解説
明治末年、師である保井抱中(宮内省御用職)が、皇居桐之間桐花蒔絵大書棚の製作を拝命した。それに伴い、弟子である吉田包春は家族を伴って東京に引っ越し、保井抱中の作業を助けることを決めた。その包春の強い決意に敬意を表して、京都や奈良の帝室博物館館長を勤めた久保田鼎(くぼたかなえ)、貴族院議員であり奈良帝室博物館学芸委員を勤めた中村雅真、奈良の豪商であった関藤次郎(せきとうじろう)、そして包春の兄である吉田立斎(1867-1935)、北村久斎(1875-1959)らが大正2(1913)年2月5日に宴を催した。その際に久保田鼎、中村雅真、関藤次郎の三名が賛辞を送ったことをそれぞれが記した書である。
漢文
奈良吉田抱春業髹漆。曩與同志創一會、名曰奈良漆工青年會、善
願同業相切劘、競技對巧、以一新奈良漆器之面目也。余誤見推擧乏會
長。市内長老中村雅真・関藤次郎及橋井善二郎諸君亦參與會務、誘
導核指甚力、蓋其所以奬励抱春等、即是所以奬励奈良産業関係匪淺
也。頃抱春將挈家東游。問其故、曰「師抱中奉禁裏従事製作、欲使某有
所補助、是以往也。」余聽之喜甚、謂助師従事禁命榮美、不宜不擧一抔以賀之。其
人能為此榮、而足以不愧長老誘導之力居多、不宜不請三君子席以壯其行色
也。於是開祖筵于茅屋、以抱春為主賓、併招其二兄、立齋及久齋、而関君亦恵
然見臨。肴雖野、足以侑酒、酒雖薄、足以催興。清游閑話、罄一夕之歡而散、當時
大正二年二月五日也。獨恨橋井君久病在蓐、不能邀之、而中村君則赴約于
遠方、夜闌帰家遂不果来□。此夜関君為抱春詠和歌一首、越數日、中村
君亦和賡之。皆慇懃諷諭、莫不尚其濟有終之美也。因余請二君、故書其
歌于此紙、余録其由于上、以贐抱春云爾。
理堂 鼎印(陰文)・理堂(陽文)
願同業相切劘、競技對巧、以一新奈良漆器之面目也。余誤見推擧乏會
長。市内長老中村雅真・関藤次郎及橋井善二郎諸君亦參與會務、誘
導核指甚力、蓋其所以奬励抱春等、即是所以奬励奈良産業関係匪淺
也。頃抱春將挈家東游。問其故、曰「師抱中奉禁裏従事製作、欲使某有
所補助、是以往也。」余聽之喜甚、謂助師従事禁命榮美、不宜不擧一抔以賀之。其
人能為此榮、而足以不愧長老誘導之力居多、不宜不請三君子席以壯其行色
也。於是開祖筵于茅屋、以抱春為主賓、併招其二兄、立齋及久齋、而関君亦恵
然見臨。肴雖野、足以侑酒、酒雖薄、足以催興。清游閑話、罄一夕之歡而散、當時
大正二年二月五日也。獨恨橋井君久病在蓐、不能邀之、而中村君則赴約于
遠方、夜闌帰家遂不果来□。此夜関君為抱春詠和歌一首、越數日、中村
君亦和賡之。皆慇懃諷諭、莫不尚其濟有終之美也。因余請二君、故書其
歌于此紙、余録其由于上、以贐抱春云爾。
理堂 鼎印(陰文)・理堂(陽文)
書き下し文
奈良の吉田抱春は髹漆を業とす。曩(むかし)同志と一の會を創り、名づけて奈良漆工青年會と曰ふ。同業相切劘し、技を競ひ巧を對し、以て奈良漆器の面目を一新せんと善願する也。余誤りて乏會の長に推擧せらる。市内の長老中村雅真(がしん)・関藤次郎(せきとうじろう)及び橋井善二郎(ぜんじろう)の諸君も亦た會務に參與し、誘導核指甚だ力(つと)む、蓋し抱春等を奨励する所以なり、即ち是れ奈良の産業を奨励する所以関係淺からざるなり。
