那須原飲用水路は、那須野ヶ原大農場の飲用水路として明治15年(1882)11月に開かれた。那須疏水の兄弟と言うべき用水である。
取入口は那須疏水の取入口から約2km上流の那珂川右岸(那須塩原市細竹)で、本幹水路は西岩崎から青木方面に南下し、蛇尾川以南は那須疏水本幹水路に沿って千本松に至っていた。かつてこの用水の路線は不明で、大半は那須疏水と同じ、と言われることもあった。手前みそながら筆者はこれを明確にしようと、昭和40年代から50年代にかけてあちこちの山林を数十回踏査して確認した。その結果、本幹の水路のすべてが別であることがわかった。
分水路は東原地区に2本、西原地区に2本あったようであるが、詳しくは不明である。ただ後の那須疏水の分水路として利用された所が多いようである。
ではどうして、この用水が開かれたのであろうか。印南丈作や矢板武らが運河開削に情熱を傾けていた明治13年(1880)、那須野ヶ原にいくつもの大農場が出現して開拓事業が始められた。ところがもともと水利に極めて乏しい所で、開拓者や家畜の飲用水にも事欠いていた。地域によっては2~3kmも離れた川まで天秤棒をかついだり荷車をひいたりして水を汲みに行かなければならなかった。
そこで明治13年9月、農場関係者は飲用水路の開削を願い出た。その工費は、2万2,707円余であった。国ではその必要性を認め、特に前年には伊藤博文や松方正義の視察もあったことなどから、国の起業基金から支出されることになった。
那須原飲用水路の位置 〔「那須野ヶ原の疏水を歩く」〕
那須原飲用水路の取入口周辺略図
〔「那須野ヶ原の疏水を歩く」〕
こうして明治14年(1881)9月に着工された。しかし途中で資金を使い果たし、新たに3万4,801円余が必要になった。そこで追加予算を願い出るが、当初の1.5倍もの追加予算要求は容易に認められず、「続願」の末に認められた。工事は再開され、明治15年(1882) 11月15日に開通式が行なわれた。これにより、那須野ヶ原大農場の飲用水問題は「一応」解消された。飲用水路問題が見通しがついた段階で運河の計画が再び進められ、後に変更して那須野ヶ原大農場の灌漑用水を目的とする那須疏水が明治18年(1885)に開かれた。
[『那須疏水百年史』]
なお那須疏水を「新堀」と呼ぶこともあり、那須原飲用水路は「旧堀」とも呼ばれた。
那須原飲用水路の取入口があったあたり ※細竹
※何も残っていない 〔平成11.5〕
水路用に築かれた石垣(外側)※細竹
※取入口推定地の数百m下流 〔平成18.7〕
鹿野崎の飲用水路跡 〔平成15.2〕
取入口推定地近くにあった石垣 ※細竹 〔昭和46.12〕
青木南部の飲用水路跡 〔平成12.4〕
千本松の飲用水路跡 〔平成8.10〕