ヶとらへしはり候而蛭川へ
  申被遣候村役人人足をつれむかいニ参帰り申候夫より
  御城江召され両度御吟味候得共[左様 不申]付不申候と申候ニ付かし
  青こもニ而御せ免被成候得者早速申御返し被成候夫より
  夜昼十六人ツゝニ番付居申候而御追払被仰付候
  右御役人ニハ
 
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一 明和七庚寅ノ六月朔日より天気かい清仕候殊之外ニ日照ニ付
    同十三日より
  段雨乞仕候村祭礼ニ付立願懸申候夫よりいせ木宮こもり花笠
  雨こい棚上り川祢ふり花馬五宮参りほうセんし上り村中壱軒
  よりたいまつ三たいツゝ一とりいよりよきかいと川迄立ル恵那山様
  御かま右雨乞致つくし申候其内少々之御里しるしハ候得共田畑不
  残日やけ申候閏六月朔日朝日の出より五ツ頃迄よきあめふり
  申候得共翌日より又々照候而段々雨乞仕候所閏六月八日
  御上より雨乞しはらく見合候様ニ被仰付候四五日やすミ又々御触ニ而雨乞
  仕候 御上より龍王院ニ而御こま被 仰付御領分中村々江御札壱枚ツゝ
  被下尤村役人代之治助両御奉行衆江御礼ニ廻し申候閏六月七日
  村中八組よりいせ木壱本ツゝ宮江揃はし場江引申候夫より段々つゝき
  同八日村中宮ニ而立行仕候二ツ森江村中登り申候夫より宮こもり
  相談申候同十五日おかさきに壱与(くみ)より壱人ツゝ代参立申候十六日宮うわ
  ふき仕候所七ツ時雨ふり出し村雨ニ而少シ畑壱寸計りしめり
  申候夫よりしはらくやすミ同廿日ニ昼よりはしめ申候又々
  御上より龍王院ニ而二夜三日之御祈祷被 仰付廿日御札
  頂戴ニ与頭壱人御代官所江罷出申候村中打寄御札いたゝき
  申此節御談ニ又頭代壱人廻し申候同廿一日村中壱組ニ而弐人ツゝ
  十六人笠木山江登申候同廿二日十六人[三十三番 くわんおん様]葺替仕候
  人数三十人同廿三日十六人笠木山江登ル同廿四日十六人登ル
  同廿五日十六人同廿六日ニハ残り之人数不残登山仕候右七日目ニ
  残人数登り仕舞翌廿七日ニ村中代参ニ恵那山江登り同廿八日
  夜下向仕候惣村中人別ニ而まち請仕候しゝ舞申候而御籠り
  申候七月朔日夜五ツ半時ニ能雨降り申候同二日七ツ時
  より暮合迄大雨あられましりふり候故両日之雨ニ而畑ハ
  そうとうニしめり大悦仕候
 
一 同年日照ニ付はいと申者川ニ上り候由世上評判有之
  ニ付御上様御覧被成度ニ付とらへ候ハゝ早々御台所江差上
  候様ニと御代官所より七月七日被仰付同十日夕方いとほ□
  ニ而宗十郎見付候得共田へ入見うしない候ニ付届ヶ参候故右所迄
  つれ参候所上井之ほつば江入候をかき付ほりつゝき候ハゝ
  少々はいお取申候翌日直ニ持参差上申候是ハさわくま
 
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  たぬきニ而候せとニ而打ころし申候高山ニ而も上組ニ而四ツころし
  申候以上
一 同旱魃ニ付村中より願有之ハ当年ハ上山御す山ニ栗殊之外
  成申候而外村より落ひろい申候先年よりひろわせ不申候殊ニ当年ハ
  別し而之事なれハ外村より一切入不申候様ニ被成被下候様ニと申
  ニ付其段御代官所江御内々申上候所成程尤成事先年より
  不入場なら者其段其方先村江申遣候様ニ被仰候ニ付日比
  野福岡へ申遣候所日比野村ハ惣村中江申渡有之壱人茂入不申候
  福岡庄屋仲右衛門ハ村方江申渡しハ無之毎日く入込申候
  又々御代官江申上候所此方からの差図ニ而ハ無之候得共村
  方ニ而出迎栗取シ免ハ如何可有之哉と被仰候ニ付浅右衛門
  弥平恒八常七忠平四人遣いも畑江参居申候所福岡村
  吉平  庄屋下女弐人メ四人とらへくり取入物迄取申候
  罷帰り夫より福岡から何とか申参候哉と見合候所何も沙汰
  無之十月ニ至吉平庄屋夫ニ浅右衛門方江参頼入物被下候
  様ニ申参候成程庄屋よりもらいニ被遣候事ならハ遣可申候此
  方ハ入物取ニハ不仕候間右入物被下候様ニと申事なら者遣可
  申候とてしやうす一すミふくろ一順てたわら一みしろかます
  一吉平江相渡シ遣申候其節も高山村山江一切入不申候様ニ御申
  被下候様ニ申遣候此方よりも福岡村山江ハ入不申候由申遣候以上
 