頃(ちかごろ)、抱春將に家を挈(ひっさ)げ東游せんと欲す。其の故を問はば曰く、「師保中禁裏を奉じ製作に従事す、某(われ)をして補助する所有ら使めんと欲す。是(ここ)を以て往く也」と。余之を聽き喜ぶこと甚し、師を助け禁命に従事するは榮美なり、宜しく一杯を擧げ以て之を賀さざるべからずと謂(おも)へり。其の人能く此の榮を為す、而して長老誘導の力の居多なるに愧(は)ぢず、宜しく三君子を席に請ひ以て其の行色を壯とせざるべからず。是(ここ)に於て祖筵を茅屋に開き、抱春を以て主賓と為し、併せて二兄、立齋及び久齋を招く、而して関君も亦た恵然として臨まる。肴(さかな)は野なりと雖も、以て酒を侑(たすく)るに足り、酒は薄しと雖も、以て興を催すに足る。清游閑話、一夕の歡を罄(つく)して散ず、時に大正二年二月五日に當る也。獨り恨むらくは橋井君は久しく病みて蓐(じょく)に在り、之を邀(むか)ふる能はず、而して中村君は則ち約に遠方に赴き、夜闌(た)けて家に歸(かえ)り、遂に来るを果せず。此の夜、関君は抱春の為に和歌一首を詠ず、數日を越えて中村君も亦た之に和し賡(つ)ぐ。皆慇懃に諷詠し、其の有終の美を濟(な)すを尚(ねが)はざる莫き也。因りて余は二君に請(こ)ひ、故(ことさら)に其の歌を此の紙に書かしめ、余は其の由(よし)を上に録し、以て抱春に贐(はなむけ)すと爾(しか)云ふ。
理堂 鼎印(陰文)・理堂(陽文)
頃(ちかごろ)、抱春將に家を挈(ひっさ)げ東游せんと欲す。其の故を問はば曰く、「師保中禁裏を奉じ製作に従事す、某(われ)をして補助する所有ら使めんと欲す。是(ここ)を以て往く也」と。余之を聽き喜ぶこと甚し、師を助け禁命に従事するは榮美なり、宜しく一杯を擧げ以て之を賀さざるべからずと謂(おも)へり。其の人能く此の榮を為す、而して長老誘導の力の居多なるに愧(は)ぢず、宜しく三君子を席に請ひ以て其の行色を壯とせざるべからず。是(ここ)に於て祖筵を茅屋に開き、抱春を以て主賓と為し、併せて二兄、立齋及び久齋を招く、而して関君も亦た恵然として臨まる。肴(さかな)は野なりと雖も、以て酒を侑(たすく)るに足り、酒は薄しと雖も、以て興を催すに足る。清游閑話、一夕の歡を罄(つく)して散ず、時に大正二年二月五日に當る也。獨り恨むらくは橋井君は久しく病みて蓐(じょく)に在り、之を邀(むか)ふる能はず、而して中村君は則ち約に遠方に赴き、夜闌(た)けて家に歸(かえ)り、遂に来るを果せず。此の夜、関君は抱春の為に和歌一首を詠ず、數日を越えて中村君も亦た之に和し賡(つ)ぐ。皆慇懃に諷詠し、其の有終の美を濟(な)すを尚(ねが)はざる莫き也。因りて余は二君に請(こ)ひ、故(ことさら)に其の歌を此の紙に書かしめ、余は其の由(よし)を上に録し、以て抱春に贐(はなむけ)すと爾(しか)云ふ。
理堂 鼎印(陰文)・理堂(陽文)
中段和歌
雅真(印)
おもふ
わけめとそ
わさを
をのか手
匂ふまて
にはに
雲ゐの
九重の
おもふ
わけめとそ
わさを
をのか手
匂ふまて
にはに
雲ゐの
九重の
下段和歌
春日野の
花をみやこに
うつしうゑて
さかせにほはせ
君か手わさを
藤次
(印)
花をみやこに
うつしうゑて
さかせにほはせ
君か手わさを
藤次
(印)