馬と追はぎ

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       明治後期のころ
 暗いうちに起き出し、荷馬車をひいて小石川や牛込まで行くのは、跡とりである父親の役目です。前日から荷拵えをして置いた大根や芋等をせり売りし、帰りには下肥を積んで帰るわけなのですが、売り上げの小銭もいくらか腹掛けのどんぶりに溜る頃は、夕方になってしまう事もしばしばです。
 帰り道、冷酒を一ぱいひっかけて、目白の坂を通り江古田近くまで戻る頃は、日もとっぷりと暮れてしまいます。一つの集落を過ぎると、次の部落までは一軒の家も無く、鼻を摘まれてもわからぬ位真暗です。すいどっぱた(千川上水)なども恐ろしく淋しい道でした。ポックリポックリひずめの音を聞きながら、荷台でうとうとしていた父親は、馬の異常に気がつき、所辺をすかして見ますと黒い人影が近づいて来ます。「はてな?」と思う間も無くその人影は、いきなりとびかゝって来たのです。追はぎの話は、よく身近な人から聞いてはいましたが、まさか自分が襲われようとは夢にも思っていませんでした。追はぎは「金を出せ!」とばかりに刃物をちらつかせてすごんでいます。父親はとっさに「三十六計逃げるにしかず……。おとなしくしていれば手荒な事をすることもあるめぇ」と思い、有り金全部投げ出して逃げることにしました。傍にいる馬の長い顔にしがみついたまゝ、一生懸命逃げました。「ナンマンダブ……、ナンマンダブ……」とお題目を唱えながら、やっとの事で家にたどり着いたと言うことです。