一 明和七庚丑年若山ニ虫殊之外付申候松多枯木ニ相成
  町日比野御家中高山蛭川江壱本何程木廻シ十本何程と
  被成御払毛呂窪村定右衛門津戸常衛門丹右衛門甚右衛門江用
  木ニ被仰付其道を同寅七月山明払ニ付枯木先年之通ニ被仰付
  家中町方所々江ひろい申候夫ニ付上地より茂馬参候ニ付下組
  より願有之先年より不参上地迄参候間止メくれ候様ニと申
  ニ付山方御奉行衆御内申上候所其元より上地庄屋江
  直ニ申遣候様ニ御内々有之ニ付十一月廿七日のくろ吉兵衛計
  上地庄屋甚衛門方江申遣候ハ先年より若山江入込不申候事ニ候
 
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  得者不参候様御申渡シ可被下候様ニ申遣候挨拶ニハ成程御申越候而
  承知仕候村方江申渡シ可申候間其通ニ御心得可被下候御念入候□□
  候由申来候右之段山方御衆中江申上ル候以上
  同十二月朔日上地村より使以申越候ハ此間御使若山江参候薪馬
  村方江申渡シ候所馬丈夫成を持候者ハ先年より参来候殊ニ殿様
  之御影ニ立不申候而ハ相成不申候ニ付参候様ニと申候間左様ニ思召
  可被下候由来ル上山奉行衆へ口上書仕差上候所同廿日之朝
  村役人之内両人金平宅江遣候由申来候疱瘡ニ付同八日朝五ツ時ニ
  常八平四郎五人与弐人名代ニ遣候所御申渡ニハ先年より入不来場
  所之者ハ壱人も入不申候由若不存入候ニおゐてハ其村預候村方
  不念ニ申付候由御申渡し被成候ニ付御代官所江も御内申上候
  所其段上地村へ申遣可置由被仰候ニ付同九日吉兵衛
  ヲ以申遣候ハ先頃御申被下候若山入馬之義昨日御山
  奉行所江召よハれ被仰付候ニハ先年より入不来者ハ一切
  入申間敷若入候ニおゐてハ越度可被仰付旨若山入込□
  おん出来候共おろし可申と御申付ニ候間以後入込候ハゝ
  おろし可申候間左様ニ御心可被下候為念之申上置候と
  申遣候得者御尤ニ存候委細承知仕候と挨拶ニ候
  大方山方より御内々ニ而此方ヘハ知らせ不相成御留被遊候
  八日ニ相見へ申候後々此心得可仕候事
 
      善蔵不届之事
一 嘉兵治与下善蔵義去寅秋過知原半右衛門方ニ而
  平四郎兵七半右衛門居申所ニ而平四郎ニそうこん申付段々と
  あいとうへ不埒重り候ニ付御内々申上候所御吟味仕候様ニ御申付
  ニ付卯三月八日平四郎半右衛門呼寄吟味仕候所ニ平四郎口上書
          覚
一 去寅十月日ハ覚不申候私用事御座候而売屋半右衛門方江参居申候
  所善蔵参候而私ニ善蔵申候ハ当年日焼ニ而迷惑いたし候然共
  貴様義ハ御年貢等茂不残上納候様ニ御受合被申候由珍重
  之事ニ候と被申候故私申候ハ村役人衆御見分之上ニ而上納
 
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  仕候様ニ被 仰付候間御受合申置候得共こなし見候得者米
  殊之外すくなく上納も勤かね候様被致候間御断も可申上
  と存候然共いやとも計ねばならぬ御年貢之事ニ御座候故
  御受合申候と申候ヘハ善蔵申候ハなんたら其元ハ米多く
  取被申候人ニ而御座候間上納難義之筋有之間敷候
  惣而村なミ仕ものに御座候丈左衛門杯もへんこうな上納
  請合申候そうたい村なミいたしたハ能と被申候村なミ
  いたさぬゆへニ而御座候と申候私も其言心底ニ相叶不申候
  御上様御大切故御請申候がふとゝきな言と存候得共それ
  /\ニあいさつ仕置候以上
                    高山村
       卯三月十日          平四郎印
       御役人衆中様
        口上之覚
一 此間御尋被遊候善蔵平四郎江被申候事有ていの
 
  喩之様ニ存後ニ入用之事も不存候得共平四郎被申候通之
  覚居申候以上                半右衛門印
       御役人中様
         口上之覚
一 私少シ酒之後ニ而御座候間覚無御座候得共定而
  其通りそうい御座有間敷候此義御断被遊被下候ハゝ
  ありかたく仕合奉存候以上
      卯三月九日        善蔵印
     御役衆中様
  右三通之口上書卯三月十一日七左衛門持参仕候所善蔵酒上と申候而ハ中々
  相済不申候手前も酒のミ申候吉衛門杯も酒ハのミ申候得者酒上と申事
  ハ御上江ハ相立不申候間右平四郎江申候通之口書と候様ニ御申被成
 
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  夫ニ付藤三より庄屋元江差出置古証文も此度此方ニ而見申候間相添差上
  候様ニ被仰付候ニ付其通り善蔵嘉平治代役代筆江申添候得者
  其翌日惣村五人与中として断ニ出申候ハ此度善蔵不埒明成
  義申候ニ付此間村中として善蔵吟味仕候所重々之誤り候間何
  重共何も候思召之通り可仕候間御断被下候由申ニ付左様ならば
  寅ノ御年貢不足不残相済可申是をきほニ御断被下候様ニと
  申参候ニ付成程尤ニ候得共左様なら者証文差出候様ニ可被
  致し夫ニ付ハ忰江判譲可申様ニ可被致候御申渡候得者
  惣村中江断頼候一札此方役所江一札差出申ニ付三月十六日夜
  新兵へ九平両人罷出御断申上候是ならば一通り相立候間
  相済可申御済被下候同十八日惣五人組代壱人ツゝ呼寄右之段申
  渡し申候
         差出申一札之事
一 此度私不届成義申御吟味被 仰付重々不埒明奉誤候
  依之去寅ノ不足米不残何様ニ仕候而成共急度皆済可仕候且又
  忰江判譲り隠居仕候間寄合立合之場江一切出不申候
  御上様不及申村役人衆あいとう之事ニ候茂そうこんヶ間
  敷義少茂申間敷候間此度何重共御内々ニ而御済被下置候
  様ニ御断被遊可被下候為後日受合一札仍而如件
      明和八辛卯三月十五日  高山村本人
                    善蔵
                  同村弟
                    定吉
                  同村証人組代
                  同村五人与
       庄屋組頭衆中様       嘉兵治
        惣五人与頭中様
  右村役所江差出候証文村方江差出し候証文共ニかわこ江入置申候以上
           覚
一 平四郎与孫平帳内清七次男徳之助明和八辛卯三月疱瘡相煩出申候
  ニ付こ屋登せニ付さいの神下こや場江登セ申候ニ付同組平六郎
  こや江参申候ハ此所ニかけ被成候得者私よこざニ而見へ申候間相成不申候
  夫共是非おして御かけニ被成候得者万一私妻煩出し候得者与中
 
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  のこり廻り申候大屋ぼニかけ候得者此足ニ而御代官へ参候と申候
  ニ付こや掛相止メ此方江届ヶ申候ニ付平四郎ヲ御代官様へ内々ニ
  申上候所先年よりこや近場ニ候得者左様申候而も相済不申候
  之間かけさせ候而後平六吟味仕其様成事いわせ置候ハゝ
  能無之候間とくと吟味仕候様ニと御申越被成候故平六
  与代呼寄殊之外せわやき御預り御断申上候と申
  かへし申候夫より惣村五人与頭頼断ニ付一札ヲ取相済し
  申候平四郎与(くみ)江も一札出し断申候由承候是ハ与ニ預り
  居り候 以上
 
       先書ニ有之上地若山江入馬之事
一 其後疱瘡相ひやりニ而私町方江参候所あわや
  ニ而町年寄衆作右衛門殿曽七立合ニ而被申候ハ先頃上地
  入馬ニ付少々かれ是御さ候由承候私共へも上地庄助甚衛門
  殿より内々御申聞候ハ上地村百姓共申候ハ御上様へ御願申上候様ニと
  申候故御願可仕候由御噺ニ候得共夫ハ先々御待可被成候我等高山江引合
  仕見申度由留置申候何卒我等扱候而見申度内々ニ而貴様ニ承度由
  御噺御座候付九平挨拶ニハ其義ハ先達而我等共より甚右衛門殿
  江挨拶申進置候私共疱瘡懸念故得罷出不申候得共山方
  御奉行衆新田金平殿御宅江村役人罷出候様ニ御申付ニ付五人
  与頭平四郎庄八両人遣候節御申渡し先書之通ニ御座故私共
  村方ハ相済居申候由作右衛門殿江申候得ハ夫ハ上地被申候とハ
  甚間違候間我等扱之筋ハ成申間敷候由御申被成候私挨拶
  ニハ成程左様ニ而御さ候先達而右之通リニ被仰付候間夫々
  私共より又々少々ハ入申度とハ得申不上候此段御勘弁
  可被下候申置候者後又々山下曽七殿我等方江参被申候ハ先
  頃上地取合候事殊之外むつヶ敷相成兔角下ニも置す
  上江茂不上と申様成事ニ而貴様方御了簡なくてハ
  相成不申候間村方にもヶ様之いミ合とくと相知申様ニ御挨拶
 
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  以村次申入候昨日も以使被御申
  聞候若山江入込候上地村ト
  引合之義ニ付申語度
  儀有之明八日朝五ツ時前
  村役人中之内一両人新田
  金平宅江被差出候様ニ
  存候巳上
         佐々木治兵衛
   十二月七日 新田金平
   高山村庄屋
      吉右衛門殿
 
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  被下候様ニと度々御申聞ニ付惣村中呼寄我等申聞候ハ此間
  上地馬之義ニ付曽七被参兔角いミ合多候間少しハ此方ニ而も
  了簡致度様ニ内々有之候間少ハき保も立申方可然兔角
  理ニかちほうに落と申事もあれハ分別致見候得と申
  聞候所惣百姓申候ハ中々其儀相成不申候先達而も申上候
  通り入込多ニ相成候得者御山嵐申事ニ付山番等も成兼申事
  故右之段御願申山方御奉行二郎様より急度被 仰付
  其段かしこまり奉候間此方より少ニ而も用捨ヶ間敷義ハ一切
  得致不申候夫共御上より入候様ニと御申付之事ニ御さ候ハゝ夫ニハ
  違背不申上候由きひしき申候故左様ならば口上書
  致差出申候様ニ申候得者其日早速差出申候其口上書ニ我等
  手紙ヲ添町年寄衆江遣申置申候
      村方より差出シ申候口上書之覚
         口上之覚
一 若山江上地より薪取ニ入込候義先年より村方之者不
  覚候処上地村ニ而ハ入込来候由被申候得共先年より入込
  不来ニ付其旨御山方御役所様へ其段御断申上
  置候然処町方庄屋衆御挨拶御座候ハ御領内
  とうようの事ニ御座ニ付少し成共きぼを付申度
  旨御申被成候由ニ付村役人衆少し成共き保立遣
  候様ニと両度迄御相談被成候へ共只今迄ニ而さへ御山
  番等ニ迷惑仕候此上上地入込ニ而段々人馬多ニ相成
  申候而ハ御山番勤方殊之外難義ニ相成可申候間村
  役人衆達而被 仰候而も困窮之御百姓共之義ニ候間
  此儀幾重も御断申候併 御上様より被 仰付
  候ハ無是非違背仕間敷候以上   五人与頭壱人
                         ツゝ
                  与代  一人
         卯九月日
            庄屋頭中様
 
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     我等共より町年寄衆江書状下書之事
一 筆致啓上候冷気ニ相成候得共各様弥御堅余ニ可被成
  御暮奉珍重候然ハ先達而折々御世話ニ被成候上地村
  之儀各様被 仰候通私共ハ委細致承知御百姓中へ追々
  致相談候得共一向不致承知相調不申気之毒ニ奉
  存候御百姓中御預り之御山之儀ニ候間押而申付候儀相
  成不申候大勢之御百姓ニ候間間違御座候而者気之毒ニ
  候間私共方へ之口上書御内見ニ入申候右之通り御座候間
  相調不申候間左様思召可被下候早々以上
      卯九月           高山村
                      九平
       作右衛門様
       曽七様
 
    御隠居様御情去之事
一 明和九壬辰六月十日四ツ時ニ御清去被遊候由同日申ノ刻ニ郡
  御奉行様方より御触状御差被出同酉上刻至来
  翌朝御代官所より御奉行衆 御城江上ル申候
  右ニ付御足軽御払底ニ付急ニ福岡村高山江九人
  被仰付当村より四人仕立同月十二日暮合東方
  為右衛門様江与頭新兵へ同道ニ而遣申候右御役所ニ而
  御城長屋小頭江相渡し可申上之御義直ニつれ行相
  渡申候右人数ニ後藤吉左衛門林宇吉駒田
  吉兵衛青山喜兵衛右四人也
  右御煩候節福岡村仲右衛門我等両人ニ而龍王院江
  御頼申上御祈祷御札差上申候御祈祷願我等御札差
 
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  上ハ仲右衛門同廿日右御礼割合御領内江出ス右下書此内ニ有り
一 右煩之節佐見新田田口儀平御代官所ニ而御祈祷仕差上申度由
  相伺申候ニ付此方御代官井沢孫兵衛殿より御内有之福岡村仲右衛門私両
  人ニ而支配仕御札差上可申由御申被下候ニ付八日七ツ時より御代官様へ
  罷越直ニ龍王院江罷越相願置候同九日八ツ時ニ御札出来度候間
  其節罷出候様ニ被仰候ニ付翌日ハ仲右衛門壱人ニ而御屋敷様江御札
  差上御代官様へ御届申し罷帰り申候右ニ付御礼金三分瓢干
  壱わ之筈ニ相定メ当村ニ而割合仕北方中通南方江両人御尋
  ニ而相廻し申候北方十一ヶ村南中通十三ヶ村五ヶ坂下八ヶ村メ三十弐村
  壱ヶ村百弐拾六文ツゝ出銭相掛り申候右之御礼龍王院ハ毛呂窪
  庄屋覚右衛門を遣申候
 
一 御上様御子様方[壱之丈様 御年六才]辰六月十八日御死去同廿二日
  [お満様 御年九才]御両人様重々御不仕合ニ付ま満りニ候事ニ奉存候
  御代官様江御伺申上候ハ  御上様重々御不幸ニ候間
  何卒御寿命長久ニ被為入候様惣村中当座宮ニ而御こり
  とう百度参仕信心仕度旨御伺申上候得者尤之事
  上江伺挨拶可申由御申被付同廿八日七ツ時御郡奉行
  様方より御切紙参候由勝手次第ニ被 仰付同廿九日
  惣村しやゑんニ而廿九日七ツ時よりこり取夜九ツ時迄ニ相済申候
  七月朔日口上書ヲ以御届ヶ申候下書帳ニ有り
一 上地村ト若山薪出入ニ付辰八月廿七日上地村庄屋甚右衛門与頭
  吉右衛門我等方江参被申候ハ先達御引合候若山出入之義町方
  年寄中あつかい被申候而相済不申候依之先之両人江預ヶ置
  可申由有之所弥々相済不申候かへし被申候ニ付百姓中義其
  まゝニ差置申事相成不申候間願くれ候様ニ達而申候間此間
  御代官様江御願申上候所先年通りニ被仰付高山村江も
  引合可申と被 仰付候間御引合ニ参候此義ハ御願ニ候知原江
  馬おと年之様ニ目立参候而ハ此方御吟味被成候筈ニ候間是より駄賃
  馬之戻りニかれゑた等ひろい参候義ハ大目致くれ候様ニと之御事
 
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  且又下道二筋之義かち人入候義大目ニ致シくれ候様ニと之事ニ候
  我等挨拶ニハ御頼之筋先達而御引合申候通之義ニ候得者
  知原通江被参候義けして相成不申候下道之義若山道と申ニ而も
  無之ぬすミ道ニ候間是江盗ミ被参高山之山番候者目ニ当り
  不申候得者致方も無之夫共目ニ当り候得吟味仕候知原道之義ハ
  一切相成不申候村方申合殊ニ我等よりも申付ちわら一組ハ目付之者
  万一新参之者候得者留置あいつ致切落申筈ニ御座候夫江
  捕テ御出候得者けんか等も出来御互ニなん義も出来候得者
  此義捕テ入候義ハ御無用ニ候と申候得者委細承知致候
  由庄屋挨拶与頭吉右衛門義御代官様先々之通被仰付
  候由之義度々被申候ニ付我等挨拶ニハ先々之通りと之覚も此
  方ニも先々御座候得者此義けつし不申候間左様思召
  可被下候と申被帰候所御代官土屋与次兵衛殿町方
  年寄中江も右御苦労被成被下候若山出入之義[先ニ返事 相伝]
  申候ニ付御礼ニ参候由被申候由村方之者町ニ而承参候
  而殊之外様子かわり申候間是ハ又々御引合置被成間敷哉申ニ付
  同廿九日御代官井沢孫兵衛殿江参内々ニ而申上候所夫ハ大義成
  間之様ニ被存候由御申被成候乍併町方ニ而風ト承参候義ニ候得者
  曽七方江参とくト承又々可申上候由申候得者被 仰候ハ夫ニハ及
  不申候と之御事ニ付町方ニ而承候所弥頭様ニ間違無之ニ付山方
  御役所江内々申上候と存佐々木治兵衛殿江参候所折節森平内殿
  御出被成候所ニ而内々申上候得者夫ハ殊之外成間違其元ニ咄と
  甚右衛門申候とハ大間違居申候由平内殿被申候ハ昨夕甚右衛門参
  咄し候由ニ而承申候左様ニ而ハ無之候上地より庄屋与頭立合参候事ニ候
  得者其元ニ而も立合ハ御挨拶申候方能候万一上地ハ両人之事ニ候得ハ
  聞違等ハ有間敷其元ハ壱人ニ候得者間違等有之間敷哉□後日
  可申事も計難此段勘弁心得ニ可有候事之由御申被
  成候故御噺申帰候道ニ而つら/\仕安仕候ニ兔角
  上地之町方頼之事甚間違居申候得者念為与頭立
  合ニ而右之引合又々仕置候方好様ニ存付使之者ヲ直ニ戻
  与頭百姓代呼寄上地江参甚右衛門御代官所江被出候由夫
 
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  より一家中ニ病人有之間立寄可被申と之内方咄候付何卒
  むかいニ被遣候被下候由頼申人遣被申五ツ半頃帰り被申候夫より右
  廿七日私方ニ而引合申候事間違之様ニ村方之者町へ参
  其御村吉右衛門曽七殿江礼被申候ヲ聞参私咄申候ニ付町曽七殿
  江罷出相尋候所弥々左様之事ニ被申候間殊之外間違故
  今晩又々右之通之御引合申度村方之者共私きやう
  こん申候様ニも存候ニ付御引合ニ参候一昨日引合通ニ私申
  候間間違之所ハ違ひ候様ニ御申可被下候段念入置
  引合申候所毛頭相違無之由被申左様なれハ
  壱人ニも引合ハ間違も仕候間今晩百姓代与頭拙者
  三人ニ而引合申上候是よりハ若山江壱人壱疋も相成
  不申候間左様ニ御承知可被下候と申候得者成程承知
  仕候上之挨拶故立帰り申候右之段間違無之由森
  平内殿江相達置治兵衛殿江今晩ハ夜中ニ相成
  殊ニ夜ふけ候故明日ハ朔日之事ニと申て明後二日可申上段
  申候得者夫ニハ及不申候是より可申聞候間御出ニハ及不申候段被仰
  ニ付御取合宜敷頼置町曽七殿江右之段御咄置罷帰り申候
  咄ニ承候得者翌朔日ニ甚右衛門殿御代官所江右之段被申上
  候由御代官土屋与次兵衛殿様作右衛門殿ニ咄ニ被仰候ハ此事相済
  居申候所曽七九平江挨拶ニハ其程早速相済事なら者
  去秋我等共取掛候節可相済事ニ候と挨拶御尋候此事
  かへしニ参候と被申由甚右衛門申由ニ御仰ニ付曽七作右衛門
  又々新ニ取扱仕候段仰付候様御申被成候得共昨朝作
  右衛門御咄之様子ニ而ハ先々御請得不仕此事私方事
  しす小役ニ而納候事ヲおこしかへ等候様ニ相聞候而も
  役義ニ相立不申候間私左様事申覚無之間九平
  甚右衛門江引合相ただし其上御請可仕と之事ニ相成
  候由曽七殿咄ニ承申候我等上地申候者吉右衛門殿曽七殿江礼
 
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  被申候節曽七殿挨拶ニ去秋我等取懸り候節ハ殊之外む
  つかしく事ニ候が早速相済目出度由挨拶弥相違
  無之と申候ヲ甚右衛門甚間違候様ニ存候と咄し被申候を
  村方之者共立聞候ニ付翌日あわやへ参承候所弥左様之事之由
  承候故御代官様山方御奉行所衆江参御咄申上候夫より上地
  庄屋江与頭新兵へ百姓金兵衛ヲつれ参候而承候所此方被参被申候
  之節我等引合之通昨日あわや江御礼ニ吉野屋御出御咄候とハ
  殊之外間違候様ニ存今日又々引合ニ参候由昨日貴様方江御引合
  之趣私申候而間違之義ハ違候哉と御申可被下候由申置引
  合ニ相成程夫々少も違無之由被申候故其段平内様へ御
  届ヶ申上置罷帰り申候 以上
一 安永元年辰冬高山村次右衛門方江坂下之者之由ニ而伊勢参ニ
  参候而宿かし申候而咄し候所弥坂下者ニ違無之様子弥
  おいせへ参候哉承候得者我等けい父ニ而殊之外内もやか
  ましき故立申候得共さなからいせ参候望も無之何れニ而
  おもや成共かしセくれ候人ニ者おり度由申候ニ付蛭川村
  とうかねしうと利兵へ方ニ人いり候間明日我等参候間まつ同
  道ニ而参見候哉其内一日ニ而も十日ニ而も能候哉と申候得者
  壱日ニ而能候間つれ而仕度被下候由頼申候ニ付つれ参候所好人
  同道くれ候由殊之外利兵へ悦申候なき申候所利兵へふとほう
  そう仕相果申候其つれ行の子札之助と申此者もほうそう
  仕屋みをき申候いまた力も付不申候内久須見江つれ行
  すて申候久須見より殊之外むつかしく申かけシ故御上江も
  蛭川より申上久須見村之事ハけろくほ庄屋挨拶故相済申候
  其後巳三月十三日御代官孫兵衛殿御目付ニ霞上七郎殿御
  下目付ニ山下丹六御足軽弐人御中間弐人被遣とうか年
  利兵へ跡青柳こへい行高山次衛門御庄屋元江御呼ニ而
  ゑんりやう被仰付候巳三月十四日
 
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一 赤河村百姓与左衛門伝六水くし仕候付安永二癸巳
  三月十日東方為右衛門様郡奉行勘定頭安田多中様大目
  付伊藤新平様山中重左衛門様御代桃井瀧右衛門様御勘定
  藤田次郎兵衛様下目付はつとり孫右衛門殿地方ニ森平内殿
  佐々木治兵へ殿上下人数十六人同十六日御帰り被遊候
  駕壱挺為右衛門様 同 多中忰   馬一疋新平様
   上下五人      上下三人  上下弐人
  馬壱疋重左衛門様 同 瀧右衛門様 同次郎兵衛様
一 安永四未年御上御疱瘡被為遊候付夏中折々出水
  故知原ニ張縄仕辰五郎様御病中之御用筋御達し
  申候御悦ひ御ほうひ之御言御座候依之張なわ代として
  銭三百文吉右衛門江被下置候其故張縄ニわらひなわ
  八わ被下候是よりくさり候へ者度々被下候ニ扣被仰付候
  入用之せつ願可申筈
一 同五月辰五郎様御疱瘡御大切ニ付惣村中として
  津嶋代参氏神江日参仕度候由御伺申上候所
  気毒成存付勝手次第ニ可仕候よし御代官様
  被仰付候ハ隣村へも内々しらせゆい可申候由御
  申被成候ニ付蛭川村福岡村へしらせ遣申候
 
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  右御代参として向知原平四郎四月九日出立申候十二日下向
  直ニ御礼差上申候御上御快気被為遊御床場相済
  七月朔日御悦義申上候右ニ付御ほうひとして
  惣村中へ金子百疋被下置候庄屋吉右衛門疱瘡之
  御守り八丈嶋より出候御守り差上申度御願申候
  所被 仰付差上申候ニ付御悦ひ之御ほうひ御代官
  様与右衛門様御ほめ被下右御悦ひとして料紙壱束
  御代官所ニおゐて頂戴仕難有仕合ニ奉存候
一 安永四乙未十一月十三日苗木町吉のや新兵衛参被申候者
  当村御支配之内ニ御うたかひ掛候者御座候由被申候
  何れニ御座候哉と承り候へば武助と申仁ニて御座候
  当月四日之晩棚辺安之進様ニてうせもの仕候間此もの
  吟味仕度御呼寄被下間敷候哉又ハ御役人衆ニて
  御吟味被成候哉と被申候立合ニて吟味可仕候とて
  呼ニ遣申候ば此間木曽ひろせ之山方へ参候由
  承り候ニ付新兵衛殿相談致左候ハへばひろせへ
  呼ニ遣被申候得共只用事有之候由申遣候てハ
  仲々参り申間敷候間親共ねつ病ニて大切ニ
  相わずらい殊ニでき物も仕候て疱瘡之程も
  心元なく急ニ帰り可申由申半右衛門吉兵へ
  両人十四日七ツ時ニ出立五人与頭平兵へ方へ
 
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  つれ参候様ニ申合遣ス政五郎方へ村役人三人伝吉喜兵へ
  新九郎文平金二郎常助宇吉直七多蔵
  平右衛門しめ拾人召連相待居申候夜ニ入候ても帰り
  不申候ニ付四五人向イニ遣申候合次第道ニて
  縄ヲかけ罷帰り候様ニと申合遣し候所土掘
  場ニて出合行ぬけ候てあとニ付向知原より
  鼻廻しからめ取平兵へ方へつれ参候直ニ吉のやへ
  人遣かごニて被参同日九ツ時よりとひかゝり申候所
  弥白状仕ぬすみ取候品九品大井きぐすりやニ
  ひちニ置申し残りハ無之由申候所荷物改申候へば
  二三色持居申候右大井宿へ品々も受返し都合
  十四色程相持金兵ヘ嘉蔵ニ為持吉のや江相渡
  申候所無相違受取此品先様へ相渡候へば此方一件
  相済申候間其元願之義被遊候様ニ申遣し候よく
  十六日願書差上可申口上書願書出来申候処
  同日朝吉のやより手紙為持人遣し候ハ右之一件内々ニて
  相済不申候由棚辺様より被仰候依之御上沙汰ニ
  相成候間御村より御代官様へ当村武助義とうぞく
  仕候ニ付吟味仕候処白状仕候間右之段御届ヶ
  申上候右之使与頭新兵へ同日四ツ頃棚辺安之進様
  より御組曽我八十八殿ヲ以御申被越候ハ其村
  武助義村役人江急度預ヶ申候間にけ
 
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  不申候様ニ念入差置候様ニ御申被遣候奉畏候由
  申遣候翌十七日幸纈与右衛門様御宅江庄屋与頭其五人与頭
  親類之内壱人武助被召候内御吟味被仰付候所弥ぬすミ
  申候由申上候ニ付明十八日御城掛り今日之通召つれ罷出候
  様ニ御申付朝五ツ半時罷出候又々昨日之通り御吟味ニ而
  弥武助ぬす人仕候ニ付入ろう被仰付候而役人罷帰
  申候右ぬすミ取候品々相添田辺安之進様へ村役人
  親類半七両人ニ而相渡し可申由被 仰付十八日暮合
  ニ持参渡し申候十七日与右衛門様御宅ニおゐて与頭壱人
  伊藤与三右衛門様御宅ニ而用事有之候間遣呉候様ニ申参候
  間壱人参候由御申被遊候ニ付常八遣申候御口上ニ此度
  武助安之進方ニ而ぬすミ仕吉野屋新兵衛ヲ頼吟味致
  呉候所弥右之品々出候ハゝ内分ニ而相済可申由新兵へ之引合
  申事ニハ候得共御上へ不申候ニ而安之進家立不申候様成義ニ候間無拠申上候
  新兵衛村役人江も右之段咄合置候間今更私うそを付たましたる様ニ而
  相立不申候と申甚腹立申候私たましたるニ而ハ無之間此段其元立江も
  引合申度候ニ付右之断置申候其わけ庄屋同役人ニも能咄呉候様ニ
  御申被遣候同十八日御城懸り親定吉親類半七庄屋与頭五人与頭御召ニ而参
  候所弥々十七日申上候通ニ而ろう入被仰付壱家親共御しかり定吉義ニハ
  村方之外江入不申候段被 仰付罷帰り申候屋しない之義ハ壱家共ニ被 仰付
  よしのや新兵へヲ頼申候其後たき場ニ而打首ニ被仰付其日
  直ニ右御役人衆様方定吉方江御出十文字ニ而へいもん
  被 仰付一廻りニ而御免被成候右入用金福岡村こんや
  又兵衛より出し申候右之入用書付ハ黒かわこニ入置申候
 
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  右者伝馬出入金ニ差詰り御無心申上候所御取立
  被下慥ニ請預り申処実正也此払金之義者
  来戊ノ暮より未之暮迄中年十ヶ年之内
  一ヶ年ニ金四拾五両宛年々急度相勤
  可申候此質入ニ者蛭川村百姓面々作
  徳米三拾石毛呂久保村百姓面々作徳米
  拾五石姫栗村百姓面々作徳米拾五石
  三村作徳米合六拾石之分書入ニ仕候
  若右之書入米直段高下等御座候而も
  右払金四拾五両急度相勤可申候右
 
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  三ヶ村之内壱ヶ村不足仕候而も二ヶ村ニ而支配
  支払金少而も相違仕間敷候年数之内
  何様之義出来仕右払金相滞り申候ハゝ
  役人共并加判之者ニ而支配仕り少茂
  御損掛御苦労申間敷候為後日証文
  仍而如件
    安永六丁酉十二月十一日[三ヶ村より 無尽手形]
 
    安永九辛丑春村方御上林被下候事
 
  去寅ノ日焼不足段々年賦切替願仕候所相済不申候
  依之上林十壱ヶ所二ツ森下嶋平江立替願相済上林
  七ヶ所被下候内段不立上壱ヶ所としたふち三右衛門上壱ヶ所
  神田林壱ヶ所水上壱ヶ所中屋壱ヶ所西か洞両平二ヶ所
  メ七ヶ所被下候而入札ニ仕候所札数二枚落札木つミ沢善六
  二番札吉の屋落札十三両あまり下直ニ存候故御代官様
  江右之段申上候所先見合ニ仕候由御申付有之故見合
  罷在候所当所仁左衛門江直ニ御売被成候右落札ニ壱両
  増ニ而山さらへニ被下候善六札ハ川入計ニ而候あまり下直ニ候
  由山さらへニ而ハ下直ニ候由申上候所川入木材木之札入
  ニ候由不申上候故間違等出来致候段村役人ふちやう
  法之由御しかり御さ候故御断申上候前度入札
  御目掛置候故御承知之事と覚きわみ不申上候
  仁左衛門江被下候事も村役人ニハ御内談無之かわり
 
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 たる事ニ奉存候以上   但五月より切掛り申候
       丑閏
        [五月 二日]晦日
     とち山植木之事
  安永九辛丑春村中壱軒ニ付杉桧五十本ツゝ
  持寄植置申候惣村林ニ有之候間後々其心得
  可有之庄屋吉衛門頼ミニ仕植させ申候所ハわた瀬
  上下之こうやニ而候
 
     立山与石林福岡境板橋石橋ニ仕候事
 
一 天明二壬寅二月十一日両村三十人取石引道具相揃石引申候様ニ拵へ
  翌十二人高山村より五十三人福岡村より七十七人合百三十人ニ而引付
  申翌十三日ニ引渡し其日二十二日同様之人足大木の分其まゝ
  差置十四日一ヶ村より廿人ツゝ四十人ニ而大木の分取掛申候
 
 
*安永九年=庚子
 安永十年=辛丑
 安永十辛丑年四月改元。天明元年となる